遅ればせながら「21世紀の『共産党宣言』」を論ずる書評

八束はじめ
アントニオ・ネグリ+マイケル・ハート『〈帝国〉』
アントニオ・ネグリ+マイケル・ハート『〈帝国〉』
2003年1月発行
以文社
定価:本体5,600円+税
ISBN4753102246
579頁

まず、今年のはじめのほうに出た本なので、書評としてはいささか遅きに失していることをお断りしておきたい。それに政治思想および現代世界論であって、本欄の主旨である建築や都市計画関連の本ではない(あとにも触れるが、公共領域の変容とかをマイク・デイヴィスの本などを引きながら論じてはいるが)。しかし、この連載をはじめるにあたって編集部から示唆された本でもあり(ここまで延びたのは読む暇がなかった書評者の怠慢である)、何より『10+1』本誌で私が連載をはじめた「グローバリズム」にはもろに「被って」いる。こういう分野では稀な、刊行前から話題を呼んでいた全世界的なベストセラーである。読んでおかないと話にならない、らしい。ということで遅まきながら読んだ次第である。

ネグリに関しては随分昔から名前だけは聞こえていた(もう一人の共著者のハートは彼の門下のアメリカ人)。アウトノミア運動の指導者であり、「赤い旅団」による(とされた)元首相モロの暗殺事件の首謀者の容疑で逮捕の直前にフランスに逃亡、その後だいぶたって帰国し、収監され(彼の注目するスピノザのように、そこで多くの執筆がされた)、現在でも仮放免の身分らしいが、われわれの分野でマルクス主義の理論家といえば、私も随分翻訳にも関わった故マンフレッド・タフーリがいた。世代的にも近いし、どういう関係なのかという問いをもらったことはしばしばあるのだが、よくわからない。先年来日したマッシモ・カッチャーリを間に挟むと、カッチャーリは『コントロピアノ(反計画)』誌でネグリとつながりがあり(共に編集をしていた)、また『〈帝国〉』が出るとカッチャーリはネグリを自分の教えているヴェネツィア建築学院に呼んでシンポジウムをしているが、同院はかつてタフーリが教鞭をとっていたところであり、タフーリは『コントロスパッツィオ(反空間)』誌を含めてカッチャーリとは関係が深い、というよりもタフーリが自分の分野で影響を認めたほとんど唯一の同時代の理論家がカッチャーリである。しかし、タフーリとネグリの関係はそれ以上は知らない。とりわけ晩年は現代のことからルネサンスに回帰していたいわば書斎派のタフーリと、アウトノミア運動への関与以来アクティヴィストであったネグリとでは、そもそも肌合いの違いはあるかもしれない。ネグリはフランス滞在中にとりわけフェリックス・ガタリと親しかったようだが、ガタリはやはりアクティヴィストであり、ドゥルーズ/ガタリが「リゾーム」のような概念を行動の指針のようにしてしまうことに対してタフーリは批判的に書いていたから(『球と迷路』の序文)、必ずしもソリが合わなかったとしても不思議はない。しかし、これ以上「語ることができない」ものに対しては沈黙を守るしかない。

さて、『〈帝国〉』である。評判の書であり、書評も山ほど出た(『現代思想』誌に至っては特集号を組んだ:本年3月号)、しかも圧倒的に好評であるらしいこの本について、一介の建築屋に何を言うことがあろうとは思うのだが、正直一読していささか戸惑った。確かに内容的にもつづいてはいる『構成的権力──近代のオルタナティブ』([杉浦昌昭+斉藤悦則訳、松籟社、1999]これは難解だがすこぶる印象的な本だ)などと比べて圧倒的に平易であり、邦訳で500ページを超えるがあっという間に読めてしまう、というのはいいとしても(ただし、ネットでいろいろな評判をさらうと、チョムスキーやアナーキストのサイトなどでの評価では、エリート主義的で難解なテクストである、何故庶民にわかるような言葉で語らないのかという批判があるらしい)、内容的にもどうも平和裡(?)なのだ。「世界市場は戦争を欲しない」だって? いやこのテーゼに100%反対というわけではないのだが(賛成でもない)、それにしてもこれが「テロリスト謀議」容疑で国際指名手配を食らった(不正確かもしれない。その場合はご容赦)著者の本か? ちょっと風通しが良すぎはしないか? スラヴォイ・ジジェクが「21世紀の『共産党宣言』」であるといったというのが何処かのキャッチコピーとして使われているのを目にしたが、ジジェクは本当にそういったのだろうか(怠慢で申し訳ないが、前記『現代思想』の特集号に掲載されているジジェクのテクストはまだ読んでいない。でもそのタイトルは疑問形である。つまり、「『〈帝国〉』は21世紀の『共産党宣言』か?」)。

