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特集:201301 2012-2013年の都市・建築・言葉 アンケート<

冨山由紀子

●A1+A3

写真は、タイミング。
そう言われると、まず、写真を「撮る」際のタイミングのことを思い浮かべてしまう。しかし、写真を「見る」という行為においても、タイミングはとても大きな意味を持っているのではないだろうか。その写真と、いつどんな状況で出会うかによって、受けとる印象は大きく変わってくるはずだ。これは当たり前のことであるし、写真に限った話でもないけれども、そんな当たり前の、当たり前であるがゆえに忘れがちなことを、あらためて確かめていくような一年だった気がする。

6月のある日、東京・大塚へ、安村崇氏の写真展「1/1」(ミサコ&ローゼン、5月13日〜6月10日)を見に出かけた。扉をあけて中に入り、まずは少し遠くから、展示空間をぐるりと一望する。色とりどりのカラー写真が、白い壁によく映える。どの写真もモチーフを絞ったシンプルな画面構成で、離れたところから眺めると、まるでミニマルな色面のコンポジションのように見える。

安村崇「1/1」展会場風景
Courtesy of the artist and MISAKO & ROSEN

次に、もう少し近寄って一枚一枚の写真を見る。色面を構成していたモチーフが、タイル貼りの路面や、カラフルに色塗られた壁、椅子や階段などであるのが分かってくる。人の暮らす空間を、部分的に切り出した写真が並んでいるらしい。しかし、何が被写体なのかが見えてきても、最初に受けた"色面ぽさ"の印象はなくならない。壁や床といった、「面」で構成されている写真が多いからだろうか。人の暮らす空間は、本当にたくさんの面に取り囲まれているのだなと思う。まるですべてが作り物のハリボテであるかのように。

こんなふうに人間の生活空間を異化してみせる手法は、2005年に写真集にまとめられた作品『日常らしさ』(オシリス)にも通じるもので、見慣れたものが別の何かに見えてきてしまう不気味さは今回も健在である。ただ、「1/1」の場合は、『日常らしさ』よりも画面内の要素が切り詰められているので、具体的なものを撮っているにも関わらず、抽象的にも見えるという特徴が現れている。一枚の写真の中に具体性と抽象性という相反するベクトルが同居し、せめぎあっているかのようだ。

安村崇「1/1」展より
Courtesy of the artist and MISAKO & ROSEN

そんな印象を抱きながら、もう一歩写真へ歩み寄り、ギリギリの距離まで顔を近づけてみると、また新たな見え方が生じてきた。平坦に見えていた色面の中にも、壁の微妙な凹凸や、塗料の垂れ流れた跡、経年による汚れなどがあるのが分かってきて、そうしたほつれから読み解くことのできる、時間の経過や蓄積に意識が向かっていくのだ。垂れた塗料からは、それを塗った人の行為の痕跡を読みとることができるし、その塗料が選ばれた背景にはきっと、建物の色が目的別に使い分けられてきた歴史や、塗料の性能と価格、ご近所同士の関係、家主の個人的な趣味などが絡み合っているはずだ──。そんなふうにして、目に見える痕跡から何かを想像し、さらに、その奥に畳み込まれた出来事までをも想像しはじめてしまう。写されているのは事物のごく一部分であるし、写され方も平面的なのだが、そうして画面内の要素が絞られているからこそ、ひっそりと残された些細なズレや汚れに注意がひかれ、普段は気にせずに暮らしている、事物の歴史や関係性について考えだしてしまうのかもしれない。具象と抽象の拮抗に加えて、時間や出来事という奥行きまで登場して、頭の中は大忙しだ。

安村崇「1/1」展より
Courtesy of the artist and MISAKO & ROSEN

ちなみに、画面内の要素が切り詰められているがゆえに、その中に蓄えられた歴史を追いたくなってしまう写真には、安村展のすぐあとに見た、「石元泰博写真展──桂離宮1953,1954」展(神奈川県立近代美術館鎌倉、4月7日〜6月10日)でも出会うことになった。モノクロームの桂離宮と、カラフルで現代的な「1/1」とでは、時代も被写体もずいぶん違っているけれども、不思議と重なって見える部分が多いのは愉しい発見だった。

石元泰博「桂離宮 水屋附近石組(松琴亭)」1953-54年 高知県立美術館

一方、「1/1」には、石元氏の桂離宮とも、『日常らしさ』とも異なる点がある。それは何かと言えば、青と緑のグラデーションが広がる中に、漆黒のラインが縦に太く走っている一枚のように、いくら近づいてみても、何を写したものなのか判然としない写真が含まれているということだ。他の人が見れば何らかの察しがついたのかもしれないが、私には分からなかった。周囲の写真から察するに、やはり何か構造物の一部分なのだろうか。細部の質感は、あるような、ないような......どうにも掴みづらい。きっとこの写真の中にも、何らかの歴史や関係性が示唆されているはずなのに......。
手がかりの掴めない、ヒントのない写真は、他の写真よりもさらに不気味に見える。そして、なぜか猛烈に悲しい。

安村崇「1/1」展より
Courtesy of the artist and MISAKO & ROSEN

悲しい? なぜ悲しいのだろうか? 何が写っているのか分からない写真など巷にいくらでもあるし、分からないこと自体を愉しんでしまえばよいだろう。しかし、「1/1」を見る私は、無性に悲しかった。そして、目の前の「分からない」写真を見つめながら、脳裡にはなぜか、震災と津波によって生まれた大量の瓦礫のイメージが浮かんでいた。

