木村浩之/建築家

昨年、最も見たかった展覧会──つまり見逃した展覧会ということになるが──は、MOMAニューヨークで行なわれたオラフー・エリアソン(1967生まれ)の個展《Take Your Time》展だ。モノをつくるのではなく事象やエフェクトをつくり出す彼のインスタレーション群の今までで最も包括的な展覧会であったようだ。多くのものは特定の場所で行なうことを前提に計画されたサイトスペシフィックな事象を、巨大美術館の空間内で再構築したものである。同時期に行なわれたウオーターフォール(滝)・プロジェクトと併せてエリアソン詣でをした人は多かったのではないかと思う。

また昨年はタッシェン出版の大型本シリーズとしてエリアソンの「百科事典」、『Studio Olafur Eliasson: An Encyclopedia(Extra Large Series)』(Taschen)が出版されたことも記憶に新しい。数多くの全集的作品集が出版されながらも決定版がなかった状況を打破するものだ。これによって去年41才の彼の一応の全貌のカテゴリー分類を行なったことになる。シンプルで、時に無骨な装置から生み出される美しく見飽きることない多様な様相に、乱暴なレッテル貼りを自ら行なったものだ。
しかし、そのレッテルで作品の効果が一元化してしまうことはない。というのも彼が作ろうとしている作品群は〈あなたが今作り出す〉エフェクトであり、〈あなたが今感じる〉事象に他ならないからだ。アルファベット順に並べられたカテゴリーは全て普通名詞(建築 Architecture、美 Beauty、色 Colourなど)だが、NとYの項、つまりNowとYouのみが、指示内容がその使う時によって常にシフトする単語として、他とは僅かに違う存在感を放っていることにも表明されている。
ただこれがニューヨークのイニシアルと重なっているのは偶然だろう。
この体験のアーカイブ(あるいは第一印象の博覧会と言ってしまおう!)、これは是非見ておきたかった。

『Studio Olafur Eliasson: An Encyclopedia(Extra Large Series)』 『Monika Sosnowska: Fotografien und Skizzen / Photographs and Sketches』
1──『Studio Olafur Eliasson: An Encyclopedia(Extra Large Series)』
2──『Monika Sosnowska: Fotografien und Skizzen / Photographs and Sketches』

エリアソンのインスタレーションが常にレファレンスとなる場所の特性(例えば太陽の角度や川の流れ)などを必要としているとしても、それは彼の装置がそれを利用するからであって、そこを起点にインスタレーション装置が組まれているわけではない。
その点、同じくかつてMOMAで展覧会(2006年)を行なっているモニカ・ソスノヴスカ(1972生まれ)のインスタレーションのサイトスペシフィシティは場所が全てであるようなものである。その彼女の初の包括的個展が昨年バーゼルで行なわれた。ヘルツォーグ&デ・ムーロンがバーゼルの貨物倉庫地帯に設計した倉庫的展示施設「シャウラーガー」(観るSCHAUと倉庫LAGERを合成した造語)の、倉庫的広さと簡易さでしつらえられた企画展示空間での展示であった。オリジナルサイトから〈剥奪〉されて本来ならばもぬけの殻のような展示物になってしまうところを、殺伐とした展示空間の中からも数少ない特異点を見つけてきて、そこを最大限利用してまたひとつのインスタレーションとしてしまう腕には感服してしまった。自分はベニスでのインスタレーション(2007年)のものしか「オリジナル」を知らなかったことが幸いしていたのかもしれないが、逆にそれがオリジナルと〈変容〉を比較出来る規準点となり、説得力を増すこととなったのだった。
同時に出版された小さなカタログ『Monika Sosnowska: Fotografien und Skizzen / Photographs and Sketches』(Steidl)には「オリジナル」サイトでのインスタレーション写真が掲載されていて興味深いのだが、印象に強く残るのは実際に見て体験したバーゼルのものであることを正直に書こう。サイトスペシフィックな作品を扱うふたりの作家の、ふたつのありかたとふたつの方向性がかいま見れた展覧会と出版物であった。

また見逃した展覧会となるが、東京の原美術館での米田知子(1965生まれ)の個展《終わりは始まり》がある。
これも彼女の今までで最大の展覧会であったようだが、彼女は写真作品を拡大縮小できるものとは考えず、固有の大きさを念頭に作成した比較的小さめの作品群は、元邸宅の空間規模ながらも曲線廊下など個性ある空間性へとうまく適応し、とても見やすくかつシリーズごとの個性をうまく引出せる展示となっていたようだった。
彼女の全作品に通低する「見ること」と「知ること(記憶)」の重なりあうところをあぶり出すようなトーンのなかで、「シーン」と名付けられたシリーズは、とりわけ無知、つまり「知らぬ」ことのおぞましい日常を見せる代表的なシリーズである。この彼女の作品群での最大サイズを与えられたこのシリーズがあの空間のなかでどこに展示されたのかがとても気になる。