書評などを読んでみても、フォーカスのほとんどが二つの概念をめぐる議論に集まっている。ひとつは、(当然ながら)「〈帝国〉」という概念、もうひとつは翻訳されずに「マルチチュード」とされている概念である。「〈帝国〉」はわかりやすくいえば、グローバリズムの主体である資本主義のシステム(ないしネットワーク)であり、近代における(国民国家に基盤を置いた)帝国主義にとって代わるポスト近代の(唯一の)支配の主体である。後者は、それに抵抗する(と著者たちが期待する)主体で、スピノザからとったものだが、国民でも階級でも、また大衆や民衆など既存の社会的枠組みとは別のものに依拠した集団のことを指す。ただその多様性が強調されており、それが既存の階級概念などとは一線を画すためであることはいいとして、仮説にせよ具体的に述べているところが少ないので、極端に言えば烏合の衆にもなりかねないところがある──「権力」を「構成」する主体ではあるだろうからそうではないのだろうとしても、新しい思い入れを吸収する魅力的なキャッチフレーズという感がなくはない。

もし、この本に抵抗のための新たなソースなり指針なりを左翼が見つけたというなら、それはまた何とも寂しいものだ。その例かどうかは知らないが、『朝日新聞』に載った三浦雅士氏の「グローバリゼーションが行き着くところまで行き着いたいまこそ、万国の労働者が結束して『インターナショナル』を歌うべき好機、つまり革命の好機であるということである」という書評は、また思いきって能天気な要約だが、こう言ってしまえば、本書は帝国主義的段階の資本主義に対する国際的な労働者の叛旗=革命というレーニン主義的なテーゼのポストモダン版ということになる。もちろん、前述の定義からいっても、「万国の労働者が結束して」という話ではないわけだろうが、それを「マルチチュード」に置き換えればいいというものでもあるまい。すでにいろいろと比較されているように、グローバライズされた体制という点ではすでにウォーラーステインの世界システム論があり、これはそもそも資本主義の発生以来のポテンシャルである(マルクスや、それを承けたレーニンの資本主義分析も同様)という主張だが、ネグリ/ハートは、「〈帝国〉」の現実(ポストモダンな条件)は新しいものだと言っているものの、そしてウォーラーステインが主として経済に比重をかけているのに対してネグリ/ハートは政治学を中核として論じてはいるものの、私にはやはり二番煎じの感を免れがたい。

「マルチチュード」のほうも(多種の解釈に対して開かれているとは言えるとしても)、そもそも概念として曖昧だということは指摘したが、「アソシエーション」とか「トライブ」とか「分衆」とか「少衆」とか、似たような概念にわれわれは随分つきあってきた。上にも書いたように、これらの概念はある種の共通パラメータ(縁?)を中心にまとまった集団を意味している。「マルチチュード」がどうなのか、その辺はどうも明らかではない。ちなみに、「分衆」とか「少衆」とかはポストモダン的な(つまりポスト大衆社会的な)マーケティングの世界で使われた用語である。実際に本書でもマーケティングに言及した箇所がある。もちろん、そうして悪い理屈はないし、かつてセゾン・グループの社史刊行の一環として、多木浩二氏、今村仁司氏、内田隆三氏らの研究が発表されたくらいだが、それでも、捏ち上げの容疑とはいえテロリストと目された著者がマーケティング論か、という感想をもらした書評にお目にかからなかったのは不思議だ。偶々見なかっただけ、だろうか、それともそんな馬鹿な感想をもつのは建築屋くらいなものなのか?

