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特集:201301 2012-2013年の都市・建築・言葉 アンケート<

川勝真一

●A1

イスタンブール・デザインビエンナーレ「Imperfection(不完全性)」

2012年10月、私は初めてアジアの最西端トルコの最大の都市イスタンブールを訪れた。このヨーロッパ大陸とアジア大陸にまたがるメガロポリスは、幾度となくその主を変えながら、繁栄を続けてきた。そうしたさまざまな文化と歴史が重層し、それらに寄り添ってきた人々はたいへん人懐っこく暖かい。日に数度街中に響き渡るコーランや、イスラム寺院に特徴的なミナレット、港町らしいカモメの姿、バザールの活気、魅力的なおじさんの屋台など、これまでヨーロッパ圏にしか訪れたことのなかった私には、どれもが個人的に強い印象として残っている。

イスタンブール旧市街

特にこの都市が持っている存在感はこれまで経験したことがない濃密なものだった。日本の都市が無数の小さな建築物によって全体が構成されている印象なのに対して、イスタンブールは都市という巨大な生き物がおり、その上に人も建築も生えているかのようだ。結果、日本のように建築がキャラ立ち、建築が都市のなかで大きな存在感を持つことはここでは難しいだろうし、世界的に注目を集めるような建築物が次々生まれていく状況がすぐに成り立つとは思えない。通りを歩いていると基本的に街は複数の専門店街によって構成されているということに気がつく。たとえば海沿いのあるエリアは船に関するあらゆるモノが、またあるところではベルトだけ、台所用品だけ、ウェディングドレスだけが売られている場所が存在している。日本では難しくなったが、個人が街中であらゆる素材にアクセスできる環境が残っている。また小さな工場や作業所が多数存在しており、デザイナーや建築家と制作現場が密接に結びついている。こうした環境は今後世界的に3Dプリントなどファブリケーションの環境が変化していくなかでおもしろいポテンシャルとなっていくだろう。日本の建築家が建築を介して都市に関わっていくのとは異なり、イスタンブールでは都市の巨大な網の目へと直接的に関与していくことによって、結果、建築へと向かっていける。そのときの建築は建築物であるかもしれないし、もっと別のなにかかもしれない。
さてこの旅の目的は、今年第1回目となるイスタンブール・デザイン・ビエンナーレ★1を取材することだった。この日本ではとくに注目されていなかった小さなビエンナーレは、しかしながらその数日後に訪れたヴェネツィア・ビエンナーレ建築展が「COMMON GROUND」という漠然とした、そしてまあ誰も否定しない、いうなれば「当たり障りのない」テーマによって評判通り面白みに欠ける内容だったのに対し、まさにイスタンブールという都市を体現しているかのような「Imperfection(不完全性)」という全体テーマが設定され、いま現実に起りつつあることの予兆を捕まえ、歴史的にコンテクストも示しつつ、それを明確なメッセージとして打ち出していくという素晴らしい内容だった。特に二つある主会場のうちのひとつ、小学校跡地を会場とした「ADHOCRACY」という展覧会は、デザインのソーシャル化、ファブリケーションの革新というデザイン環境の大きな変化をとらえ、その可能性と意義を模索するもので、イタリアの建築雑誌『Domus』の編集長ジョセフ・グリマ氏がキュレーションしている。この二つのキーワードは、先に述べたイスタンブールという都市の特性についての説明にもなってはいまいか。このビエンナーレについての詳しいレポートはここ★2に記しているので興味がある方はぜひ読んでいただきたい。

元小学校を利用した会場

★1──イスタンブール・デザイン・ビエンナーレ(2012年10月13日〜12月12日)
URL=http://istanbuldesignbiennial.iksv.org/
★2──Istanbul Design Biennial レポート「デザインにとって不完全性とは何か?」(dezain.net 2012年11月7日)
URL=http://www.dezain.net/2012/21901/

●A2

国立近現代建築資料館の新設

今年注目したい出来事は、日本の建築資料保存にとって大きな一歩になるであろう国立近現代建築資料館★3の新設だ。これは文化庁によって「『文化芸術の次世代への確実な継承』に基づき、国の責務として近現代の建築資料等の収集・保存体制を緊急に整備する」ことを目的としたもので、これまで丹下健三ら近代建築の巨匠が残した図面や模型、記録写真などの行方に関して、紛失や劣化、海外への散逸などが危惧されていた状況に応えるかたちで実現している。実際のところ、かなり以前から海外の建築博物館や建築部門を持つ美術館などは積極的に日本の近代以降の建築の成果を評価し、資料の収集を行なっており、すでに日本の建築史において重要な役割を担ってきた種々の建築資料が海を渡り保管されている。そうした背景を受けて近年、公的機関による建築資料の収集・保存の体制つくりが求められていた。また公立美術館での建築展の存在も、建築に対する文化的評価をうながしたと考えられる。また新たに建物が建つわけではなく湯島にある合同庁舎を改修するとされていることも個人的には共感するところが大きい。派手さはなくとも着実な資料収集と適切な運用を期待したい。
ここで建築資料、ないしは建築に関する情報の持つ価値について考える。建築を経験することにおいて重要なのは身体なのだと考えると、建築に関する情報において重要なのはコンテクストだといえる。つまりそのモノがどのような経緯で、どのような関係性のなかに存在しているのかといった、情報のネットワーク内の位置が、そのものの価値を生みだす。そしてそのコンテクストにとっては、その情報の確かさが必要不可欠となってくる。それに対して建築家がよくやってしまうのは、展示用に新たにきれいな模型を作り直したり、修正してしまうことで、結果オリジナルではないコピーを展示してしまうことだ。これは、身体性に重きを置くのであれば正しいアプローチだといえる。つまり現実に存在するであろう建築の擬似的体験を、いかに精度よく生み出すのかが重要になってくるからだ。しかしながら、この「擬似的」であることがコンテクストにとっては致命的になってくる。これはある場所のコンテクストを疑似的にまとった建築(町家風マンション、ゴシック風の結婚式教会)について考えてみると良いだろう。つまり、多少痛んでいたり、マスキングテープで補修されていたとしても、そうしたモノが持っている情報の束がコンテクストおいては意味があり、ひいてはオリジナルであるということに繋がっていく。数年前に東京の複数のギャラリーが、建築資料の価値を提示するために建築家の模型や図面の展示・販売を行なったが、そのとき問題になっていたことに「オリジナル」ということへの建築家側の意識の低さがあったようだ。たしかにあまりにも日常的に接していると本人にはその価値が見えにくくなり、簡単に廃棄したり、新しく作り直したりしてしまう感覚もよくわかる。とはいえ、聞いた話しではあるが海外の某設計事務所では、建築家のスケッチから、インターンがつくった模型の一つひとつにまでがナンバリングされ、保管されているらしい。自らの建築を情報としてどのように活用し、建築の二次的な価値付けを行なっていくのか。たとえば建築写真の使用について考えても、一般的には写真に対して金銭的授受が行なわれるが建築に対してではない。今回の国立近現代建築資料館の設置を受けて、長期的な、また広く歴史、文化的な視点から自身の建築資料との関わり方を考えてみるのもよいのではないだろうか。

★3──国立近現代建築資料館
URL=http://www.bunka.go.jp/bijutsukan_hakubutsukan/shiryokan/index.html


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