美術館の現場から[2]
Dialogue:美術館建築研究[6]


 建畠晢
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 青木淳


●美術館が直面している
問題点
国立国際美術館、外観
国立国際美術館、外観

国立国際美術館、展示室
国立国際美術館、展示室
提供=国立国際美術館
URL=www.nmao.go.jp/
青木──ところで、建畠さんはつい最近、国立国際美術館の館長に就任されました。それで少し、これからの美術館像についてお伺いできればと思います。建畠さんはたとえば、2004年の『美術手帖』4月号での市原健太郎さんと長谷川祐子さんとの座談会「グローバルアートの行方」において、国際展というのは需要がなくなれば消滅していっても仕方がないが、美術館はそうはいかないという趣旨をおっしゃっていました。たしかに美術館という展示空間は、ひとつの美術の場として存在し続けるべきだと思いますが、いまや美術館は、独立行政法人化や指定管理者制度が導入されるなど、冬の時代に突入してしまいました。これはひとつには、美術館が市民層の形成に失敗したということでもあると思うのですが、これからの美術館はどうあればいいのか、どうお考えでしょうか。
建畠──現在、ぼくは美術館に戻ってきて、いろいろな問題に直面しているのですが、美術館が存続しなくてはいけないというのは自明の理ではない。しかし館にいるひとにとっては、客観的に正しかろうと正しくなかろうと存続を目指すのは当たり前です。指定管理者制度や独立行政法人化は、民間的な市場の原理に美術館をさらせという考え方なんですね。そうなると当然ながら生き残る美術館とそうでない美術館がでてくる。しかし歴史的に見れば、市場の原理の埒外にあることで美術館というものが充実してきた。われわれがすべて過不足無いと感じる美術館はある安定した文化的基盤に支えられてきたわけで、市場原理の競争のなかで自立してきたのではない。指定管理者制度をはじめとする市場主義は、美術館にとってはおぞましい生きかたです。だが美術館が自らまねいた災悪だとはいえなくもない。市民革命を経験したことのない日本では、美術館を支えてくれるはずの市民層が形成されていないわけですから。そうであるなら、美術館こそが緩慢なる市民革命の場でなければならない、つまり自らが市民層をつくり出す努力をすることで生き残っていかなければならない。内部からは改革できないので、競争原理を導入して入札制度で運営していくというやり方については、いまの段階で評価するのは難しい。具体的にいうと指定管理者制度は3年か5年で入札し直すわけです。そうすると受託した企業や財団はそのスパンで成果を出さなくてはいけない。たしかに観客動員数や収入など短いスパンで結論を出せる点もありますが、、それだけではなく重厚なコレクションを形成するうえで長期スパンのヴィジョンを考えることも必要です。美術館というのはフローとストックから成り立っているが、基本的にはコレクションの形成をはじめとした蓄積型の施設なので、継続した長期的な計画が非常に大事です。そういう意味では市場原理だけで美術館を形成することは難しいと思っています。基本的には、美術館というのは安定した経営母体が恒常的に用意されるのが理想だと思います。日本の美術館の制度が歴史が浅いとはいえ、そのあいだに市民社会の承認を得るのに成功しているとは必ずしもいえない。そこを追求されると抗弁する手段をもてない部分があるわけですが、だからといって市場原理の直接的な導入だけで美術館を経営することは非常に危惧しますね。
青木──少なくとも公立美術館には利益を上げることは求められていません。日本の多くの美術館では、入場料やカタログ購買などによる収入で、予算の20パーセントが得られれば健全という評価だと思います。つまり80パーセント分は税金で賄われて当然という程度には、美術館の公的な価値が認められているということですね。もちろんこの20パーセントという数字の根拠は絶対的なものではなく、世界的には25パーセントという話も聞いたことがあります。いずれにしても、その数字は多ければ多いほどいいというものではなく、それ以上儲けるようだと、美術館の本来の公的使命から外れた迎合だということでしょう。美術館予算を収入ですべて賄える、あるいは利益を生むことができるのなら、そもそも美術館を税金を使って運営する必要はありません。民間が商業ベースで運営すればいいからですね。国立国際美術館では、ほぼ毎年、若い作家の個展を開いてきました。もちろん行列ができるほどの入場者数は見込めません。でも若いこれからの作家が次のステップに進んでいけるようなこうした機会をつくるというのは、美術館の重要な機能だと思います。とはいえ、いままでの美術館は、より多くの人々に見てもらうこと、あるいは経済にあまりに鈍感だったような気がします。だからそのツケがまわって、東京都のように極端に反動がおきて、展覧会の内容ではなく、美術館の指標が入場者数でしか評価されなくなってしまうという事態にもなってしまうのかもしれません。
建畠──美術館にも投資対効果ということが求められているのは確かです。それは定量的なことだけではありません。そういう意味で、定量化できないところの投資効果も示さなければいけない。そのひとつは、美術の状況を活性化させるという責務で、これは若いアーティストの紹介や常に市民社会をケアするような展覧会を開くということです。それから作品への投資。これはなかなか認められていないけれども、コレクションの蓄積が社会の富になっていくということをもう少しアピールしても良いと思います。もうひとつは調査研究ということ。美術館は、自己目的な研究をする大学のような研究機関ではないけれども、充実したコレクションの背景にある調査は重要です。ただ、それら評価には客観的な基準が必要であって、それは非常に難しい。基本的には不可能に近い。参考にいえば、学術論文の評価はどれだけ引用されたかが指標になっていて、これは部分的には展覧会の評価法にも導入できますよね。こうして投資対効果をアピールしていかないと生き残れないのは世知辛い世の中になったと思いますが、投資対効果を厳しく求められるのはやむを得ないことだし、ある意味では美術館の質を下げたり短期的な結果のみを求められるだけではなくて、よりアクティブな活動に繋げていくことも可能だと思っています。現実の館員として言えば、本来の美術館活動をしたほうが市民の支持も得られるし、客観的に見て自立した活動をしていることを示して、ほかの美術館と比べてもらうしかないと思っています。
青木──内容の質が落ちれば、そもそも美術館というものが必要ということも通らなくなりますからね。
建畠──それから、基本的には学芸員の活動があるとしても、美術館の活動には複合的な要素があって、それを美術館の総合力ととらえれば、純粋さも必要ですが活動の多様さも絶対必要だと思っています。美術館だからできることもたくさんあるから、そこは力を入れていきたい。ほかのジャンルに手を出すことも重要で、美術館というもの自体を発信メディアととらえた柔軟な試みは絶対必要です。
青木──青森県立美術館でも、美術だけでなく、より広範囲なアート・センターとして、パフォーミング・アーツや音楽も発信していくという構想です。
建畠──こういう話をすると恰好良いことを勝手に言っていると思われるかもしれませんが、学芸員は具体的かつ現実的な試練にさらされているわけで、それでもやはり志は高く行きたいですよね。