インターネットで書評を探っていた時(これはまたグローバル時代的だが)、面白かったのは韓国の新聞などでの書評がまとまって翻訳紹介されていることだった。韓国では日本より先に翻訳が出て(2001年)、刊行直後に増刷を重ねたのだそうだが、その内容面はともかく、共通して韓国やアジアの事情に引き付けた議論がなかったのは(ネットに集まった10指に満たない書評で一般化するのは無理があるとはいえ)いささか解せなかった。いや日本の論者にしても事情はさして変わらない。これはグローバル化が進行して、「〈帝国〉」ではアジアの特殊事情などは相対的に小さな差異でしかないということなのか? 確かに、冷戦体制の崩壊以降(ネグリが日の当たるところに出てきたことはこれと無縁ではないだろう)、東西の対立構造は無化されたが。一層激化する南北の問題など世界の均質化が進んでいるわけではない。ネグリ/ハートもそう主張しているわけではない(そう言ってしまったら、ネグリ/ハートとフランシス・フクヤマの違いはなくなる)。

この辺りでちょっと細部に踏み込んでみよう。ネグリ/ハートはここではナショナリズム(ネーションの問題)の相対性を指摘している。つまり、彼らは、ヨーロッパの外部ではネーションの概念は異なった働きをすること、つまり、それは支配者の手のなかにあるときは静止状態や秩序の回復を助長するものであるが、非従属者の手のなかにある時は変化と革命のための武器となるように見えるというわけだ。後者の問題をネグリ/ハートは「サバルタン・ナショナリズム」とも呼んでいるが(「サバルタン」はもともとグラムシの概念で、非従属者の「マルチチュード」を意味する)、その進歩的性質は外部の諸力からの防衛線として役に立つ限りにおいて成立する両義的なものであり、進歩的であると同時に時には反動的ともなりうる両刃の剣だと言う。これは正しい指摘である。ポストコロニアル状況にある「アジア」が語られる時、往々にしてそれはこの両義性を捨象してしまいがちだ。つまり民族の自立なり独立なりを固定して擁護してしまう時、その言説は『〈帝国〉』もその一翼を担っているはずのポストモダンの哲学が宙吊りにしたはずの主体(アイデンティティ)の問題をまったく無垢の状態で擁護してしまいかねない。ネグリ/ハートはさすがにこの辺は戦略的な意義に限定している。ちなみに、この書評の範囲は超えてしまうが、近年東アジアの近代史の問題に関して、それをリヴィジョンから防衛しようとする人々(そのなかにはデリダを学んだ専門家も一人ならずいるわけだが)にこの傾向が強いのはどうしたわけか? ポストモダンの相対主義──それは「国民の歴史」が代表するような歴史のナラティヴの相対=主観化にもつながる──がもたらしうる政治的無力に対する(デリダ本人も含めての)反省があるのはいいとしても、単純に引っくり返すだけなら反動でしかないと思うのだが。

しかし、上記のネグリ/ハートの指摘はそれでいいとしても、ならばその先にどのような問題が拡がるのかについては本書は具体的には教えてくれない。彼らは、マルクスがイギリスの統治下のインドに関して行なった分析に言及しながら、彼が東インド会社の野蛮さを指弾しながらも、イギリスの進出以前の社会(専政共同体でもある村落社会)も到底擁護しうるものではなく、この二つとは違う不服従と自由を選ぶしかないとする時、マルクスはインドがもつ異なったポテンシャルには気付いていなかったと批判するが、それは「21世紀の『共産党宣言』」の著者たち自身にも該当するのではないか? インドがもつ異なったポテンシャルとは何か、それを現代の「〈帝国〉」においてどうなのかを本書は見せてくれない。つまり、彼らにあっても、おおむねの記述はやはり西欧社会のモデルの分析に終止してしまうのだ(すぐあとに議論しているように、西欧的な理論にと言っているのではない)。それでは、「〈帝国〉」の内部に広がる不均質さから生じる根本的な力の流れを見ることは難しい。

