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特集:201101 2010-2011年の都市・建築・言葉 アンケート<

倉方俊輔

観察する場所によって、風景は変わる。
本当はそんなことを言ってはいけない。このようなアンケートに答える「識者」たるもの、まして「建築史家」たるものは泰然として、変わらぬ風景が見えなくてはいけない。あるいは見えているフリをしなくてはいけない。でも、これが実感なのだから仕方がない。
2010年は「観察する場所」が変わった。したがって、時代の「風景」がどう転換したかはわからない。より正確に言えば、指摘することはできなくはないが、確信が持てないのだ。揺れているのは足元か、それとも風景なのか? 来年にもなれば、少し落ち着くだろう。激動期の1年に免じていただいて、主客一体の現象への感想を書きたいと思う。

1. twitter
4月に小倉(福岡県北九州市)にやってきた。初めて東京以外の場所で暮らし始めた。範囲を九州全体に拡げても、知人は2、3人。そんな状況から9か月経った今は、ずっと以前から当地の人々とつきあっているような気がする。同時に、現在も東京とつながっている気もする。これはさまざまな幸運が重なったためもあるが、twitterの働きも大きいと実感している。つながるべき人とつながり、その後もフォローでき、「世の中」の動きを横目で捉えながら、ふとした偶然をみつけることができる。2009年9月に始めたtwitterの、これは予想外の効能だった。
従来だったら、1000kmも居を移すことは、人脈の再構築を必要としたのかもしれない。しかし、現在では、人脈は携帯でき、自己を新たな文脈に位置づけるのも容易である。それを自分で実験している感じだ。
そして、この「自分で実験している感じ」が、twitter的な状況ではないかと考えるのだ。 twitterのタイムラインは、自分の設定した「世界」だ。先ほど「『世の中』の動きを横目で捉えながら」と書いたが、あくまでそれは自分がフォローしている(のとその鏡に映った=リツイートした)「世の中」にすぎない。隣の人の見ている「世の中」とは、部分的に似ているところもあっても、異なっている。
そして、私たちはそれをただ鑑賞しているだけでない。参入して、影響を及ぼし合うことができる。その垣根はtwitter的なものができる前より、ずっと低くなっただろう。ヴァーチュアルなものは、リアルに拡充している。
もし、あなたが「リア充」を生きようとするならば、要求されるスペックは以前よりも、ずっと低くなっているだろう。人生を、自分を主人公とした「自分育てゲー」と考え、フリーのものと、有償のものと、金では買えないもの(人や場所とのつながり)の三者を一体として巧く提供する仕組みは、これからも次々に編み出されるに違いない。例えば「コロプラ」のように。そうした三位一体のひとつとしてしか、現在の「消費」はないのだから。それは単純な勝ち負けではない個別のストーリーを生成し、私たちを生きやすくしてもくれる。
twitterも、そんな「自己物語化」の装置である。ある種の目的であり、自分が受け入れられるべき「世の中」を自分で設定することができる。それは単なる空想ではないことは、生身の他人が関わっていることによって、担保されている。オフラインの眼の前の風景だって、そこにいない誰かの反応によって、違ったものに映るかもしれない。しかし、それはあくまで、あなたが選び取った世界なんだけどね。

2. リノベーションシンポジウム北九州


都市や建築も、そうした共通の全体があった時にどこに身を置くか、という設定として浮上していると思うのだ。
東京以外の都市に初めて来ると、多くの人が家賃の安さに驚くだろう。僕もそうだった。東京では街中に住めない自分も、ここなら可能だ。車も捨てて、今のほうがよっぽど都会的な生活である。もちろん、この安さは、次の時代の何かを始める挑戦のハードルを低める。
古いリソース(モノやコトやヒト)が残っているのもいい。特にここ北九州には、「過当競争」の東京から来ると、えっと思うような良いものがごろんと転がっていたりしている。人も少し旧式だ。これを遅れているとみるか、人間の本来性を保っているとみるかは趣味の問題だろうが、いずれにしても使い方次第の資産に違いない。
さらに大きいのは、情報距離の近さだ。現実に何かを動かすうえでは、機微に満ちた情報が必要になる。それは実際に会うほうが断然効率がいい。東京以外のすべての日本の都市は、巨大ではない。そういう街なら、すぐに人に会える。偶然に会ったりもする。同好の士だけでいつも集まれるほど街が巨大ではないから、むしろ人のつながりは閉鎖的でない。キーマンがむやみに多かったりもしない。だから、意志が合えば動き始める。時にはtwitterよりも早く、つねに濃厚だ。この点から言えば東京は、ぜんぜん情報都市じゃない。
要するに、東京以外の都市には、身を置く場所として「安古小」とでも命名できる魅力がある。2010年にも多くの人がそれに気づいていただろう。2011年を迎えるにあたって関心があるのもこの流れだ。そこで2011年3月に開催予定の「リノベーションシンポジウム北九州」を挙げたい。
「リノベーションシンポジウム」は、松村秀一(東京大学教授)をはじめとしたHEAD研究会が母体となって2010年3月に大阪で開始された。6月に第2回が鹿児島、10月に第3回が山形で開かれた。地域それぞれの実践や、大島芳彦(ブルースタジオ)、本江正茂(東北大学准教授)、竹内昌義(みかんぐみ)、馬場正尊(オープンA)、山崎亮(studio-L)といった登壇者を出会わせて、リノベーションというものの可能性を開き、次の実践へとつなげようというイヴェントだ。毎回、熱気がすごい。面白いのは、東京以外の都市で展開されていることで、これはひとつの動きつつある思想だろう。
2011年3月19日に北九州市の小倉で開催される第4回の内容は、現在、徳田光弘(九州工業大学准教授)と筆者を中心に詰めている。過去3回のリノベーションシンポジウムや北九州市のまちなか活性化の取り組み、2010年にたまたま北九州で相次いだJIA大会やアジアの建築交流国際シンポジウム(8th ISAIA)といったイヴェント、そうした刺激を受けて今年立ち上がった北九州の建築学生団体TONICAといった、本来は別々だった動きが相互作用をもたらしている。「安古小」の力だ。既往の都市と建築を読み替え、共通の全体に独自の貢献をなす上で、それがいかにプラスになるかを、動きつつある都市と建築として提示したいと考えている。つながりを前提とした「新しい地域主義」の時代なのだ。
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