同じく写真家である杉本博司(1948年生まれ)は、昨年2008年のみだけで11の個展を開催したということだが、その中でも異例の展示企画である《歴史の歴史》展(金沢21世紀美術館)は興味深く見られた。2003年に銀座エルメスの最上階にある展示室での展示が最初となったこの展示企画は、その後アメリカなどを巡った後に、大幅に増幅して帰国したものである。自身の作品展示は極めて小さな割合に留まり、その代り考古学的品々や自然科学的品々から、さらに骨董的断片の数々など、様々な時代、場所、信仰、技術からの物品が展示されている。それらは自身の作品の解説となっているのでもあるようでもあり、また作家自身のバイオグラフィーとなっているようでもあり、またそのどちらでもないようにも思われる。一見ナイーブともとられなくないこの企画はしかし、「表現すること」と「表現と受け取めること」の曖昧な際を見極めようとする試みに他ならない。つまり、ためらわずに言ってしまうと、写真とは、そしてアートとは何なのかを問うている展覧会なのだ。

米田知子《終わりは始まり 》展カタログ(原美術家) 杉本博司《歴史の歴史》展カタログ(新素材社) 『Eero Saarinen: Buildings from the Balthazar Korab Archive』

3──米田知子《終わりは始まり 》展カタログ(原美術家)
4──杉本博司《歴史の歴史》展カタログ(新素材社)
5──『Eero Saarinen: Buildings from the Balthazar Korab Archive』

余談だが、この展覧会のために初めて金沢21世紀美術館を訪れたが、建築コンセプトの良さが常設展示には全く反映されていないのがとても残念にうつった。企画展(杉本展)の方がよっぽど展示空間の多様さとそのアーティキュレートされた展開に順応していたのは皮肉だった。しかし、残念ながら企画倒れになってしまったというヴィクトリア&アルバート博物館(ロンドン)という、博物館と美術館のどちらでもあるような場所(英語では共にmuseum)でのこの壮大な企画展示をぜひ見てみたかった。

米田が「見る」と「知る」の際、つまり英語でのseeに重なる事象を追及していると言うならば、杉本は「printed」と「imprinted」(すりこみ)の重なりを剥離させようとしていると言ったら間違いであろうか。ともかくふたりとも目の放せない作家である。

来年の生誕100周年記念を目前にここ数年出版や展覧会が続いているエーロ・サーリネン(1910年生まれ)の、元所員の写真アーカイブをまとめた460ページを超える写真集『Eero Saarinen: Buildings from the Balthazar Korab Archive』( W W Norton & Co Inc)が昨年出版された。あの特異な形態を記述しようという野望からか文字ばかりが多くなりがちでドキュメンテーションという意味あいが少ない理念的作家論的作品集からしか知られていなかったサーリネンの作品イメージを大幅に書き換えるものである。1950年代に建てられたミラー邸やミラー家別荘の外観・内観ともに豊富な写真は、アメリカ的無機質なモダニズム空間構成と北欧を連想させる豊かな素材感を合わせもつプロジェクトを詳細に伝えており、サーリネンの例外的作品に思われがちなMITの煉瓦のチャペルへとつながっていくラインを示唆していて興味深い。

一方、生誕祭ということで言えば昨年パッラーディオの生誕500周年を祝ったイタリア・ヴィチェンツァでは、代表作であるバシリカの修復工事が生誕祭に間に合わなかったようで(ああ、愛すべきイタリア!)、訪れた9月には修復工事現場の見学を開催していた。ジャングルのように膨大な量の足場が組まれた中ではあったが、「500年に一度の公開」という苦しいうたい文句に乗せられて見学した。屋根が取り除かれた現場内部が圧巻だったのに加え、考古学的検証のため剥された床や壁断面などより、パッラーディオ増築以前にあった既存部と思われる部分をまのあたりに出来るなど、パッラーディオ生誕のみならず「建築史」が生まれたその場所を目撃したような高揚感におそわれたものだった。
工事がやっと終わったのか、今ウエブでチェックしてみたが、この見学のことはもう出ていないようだ。
http://www.palladio2008.info/
http://www.andreapalladio500.it/

2009年は、オイルマネーやデベロッパー主導の自由奔放な開発は中断し、またアートマーケットも同様に冷え込むことは誰もが予想している。この動きの少ない機会を利用して、都市・建築とは何だったのか、その歴史・スタイル・発展とは何を元に語られているのかを各々がゆっくり考えなおす時間とならざるを得ないと思う。それは、アートとはそもそも何なのか、場所とは我々にとって何を意味しているのか、というアーティストらによって長いこと問い続けられてきた問いの蓄積からもヒントを得ていくことが出来るのではないか。本質(ネイチャー)を問い直すこと、これを2009年の課題としたい。