このことをさらに見にくくさせているのは、上記の例で言えばマルクスがヘーゲルから引き継いだアジア=停滞論のようなものに対するポリティカル・コレクト的な禁忌である。差異に価値を安易に貼付けることは差別になるが、かといってこのことをヴァリュー・フリーにしてしまうことはただの相対論にしかならない。例えば、極東を中心としたアジアの問題を意識の落差として考察している孫歌(スン・ゲ)は、トランスナショナルなアジアの知の共同体をつくろうとする試みにおいて西洋中心主義を排することは皮相な議論にしかならず、結局は西洋の外に純アジア的な議論を行なうことは不可能であり、西洋の理論を起点とする議論はゆるがないことを確認している(孫歌『アジアを語ることのジレンマ──知の共同空間を求めて』岩波書店、2002)。これは彼女の本のタイトルを借りて言えば、「アジアを語ることのジレンマ」であり、ネグリ/ハートには──ほとんどやむをえないこととはいえ──ここまでの問題の襞に入り込むことはできていない。ポストコロニアルな「〈帝国〉」はこのようなジレンマに満ち満ちているはずなのだが......。

この本に関しては歴史的にも地理的にもまた分野的にもあまりに広範な内容が扱われており、そこがまた受けているようでもあるが、それはまた記述に折衷的、要約的な弱さを与えている。例えば、上に書いたように、公共空間の変要としてマイク・デイヴィスの『要塞都市LA』(村山敏勝+日比野啓訳、青土社、2001)に言及してはいるが、デイヴィスの分析は興味深いとしても、資本のグローバル化が都市やその公共領域に引き起こしている変容については、この例示だけではあまりに少ない。例えば、私も出席したワイマール・バウハウスでの「グローバリズム」をめぐるシンポジウム──ほかにはフレデリック・ジェームソンやサスキア・サッセンも出席していた──のプレゼンテーターの一人であるインドのラヴィ・スンダラム(ニューデリーの「先進社会研究センター」)は、インドが極めて発達した情報社会であること(これはいまやよく知られている)に言及しながら、しかし、そのパソコンの売買の大部分は伝統的なバザールで行なわれるアンダーグラウンド(といっても大っぴらにお天道様の下で行なわれているわけだが)の取り引きによっているという。それはLAの要塞化(陰湿な合法性)とは対照的なグローバリズムの形(陽気な非合法)であるが、極めて面白い。かくて、差異はおそらく無限に展開しうる。もちろん本書では均質化の進行が叙述されているわけではないが、差異を強調するなら諸相を広く具体的に語らない限り表面的な指摘に留まるのはやむをえない。この膨大なテクストが全部ネットでアクセス可能になっている(英語版に関してだけだが)という情報社会的なあり方にも関わらず、ここで述べられている情報化を通したグローバリゼーションの説明は、もはや大衆啓蒙書は飽いた私には大いにもの足らない。

この書評で他のさまざまな細部に及ぶことは無理だが、最後にひとつだけ私の関心に近い問題を挙げておこう。ネットで探した書評で一番関心をもったものに加藤哲郎氏(一橋大学、政治学)のものがあるが、そこで加藤氏はネグリ/ハートの立場を「アグリエッタ、リピエッツらのレギュラシオン理論との近似性」があると指摘している。これは専門外ながら私も感じていたので関心をもったにすぎないが(語るに落ちたかな?)、さらに言ってしまえばこの指摘はネグリ/ハートの修正主義的な路線変更を示唆する。レギュラシオン派もネグリ/ハートもポスト・フォード主義パラダイムを論じている点で共通しているのだが、加藤氏はそれが「〈安全保障国家〉というフーコー風現状規定やグローバル化の中での〈国民的競争国家〉」につながっているという。フォード主義パラダイムに関して言えば、マルクス主義が資本主義のなかにそれとも連動するケインズ主義を産み出したとすれば、ポスト・フォード主義パラダイムはレギュラシオンの機構のようなものを生んだとも言えるわけだから、「21世紀の『共産党宣言』」によるこの位置づけは当てはまるわけだが、実は、これは「〈帝国〉」というよりも「帝国主義」そのものとも無縁ではない。例えば現在の社会(とりあえず福祉的な社会とされる)を総力戦下の状況のある部分の延長であるという分析を行なっている山之内靖氏の議論で核になっているのは大河内一男の生産力の議論であり、これはレギュラシオン議論とすこぶる近い(山之内氏は「裏返しのケインズ理論」と形容している。山之内靖『システム社会の現代的位相』岩波書店、1996)。となると、「〈帝国〉」には先の大戦下をもたらしたもの、あるいはその帰結がいわば棘のように刺さっていると言うこともできる。問題は先にのみならず過去にも絶えず送り届けられる。先の主体の問題も含めて、ポストモダンは、容易にモダンなパラダイムからの脱出口を用意してくれそうにはない。


