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  . 暮沢剛巳

▼本稿は図書新聞2001年12月1日号に掲載された水戸芸術館で開催中の「川俣正デイリーニュース」展レビューである。INAX出版より刊行された『Book in Progress 川俣正デイリーニュース』は、この展覧会と同時並行的に進行した出版プロジェクトである。
しかし、この書物は展覧会カタログといった性格のものではなく、編集プロセスそのもの、あるいは展覧会をめぐる川俣氏の思考の軌跡が「デイリーニュース」として記述されており、したがって水戸の展覧会の変奏バージョンに位置するものである。こうした点を考慮し、やや変則的ではあるが「書評」ではなく「展覧会レビュー」をここに採録した。転載を快諾していただいた図書新聞と暮沢剛巳氏に感謝する。
(10+1Web編集部)


INAX出版
2001年11月発行
定価:本体3000円+税




水戸芸術館
川俣正デイリーニュース展

artscape
川俣正Web in Progress

























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 新聞が好きだ。特定の「……新聞」が贔屓であるといったことではなく、新聞というメディアそのものが好きなのである。定期購読の習慣こそ失ってしまったものの、五大全国紙及び主要スポーツ紙のホームページはほぼ毎日チェックしているし、外食や散髪のときの待ち時間も、新聞がないとどうにも間をもてあましてしまう(そのため、行きつけの飲食店や床屋といえば、みな複数の新聞を常備しているところばかりだ)。また長年のプロレスファンとしての性癖ゆえ、扇情的な見出しにあおられて、思わず夕刊スポーツ紙を買い求めたり、拾い読みしたりすることもしばしばである。
 私自身がそうした嗜好の持ち主であるために、この数年来川俣正の作品や言説に接してきて、この美術家が同好の士であることは早くから直観していた。旅なれた川俣のこと、移動中の電車や飛行機の座席で新聞をめくることはたびたびだろうし、滞在先の宿舎の一室で、現地の新聞に目を通すことも半ば習慣化しているだろう。そして、東京の自宅に戻ってくるたびに、今度はもはや日付の古くなってしまった新聞を広げて、そのタイムラグを楽しんだりもするのだろう。情報摂取という観点からも、新聞は欠かせぬアイテムだろうし、また紙やインキの物質性さえ、フェティッシュな関心の対象なのかもしれない……。 

