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特集:201101 2010-2011年の都市・建築・言葉 アンケート<

粟田大輔

芸術はいかに圧縮されうるか。


 2010年に印象にのこった映像として「尖閣ヴィデオ」がある。新聞やテレビの報道では「流出」(そもそも守秘情報であるかどうか議論されるべきだと思 うが)に焦点があてられていたが、一方でこの映像は、ある視点からひとつの出来事がなされたことを示す明証性の問題を含んでいる(それゆえ裁判の「証拠」 となる)。
 こうした問題は、監視カメラの設置(ヴィム・ヴェンダースの「エンド・オブ・バイオレンス」)や内部情報の可視化(ウィキリークス)など「事実」偏重の 傾向と関連してみる必要があるが、もうひとつ改めてみて取られるのは情報の客観性ではないか。20世紀以降、モンタージュにみられるような「編集」の作法 は、映像の内容を切り貼りし転用することで、ときに既存のシステムを変革する政治性を含んでいた。
 一方で「尖閣ヴィデオ」は、切り貼りされてはいない(無論、映像は現在のところ44分のみの公開ため、これ自体を「編集」と指摘する声もあるが)。同時 に、その出自が冒頭のキャプションによって指し示されたように、ヴィデオの属性(誰がいつどこで記録したか)が重要度を増している。ただし、属性自体もまた改竄可能であるため、情報の明証性は、単に決定的瞬間を写し撮った部分だけでなく、前後の映像との相互性によって担保される(「記録」しているのはカメ ラ自体である)。
 記憶や夢の想起にもが似たところがあるように思うが、ひとは普段ある特化した出来事を「過去」と認識して「現在」へと線的に「圧縮」する。しかし、情報 の客観性は、私たちが感知していなかった出来事さえもが予定不調和的に記録されてしまう点にある。私たちはそれを再度主観的に認知せざるをえないのだが、 ここにはある一点の決定的瞬間のみに帰属するような時間(空間化された時間)とは別の時間性(現在性)が内包されている。
 周知のとおり絵画や彫刻は、一般的に人間の理念や行為を伝達する洗練された「圧縮」媒体として機能してきた。今後もこうした媒体は変わらず存続すると思 うが、私たちの記憶や夢と同様、溢れ洩れ、感知されなかった出来事(時間性)をいかに伝達しうるのか。もはやトランス・ジャンルといった問題系ではなく、 「圧縮」の更新をうながすような作品や展示にも注視していきたい。
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