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特集:201201 2011-2012年の都市・建築・言葉 アンケート<

松原弘典

●A1
震災の話はあまりしたくない。2008年の四川大地震のときはヴォランティア活動もしたのだが、それは結局自分にとって外部のことだったからできたのだと思うようになった。自分のことになってしまったこの東日本大震災について、積極的に何か発言しようとか、これで何かが変わると主張したりとか、仕事と関係させるようなことはしたくない。

●A2
2011年は自分の博士論文(『動いて見える半他者──日本建築界の中国認識(仮題)』、2012年5月に鹿島出版会より出版予定)を仕上げていたので、その関係でいい書籍との出会いがあった。
『戦後日本人の中国像──日本敗戦から文化大革命・日中復交まで』(馬場公彦著、2010、新曜社)は、大学にいない実践的研究者による博士論文。圧倒的な情報量をきわめて愚直に、しかし鮮やかに切っていく展開にはただただ圧倒される。こういう論文が書かれてきちんと書籍化され広く読まれる経路として、書籍出版というのはまだまだ意義がある。巻末のインタビューも読ませる。西園寺一晃や竹内実の話は歴史的証言として意義があるし、北沢洋子の、中国には金を払って国交回復すべきだったという意見はいまでも考えさせる力を持っていると思う。北朝鮮にもあてはまる話だからだ。
『近代日本の中国認識──徳川期儒学から東亜協同体論まで(松本三之介著、2011、以文社)は、中国認識というと明治以降のものを扱うことが多いほかの研究書と比べて、徳川期からの儒学者の日本の対中観がわかるところが独特である。朱子学を支持する側と批判する側があり、日本の存在感を高めようと、江戸時代においても、日本の知識人が決してあこがれだけではなく中国を語っていたことがわかる。中国論は日本論になるという話が体現したような本だ。
『ナボコフ 訳すのは「私」──自己翻訳がひらくテクスト』(秋草俊一郎著、2011、東京大学出版会)は、こんなに面白く博士論文は書けるのだという啓示だった。スリリングな謎解きの仕立てになっているのがこの面白さを支えている。巧妙に順序立てられ、外国語がわからない読者にも周到な説明がされ、しかも素早い。高校生のとき江川卓の『謎解き「罪と罰」』を読んだ時の興奮を思い出した。ロシア語と英語と日本語の間をぐいぐい飛ばしていくドライブ感がすごい。建築もこのように「読む」ことができるはずで、こういう仕事をしたいなあと素直に思った。沼野充義以降のロシア文学のななめ切り研究が、ここにきて多くの後進を産み、結実しつつある。

『戦後日本人の中国像──日本敗戦から文化大革命・日中復交まで』/『近代日本の中国認識──徳川期儒学から東亜協同体論まで/『ナボコフ 訳すのは「私」──自己翻訳がひらくテクスト』/『アフリカを食い荒らす中国』

展覧会は、11年はいろいろ見たけれど、年末に仙台の宮城県立美術館で見た「フェルメールからのラブレター展」が印象に残った。いささかミーハーだろうか。飛行機によく乗る私は、ANAの機内誌で福岡伸一さんのフェルメールについてのエッセイですりこみも十分に受けていて、いささか広告代理店的な戦略にはめられた感あり。会場はあまりのにぎわいでフェルメールは遠くからしか見られなかった。それでもカメラ・オブスキュラのリヤカーに乗れたり、昔の人のラブレターの書き方を知れたり、エンターテイメント的要素が準備されていて好感度大の展覧会だった。巡回先ではどうなっているのだろうか。
もうひとつは大阪の民博で見た「ウメサオタダオ展」。建築界でいえば伊東忠太や今和次郎を思わせる知の巨人だが、この人の幅の広さとある意味でのわかりやすさにはとてもあこがれる。いろんな資料がそのまま並べられていた展示は圧巻だった。こういうふうに、ブツとして情報が残せる知識人というのは、電子化が進行した今の時代にはありえないんだろうなあとも思った。ウメサオのような人(そういないと思うけど)はこれからどうやって自分の思考を記録し創造に使っていくのだろうか。クラウド化する時代にどうつきあっていくべきなのか。それ自体は否定できない傾向なのだろうから、クラウドを認めたうえで、何か一望できるような、具体的な全体像でもって情報を持ち続けられればいいんだろうけれど。この展覧会、今はお台場の日本科学未来館に巡回しているらしい。2月20日までだし、是非もう一回東京でも見たい。

「フェルメールからのラブレター展」チラシ/「ウメサオタダオ展」チラシ

書籍ではなく短文だが、強く印象に残っている文章は2つ。「追悼特集 梅棹忠夫 「文明」を探検したひと」『考える人』2011年夏号(新潮社)の小長谷有紀による「沈黙の関係」。ひょうひょうと描いているけど情報が豊富で特集の要求に応え、かつ梅棹への敬意が結果的にあぶりだされるような文章になっており凄味がある。何度も読んだ。もうひとつは「特別企画 弔辞 劇的な人生に鮮やかな言葉」『文藝春秋』2011年1月号(文藝春秋社)のタモリによる赤塚不二夫への弔辞「私もあなたの作品の一つです」。これが活字になっているのが読めてよかった。決して哲学を語らず、笑いながらしかしある深いところに達している人たちのはなしだ。ここにもほとんどおそろしさに近い凄味がある。いまの私にこうした文章が書けるのだろうか、考えさせられた。

『考える人』2011年夏号/『文藝春秋』2011年1月号

●A3
12年からは腰をすえてアフリカのことをもっと知ろうと思っている。『アフリカを食い荒らす中国』(セルジェ・ミッシェル+ミッシェル・ブーレ、中平信也訳、2009、河出書房新社)は最近印象に残った一冊。

『アフリカを食い荒らす中国』

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