どうして瓦礫のイメージなのか。「1/1」を震災と結びつけて見ようとは思っていなかったので、予期せぬ事態に自分でも戸惑った。しばらく考えつづけて、とりあえず思い至ったのは、瓦礫を目にしたときの悲しさと、目の前の「何を撮っているのかわからない写真」に感じた悲しさとが、どこかで繋がったのではないか、ということだった。

瓦礫もかつては何かの一部分だったはずで、かろうじて元の姿を想像することができる破片もあるけれども、できない破片も多い。蓄積されてきたはずの時間や関係性を知るためのヒントが、消滅してしまっている破片の集積。それは底抜けに悲しい光景だった。そして、目の前のそれが何であるのか分からない、来歴を知ることができないという点において、瓦礫と「1/1」のイメージが重なりあっているように、私には思えたのだ。
もちろん、安村氏の撮る都市の表面は、瓦礫のように崩れてはいない。けれども、その表面性やハリボテ感ゆえに、いつ崩れ去ってもおかしくない危うさを湛えている。つまりそこには、瓦礫化への予感のようなものが漂っていたのかもしれない。それは悲しく、恐ろしい予感だった。

こんなことをいくら考えてみても、後付でしかないし、勝手な思い込みでしかないような気もする。ただ、私にとっての「1/1」は、こんなふうにして、他でもない2012年という年に出会った写真として、脳裡に刻み込まれることになった。これが、タイミングというものなのだ──そう思わずにはいられなかった。

こうした体験は、決して私個人だけのものではなかったはずだ。たとえば楢橋朝子氏が撮り続けてきた「half awake and half asleep in the water」シリーズは、水面すれすれの位置から風景をとらえるという手法ゆえに、震災後に津波と関連づけて見られるようになったという。

楢橋朝子「in the plural」展より
© Asako Narahashi

そうした見方は写真家を傷つけ、制作の継続をためらわせたけれども、傷や混乱を認めた上で開催された年の瀬の個展「in the plural」(ツアイト・フォト・サロン、11月20日〜12月22日)には、混乱を混乱のままに提示しようとする強さが感じられたし、彼女の写真を津波と結びつけて見た人にとっては、それがその写真と出会うタイミングの一つであったということに他ならない。

人は自分の置かれた状況から切り離して、まっさらな状態で写真を見ることなどできはしないのだ。「1/1」も、今回とは違うタイミングで見たら、また違う印象を受けたのかもしれないし、他の人は他の見方をするだろう。各々に各々の出会いと、そこから生まれる何かがあるはずである。
写真は、タイミング。そんな当たり前のことを、あらためて噛みしめた。

楢橋朝子「in the plural」展会場風景
© Asako Narahashi

●A2

1970年代以降、日本の写真界の一翼を担ってきた「自主ギャラリー」という存在に対して、今年に限らず、長い目で関心が注がれていくことを期待したい。助成などを受けずに、持ち出しで展示空間を運営することには利点も欠点もあるが、都市に散在するこれらの場が、写真家たちの地道で継続的な活動を支える基盤の一つとなっているのも事実である。
東京国立近代美術館で開催されたグループ展「写真の現在4 そのときの光、そのさきの風」(6月1日〜7月29日)は、こうした自主ギャラリーの活動に光をあてると同時に、その現在的な立ち位置を考えさせる試みともなっていた。TAP Galleryのように、写真専門のアートフェア「東京フォト」(9月28日-10月1日)に出店するギャラリーも出てくるなど、自主ギャラリーの在り方も時代の流れとともに変容しつづけている。運営形態の模索や、海外事例との比較も含めて、今後も目が離せない。

笹岡啓子『Remembrance 17 ― 浜通り~中通り』(KULA)

笹岡啓子『FISHING』(KULA)より

ちなみに、先に挙げた楢橋氏も、コマーシャル・ギャラリーでの個展と同時期に、自主ギャラリーでの企画展「とおすぎてみえたこと──アムステルダム、黒姫」(photographers'gallery及びKULA PHOTOGALLERY、11月20日〜12月2日)を開催している(残念ながら私はこちらの展示を見逃してしまい、今でも大変後悔しているのだが......)。
昨年このアンケートで言及させて頂いた今井智己氏の展示も、自主ギャラリーでの企画展であった。氏は今年の1月26日から、六本木のタカ・イシイギャラリーフォトグラフィー/フィルムで個展「Semicircle Law」を開催(2月16日まで)。同名の写真集がマッチアンドカンパニーから刊行されている。
同じく昨年触れさせて頂いた笹岡啓子氏は、自主ギャラリーの運営に参加しながら、写真冊子シリーズ『Remembrance』や写真集『FISHING』(ともにKULA、2012年)を刊行し、東京都写真美術館でのグループ展「この世界とわたしのどこか 日本の新進作家vol.1/1」(12月8日〜2013年1月27日)にも出品。自主ギャラリーにおいて継続的な活動を行いながら、他所へも活躍の場を広げている。
他にも、「写真の現在4」展にも参加した村越としや氏による展示と写真集『大きな石とオオカミ』(plump WorM factory、2012年)など、自主ギャラリーを通して出会うことのできた、印象的な写真が数多くあった。今年はどんな写真に出会えるのか、2013年という年がどのようなタイミングとなって現れるのか、気負ってしまってもいけないけれども、見続けていきたいと思う。


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