▲「川俣正デイリーニュース」展より

およそそのような先入観があっただけに、川俣が今度の個展「デイリーニュース」で新聞紙を扱った新作を発表すると知ったときも、特に驚きはしなかった。従来の木材を用いた作品と同様、今度は新聞紙という紙材の特性を生かして、美術館という空間にある種の日常性を導入しようとするのだろうと、すぐに予測することができた。しかしその結果は……。多少の仕掛けには動転しない自信のあった私も、展覧会場に一歩足を踏み入れた瞬間に、思わずたじろいでしまった。川俣のことだから、今さら新聞紙を切り抜いたコラージュなどを作るはずがないとはわかっていたが、まさかそれがギャラリー内に150トン(!)もの新聞紙を持ち込んで、その上を歩き回る観客参加型の作品であったとは! 意表を突かれた悔しさもあって、次の瞬間、私は多量の新聞紙が積み上げられた光景の壮観さに圧倒されながら、思わず「やられたっ!」と舌打ちしていたのだった。
 それにしても、なぜ新聞紙なのだろう? この素朴な疑問に重大な示唆を与えてくれるのが、最近になって川俣が、同名の書物によって提起した「アートレス」という概念だ。川俣本人の言によれば、それは以下のように定義されるものらしい。
「『アートレスの提言』。それは、あくまでも既存の美術言語や流行、スタイル、例えば『綺麗なもの』、『美しいもの』、『美的価値』や社会的な規範からなる常識的な言語に裏打ちされた『美』なるもの全般に対する、懐疑を意味している。それ以上に『アート』そのものに対しての存在意義を問うことでもある」
 周知のように、川俣は「日本を代表する」と目される美術家の一人である。80年代以来、その作品は内外で高く評価されてきたし、現在は東京藝大先端芸術表現科教授の要職にもある。そのような立場にある人物が、実は「芸術」という制度や言説に対して人一倍違和感を抱き、また懐疑的であるとは何という皮肉なのだろう! しかし川俣は現役バリバリの美術家であるばかりか、工事現場とランド・アート、チンパンジーの絵とピカソの絵などを対照しつつ、結局は後者の「芸術」としての優越性を認める立場をも表明しているのだから、この「アートレス」を単純な「反芸術」の思考と捉えてしまうのは明らかな誤読と言う外はない。美術への深い思い込み(川俣はそうした価値観を「アートフル」と呼ぶ)に溺れることもなければ、「反芸術」のニヒリズムにも陥ることのない微妙なバランス感覚——「アートレス」とは、まさしくこの微妙なバランス感覚の別名なのであり、川俣の創作活動は、この感覚を最大の掛け金として実践されていると考えるべきだろう。
 その意味では、今回の「デイリーニュース」もまた、絶妙なバランス感覚が発揮された展示だった。東京・青山のNADiffのサテライト展でその一端に触れることができたが、模型を使った周到なシミュレーションを繰り返したことにより、一見無造作に新聞紙が積み上げられただけのギャラリー空間にも、(観客の安全に配慮する必要があったのはもちろんだが)隅々まで注意が行き届いていて、会場を周回できる導線がきっちりと確保されている。またメイン展示室の脇のスペースからは、堆く積み上げられた新聞紙を仰ぎ見る格好になるので、その物質性に圧倒されると同時に豊かな構築性も感じ取ることができる。鉄塔の建設(?)を目指している「コールマイン田川」に代表される川俣作品の豊かな構築性は、展示空間の設計者である磯崎新がアンソニー・カロやフランク・ゲーリーを引き合いに出して問いただすほど建築的なものであるが、直に展示を観た者であれば、その参照がいかに的を射たものであるかも実感されるだろう。
 川俣の作品は、しばしば「インスタレーション」や「サイト・スペシフィック」といった場所的な概念によって語られてきた。その点では、恐らく新聞紙はリサイクル業者に引き渡されるのだろう、会期終了と同時に作品そのものが跡形もなく消滅してしまうこの「デイリーニュース」も、まぎれもなく従来の圏域に位置する試みではある。だが、多量の新聞紙の傍らで、ひっそりと展示されている過去の作品の模型や写真(考えようによっては、「デイリーニュース」はこの添え物のような展示との相互効果によって真正な?美術展足り得ているのである。ここにもまた、「アートレス」な感覚の一端が窺われる)を眺めていると、両者の間には或る決定的な違い、すなわち、今回が美術館を舞台とした初の大規模な個展であったことにふと気づくのだ。従来川俣のプロジェクトは、もっぱら都市空間の「現場」で寄生的・ゲリラ的に展開されてきた。「サイト・スペシフィック」な作品の有り様も、「アートレス」な感覚も、その実践の積み重ねによって鍛えられてきた賜物だった。ところが今回は、同じ「インスタレーション」ではあっても、今までは忌避してきた美術館を舞台としている点で何かが決定的に異なっている。その違いが何であるのかはまだ臆断できないが、「きわめて日常的に、普通のことを普通に行っていながら、すごく普通ではないことは何か」をめぐる川俣の実践が、この個展を機に新たな局面を迎えようとしていることは確かである。
 それとは逆に、一貫して変わらないものもある。事前の目的や計画に縛られることなく、あくまでも「現場」の関係性の中から作品を生み出そうとする態度も変わらぬものの一つであって、であればこそ、美術館を舞台とし、新聞紙という紙材を用いた今回の個展は、川俣の徹底した「現場主義」を体験するまたとない好機なのである。議論など後回しで構わない、まずは「現場」を体験せねば何も始まらないだろう。ちなみに展覧会初日、片道数時間の道のりを経てようやく会場入りした私は、巨大な新聞紙の壁にもたれかかりながら、床から拾い上げた夕刊スポーツ紙のプロレス記事につい読み耽ってしまったのだった。それはそれで楽しい体験だったが、「現代美術という不可解な場」にすべての決定を委ねた結果としては、あまりにもお粗末だっただろうか。