倉方俊輔/建築史

『磯崎新の「都庁」』 『代謝建築論 か・かた・かたち』 『INAX REPORT』 『A haus』

1──『磯崎新の「都庁」』
2──『代謝建築論 か・かた・かたち』
3──『INAX REPORT』
4──『A haus』

●1
平松剛『磯崎新の「都庁」』(文藝春秋)
高い山の六合目まで、道路を通してくれたような力作だ。幹になっているのは、1985年の新都庁舎コンペにおける師匠・丹下健三との闘い。著者が2001年の『光の教会 安藤忠雄の現場』で見せた迫真の描写力と構成力はいっそう磨きがかかり、2人の巨匠の思想と行動を見通すことができる。戦後の建築界を扱ったものとしては初めて、2008年のサントリー学芸賞を受賞したこともうなずける。
その読みやすさに、眉をひそめる向きもあるかもしれない。例えば、磯崎新を「親分」と書中で呼んでいるようなことに。しかし、単に平俗な表現で、一般読者におもねているのではないだろう。建築が一人ではつくれないこと、ただ、作品と呼ぶべきものには「一人」が欠かせないこと。要するに、優れた建築の前提には敬意と緊張感を伴ったプロフェッショナルの共同作業があるという事実を、建築界の外へと本書は伝えている。意志と筆力のたまものだ。こうした人材をこれまでの建築界は持たなかった。

菊竹清訓『代謝建築論 か・かた・かたち』(彰国社)
久しく絶版となっていた同名書(1969年初版)の復刻版である。2007年末の長谷川堯『神殿か獄舎か』(鹿島出版会)あたりから始まり、2008年の本書や『村野藤吾著作集』(鹿島出版会)など、われわれの共通認識としてあるべき基本的良書の復刻が相次いだことは、今年の快挙として明記されてよい。こうした流れが絶えませんように。

『INAX REPORT』(INAX)
企業の季刊誌だが、2006年の167号から誌面をリニューアルし、さらに内容が充実した。中でも、1960〜70年代の建築界に多大な影響を与えた本の著者に、内藤廣がロングインタビューを行なう「著書の解題」が面白い。2008年に取り上げられたのは、槇文彦の『見えがくれする都市』、川添登の『建築の滅亡』、石元泰博の『KATSURA』・『桂』・『桂離宮』、伊藤ていじの『民家は生きていた』の4冊。建築家がどう切り込むのかが毎回興味深く、記録的価値も高い。

『A haus』(A haus編集部)
青森市内で編集・発行されている、青森の近現代建築に焦点を当てた建築専門誌。2005年1月に創刊され、基本的に毎年2冊を発刊する。
この雑誌がすごいのは、あか抜けた体裁でありながら、オリジナルの情報で構成されていること。従来は光が当てられていなかった対象や、知らなかったエピソードを盛り込むことは労力がかかる。したがって、昨今のメディアが情報の生産ではなく、どこかに載っていたあれやこれを見栄えよく組み合わた消費に向かうのも当然かもしれない。そして、『Ahaus』はそうではない。
2008年発行の第6号は、青森目線で偉大な師弟の知られざる側面を掘り起こした「特集:今和次郎と吉阪隆正」。第7号の「特集:りんごの木の下の子ども図書館物語」は、菊竹清訓の「黒石ほるぷ子ども図書館」(1975)にこだわっている。
願わくば、九州でも、北陸でも、四国でも、こんな地元発信の建築の雑誌が出るようになったら、私たちはもっと豊かになれるはず。それは不可能ではないはずだ。


●2
《村野藤吾 建築とインテリア》展(松下電工汐留ミュージアム)
むろん良い意味で書くのだが、村野藤吾を神棚から引きずり下ろす、多彩で、豊穣で、軽快な展覧会だった。図録には寄稿したが、展覧会の内容には関わっていないので、紹介してもアンフェアではないと思う。
会場には図面、模型、写真、現物、CGと、これまでの建築展の用いられた手法が勢揃いした感があった。村野藤吾を実際の建築で無く見せるという困難な課題なのだから、いわば建築展の「総力戦」であることも当然かもしれない。
今回の展覧会の背景には長く、広範な学究活動がある。評論家としての成熟期を村野に奉じた長谷川堯。そうした再評価の流れを資料の収集整理と分析によって着実なものにした京都工芸繊維大学・村野藤吾の設計研究会。人間・村野藤吾が伝わる資料類を大切に保管された村野家の人々…。こうした蓄積なしに、今回の展覧会の充実はありえなかった。
しかし、「村野藤吾 建築とインテリア」展の人々に訴える力は、時の流れが自然につくり出したものではないだろう。優れたバランス感覚を通して、村野の生んだ建築的価値を一部の「専門家」のものに閉塞させるのではなく、日常の延長として多様に楽しみ、解釈できる入口を開こうという企画者の強い意志が今回の展覧会を可能にした。
開催と同時に発行された図録『村野藤吾 - 建築とインテリア ひとをつくる空間の美学』(アーキメディア)には、「数えられるもの、数えられないもの──村野藤吾の『モダニズム』」と題した拙稿を寄せた。文章は次のように終えた。
「商業的価値から村野が生んだ建築的価値を、いかに今度は商業的価値に戻すか。これは私たちの仕事である」。
展覧会はまさに村野藤吾の建築の価値を、人の自然な生活内の営みに接続するに十分なものだった。バトンは建築関係者に委ねられたのだと思う。村野藤吾の設計作品の「保存」も、リノベーションも、新たな作品への応用も含めて。

《アーキニアリング・デザイン》展2008(日本建築学会)
会場に並んだ箱のそれぞれに、驚きがつまっていた。構造模型を中心にした展示は、一般の人々にも伝わる面白さを持っていた。12日間という短い会期にもかかわらず、多くの来場者を集め、会場には専門家以外の方の姿も目立った。
「できあがってしまった」と思い込んでいる世の中の事象を、パラメータの結果として設計(デザイン)されたものと捉え、深層から組み替えることで新たな現実を可能にする。そんな工学的思考の可能性を、分かりやすく見せてくれた。もちろん、これは建築分野の「構造」だけの話ではないはずである。

《氾濫するイメージ ── 反芸術以後の印刷メディアと美術1960's─70's》展(うらわ美術館)
建築の展覧会ではないのだが、見応えがあり、印象深かった。ポスターや装丁などを中心に、1960年代から1970年代── というより昭和40年代と呼んだ方が適当だろう。やはり昭和の時代の切れ目は昭和なのである ──の作家の仕事を集めていた。展示の順に、赤瀬川原平、木村恒久、中村宏、タイガー立石、宇野亜喜良、つげ義春、粟津潔、横尾忠則の8人である。
展覧会ならではの組み合わせの妙で、個々の作家紹介を越えて、この時代の跳躍するイメージ、ヴィジュアル的構想力の所在が伝わってきた。建築との直接的な関係でいえば、木村恒久は「近代建築」の表紙を文明批判的なフォトモンタージュで飾り、そもそもが「メタボリスト」のひとりである粟津潔は「建築文化」の表紙を手がけ、やや間接的には、赤瀬川原平は言わずと知れた後の「路上観察学会」であり、つげ義春は近年の昭和回帰の元祖のようであって、その他の作家にしても、当時の建築の雑誌の装丁や内容がだぶる。
まったく現代は小綺麗なばかりで力がない。それに対して反時代的なやり方で目を引こうと安易に思えば、この縮小再生産に陥りかねない。昭和40年代育ちは、絶望的に強いのだ。ということで、話は冒頭の磯崎新に戻る。