●美術と社会の関係/アートに潜むエピック的な側面
建畠晢+青木淳
青木──最後に、美術と社会の関係について、コメントをいただけますか。これも先の座参会で、建畠さんはベンヤミンの「新しい天使」を引かれて、未来へ向かって投射していく、もしくはこうあるべきだというメッセージがほとんど通用しなくなるときに、過去へ目を見開きながらそのまま未来へ動いていってしまうエピック=叙事詩的な作品のあり方にむしろリアリティがあるとして、現実の社会に片一方の足をつっこみながらドキュメンタリーとしてやっていくことを評価されていました。実際、多摩美術大学の先生方でやられている「四批評の交差──いま、現代美術を問う」展で、建畠さんは島袋道浩さんを推薦されました。それが筋の通ったお考えであることはよくわかるのですが、ぼくにはまだピンとこないのです。99年に東京都現代美術館で「ひそやかなラディカリズム」という展覧会があったことに象徴されるように、小さなしかも自分の個人的な物語、あるいは引きこもり的な小さな物語が無数に戯れているいう状況で、身近な題材のドキュメンタリーは本当に有効なのでしょうか。
建畠──すこし大げさな話ですが、美術や芸術の社会との関わりもしくは有効性を考えると、いまの社会情況、そういう政治的・社会的なものと美術とが相渉ることは、アンビバレントな問題で、美術の社会的なメッセージとしての有効性を直接的にはぼくは信じていません。しかし、カナリアの歌を歌うことはできる、つまり危機意識は喚起できるとは思っています。それほど社会は変わらないし、革命は起こせないけれども、芸術家たちの先鋭性や感受性によって、いつも危機感をもってスタンバイしようという意識の形成は可能なのではないかと思います。芸術で世直しはできないけれども、すくなくとも社会に対して警告は鳴らすことができる。危機を防ぐことはできないけれども遅らせることはできる。その役割が芸術に求められていますし、ぼくは必要だと思っています。時代の危機に対して警鐘をならすという役割は非常に重要だし、もちろん美術館はそのための場所ではないけれども、アーティストのそういった役割に対してそれをいつも擁護していく必要はあるのではないかと思っています。それからエピック(叙事詩)とリリック(叙情詩)との関係についてですが、これは大きな物語の擁護論のようになるのですが、神話的なものというのは多くの場合、エピックなんです。そのように叙事的な方法というものが社会との関係も含めてアートの根源的な可能性であって、どこか片足を現実においたような活動の現代的な可能性を模索したいと思っています。小さな物語の戯れにいつも反発してしまうのは、小さな物語の戯れと評する人たちからは非常にモダンな印象を受けるためです。彼らの信条としては、いつも抜本的・根元的な問題が起こっていると考えていて、それはモダンな考え方なんです。彼らはつねに世の中が大きく変わったんだというモダンな幻想をもっている。それによって普遍的・統一的な原理が完全に終わってしまったと考えるのは非常に危険で、小さな物語と戯れているあいだにいつの間にか抑圧的な体勢ができあがってしまっている可能性があると思っていて、そういうある根元的な原理が失なわれたという幻想をもつべきではないと思っているわけです。
青木──そうした小さな物語と戯れる地平ではなく、島袋さんはその全体像が見えているところで作品をつくっているという意味ですね。
建畠──島袋さんの場合、基本的には芸術のなかでのゲームをやっている。そのなかで島袋さんをぼくが評価するのは、ユーモアのセンスとか人々を巻き込むゲームのおもしろさもありますが、芸術的な危機意識もしくは警鐘のようなものを感じるところです。
青木──なるほど。そういう意味で、建畠さんが常々親近感を持って語られることの多かった村岡三郎さんや草間彌生さんとつながるのでしょうね。
建畠──変な言い方ですが、ぼくはエキセントリックなものが好きなんです。エキセントリックなものが実は非常にメジャーなものであるといったところに、自分の原理があって、安定したメジャーというよりは、奇妙で逸脱した現われかたのなかに、あるいはディレッタンティズムのなかに、非常に本質的なものがあると思いたいんです。
[2005年7月1日、国立国際美術館にて]

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