(文字通り)補遺
と、ここまで書いて脱稿にしようと思ったところで、編集部がジジェクの書評を送ってくれた。何だ、いたではないか、この本の「好評」に屈しなかった書き手が。上に書いた疑問形の問題は、やっぱりというか、反語だった(英語のタイトルをそのまま訳すと、「マイケル・ハートとアントニオ・ネグリは21世紀のために『共産党宣言』を書き直したのか?」)。この本の書評で唯一読む価値があるのはこのジジェクの書評だと言ってもよい。ジジェクはネグリ/ハートが旧左翼が「グローバリゼーションやデジタル化の力学に関する深く保守的な見解に染まっている」ことを批判するところまでは認めながら(つまりそこまでは「21世紀の『共産党宣言』」たる資格があると認めながら)、「それにも関わらず、人は直ちにハートとネグリの分析に対して諸々の限界があるという感覚を持つ」。そうだよ、その通りだ。けれどほかの人たちはそれをあまり言わなかったではないか? 私がとどのつまり分析が抽象的すぎると不平を漏らしたのに対して、ジジェクはその終わりでなされる三つの「実践的提案」(私には──それまでの叙述の物理的な厚さに比して──ほとんどそのようにすらとれなかったもの)を「アンチクライマックス」と評している。彼に言わせれば、本書は「ラディカルな測定のために必要な空間をいかに創造するのかについての根本的分析に」達していない。したがって、それは「前マルクス的書物にとどまっている」。邦訳で10ページの早くも4ページめでジジェクはこの結論に到達している。あとの6ページで彼が展開している議論はもう『〈帝国〉』とは関係なく「レーニンへの回帰」という代物だ。これはびっくりである。上に書いたような、マルクス主義が資本主義のなかにケインズ主義を産み出し、ポスト・フォード主義パラダイムのなかにレギュラシオン理論を産み出したという図式に、ジジェクは何とワールドワイドウェブと社会主義(電化+ソヴィエト=社会主義というあのテーゼのもじりだろう)というテーゼをもち込む。面白い! 某巨大掲示板流にいえば「禿胴」という奴だ(分からなくともいい)。とはいえ、これはジジェクの書評を評するページではない。是非そちらの一読をお勧めしておくだけに留めよう。補遺まで来てようやく元気が出た。

[やつか はじめ・建築家]


200310

連載 BOOK REVIEW|八束はじめ

「空間」論への助走としての「時間」論「空間」を(とりわけ社会の中で)考えようとする者たちへグローバリズム論の最も広い地平を柄谷行人「一般経済学批判」──もしくは「神は細部に宿る」として見るべきか?住宅論の風景家族論──それは住宅という建築の形式か内容か?建築と文学をめぐる鉄人同士の知的蕩尽「芥川賞」の受賞作を論じてその現代的意味を吟味し、我が造家界の行く末を繰り言風に臨む「ショッピング・ガイド」へのガイド「メタジオグラフィ」、あるいは「超空間誌」のほうへ「〈ポスト〉マン」は何度ベルを鳴らすのか?──歴史と批評の間に広がる「スーパーフラット」な断層についてシュマルゾーと立原道造──現象学的空間論の系譜に遅ればせながら「21世紀の『共産党宣言』」を論ずる書評最もル・コルビュジエを愛した建築家による美しいエッセイあまりにポストモダンな?日本建築の現場への文化人類学的アプローチ歴史の迷路・迷路の歴史個々の木は良く見えるが、1930年代という森が見えない!内田隆三さんの大著に関して思ういくつかのことども藤森さんの記念碑的大著に最大限の敬意を
このエントリーをはてなブックマークに追加
ページTOPヘ戻る