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特集:201201 2011-2012年の都市・建築・言葉 アンケート<

小原真史

●A1

2008年、幼年期に父親に連れられて通った岐阜県の徳山村がダムの底に沈み、この村を撮影し続けた「カメラばあちゃん(増山たづ子)」もその前年に亡くなった。この村がダムの底に沈む経緯を調査してきた私は、徳山ダムのような不必要なダムの建設には反対だった。理由を挙げればきりがないのだが、そのひとつにはダムによる水力発電のコストが高いということがあった。しかし「コストが高い」という考えの中に原子力発電の方が安いというような意識がもしかしたらあったのかもしれない。無論、原子力発電に賛成だったわけではないし、原発のコストが安いというのが欺瞞であったことは明らかなのであるが、私自身「安全神話」に絡めとられていた部分はなかっただろうか。福島第一原発事故以降、原子力以外の発電方法が再評価される流れの中で、八ツ場ダムの建設再開が決定した。原子力発電所の建設もダム建設も「地方」の自治体がそれを受け入れていく構造は似たようなものだろう。徳山村では「下流の人のために」と離村した住民も多かったという。高校まで徳山村の「下流」に当たる名古屋近郊に住み、今も東京に住む自分は、遠く離れた地で作られた電気によって快適な生活を享受してきた。3.11以降、原発だけでなくダムや沖縄の基地の存在とわれわれの生活とがダイレクトに繋がっていることを多くの日本人が知ったはずだ。未曾有の震災を経験したわれわれが、国策の巨大ダムに沈みゆく村を撮り続けた「カメラばあちゃん」の写真から教えられることは少なくないだろう。今後も彼女が遺した写真を見直していきたいと思う。

●A2

被災地の瓦礫が戦後の焼け野原を連想させるという発言を多く耳にした。戦後の焼け野原は幕末からの日本の近代化の帰結であるだろうし、東日本大震災の瓦礫-とりわけ福島原発の廃墟-は戦後のアメリカナイゼーションとしての近代化を象徴している。その意味で、昨年IZU PHOTO MUSEUMで開催した「富士幻景-富士にみる日本人の肖像」展の準備作業で、ペリー来航から1945年の敗戦までを富士の表象から辿ることができたのは有意義だったように思う。「がんばろう日本」キャンペーンで日本中が覆われる中、展示室に並んだ戦中の富士を見て考えたのは、記憶の半減期についてと日本人の「不治(富士)の病」についてだった。2012年を迎えた今、戦争の記憶は言うまでもなく、昨年起こったばかりの震災の記憶さえ遠くに追いやられようとしている気がする。われわれは忘れやすい生き物かもしれないが、そのことだけは忘れないようにしたい。

●A3

昨年、原発事故の煽りで中止された目黒区美術館の「原爆を視る 1945-1970」展の開催を強く望む。4月開幕の予定だった本展は「放射線被害を含む原爆と事故のイメージが重なる今は、鑑賞してもらう内容ではない」という自主規制的な判断から中止・延期が決定された。こうした理由は、原発と原爆が同じものの別の顔にほかならないという事実を隠蔽するだけで、何ら正当性を持ち得ないだろう。
また、被災地となった宮城県名取市に移り住んで作品制作を行ってきた志賀理江子の作品の展開を期待したい。彼女は被災地となった北釜という集落の専属カメラマンとして行事の記録やポートレイトなどを撮影しながら、住民らの協力を得て作品制作を続けてきた。昨年4月に避難所を訪れた際には、罹災証明用の写真撮影や、津波で流された家族写真の収集、洗浄などに奔走していたが、そうした作業も彼女の作品と不可分なのだと感じた。被害の大きかった閖上の小学校にはボランティアの手で集められた膨大な写真が今も集められているという。震災によって崩壊しつつある共同体と彼女の作品とがどのような関係を取り結ぶのか、注視していきたいと思う。
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