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特集:201401 2013-2014年の都市・建築・言葉 アンケート<

笠置秀紀

●A1
「あいちトリエンナーレ」★1と「アーツ前橋」とその周辺★2
地域アートプロジェクトを全て見ているわけではないので、これが現在の日本標準なのか、それとも最先端なのかは不明だが、ひとつの断面であることは確かだ。具体的な共通点としては、良い意味での「地味さ」だ。メディア的、観光的にものすごく地味なのだ。これまで地方のアートフェスティバルや現代アートを扱う地方美術館に行くきっかけとして、有名な海外アーティストが出展していたり、スペクタクル志向の派手なアート作品の存在があった。個人的に言うならば、足を延ばすのはそれらに客寄せパンダ的に引き寄せられ、その副産物として地域の魅力に触れるだけにとどまっていた。これらの試みは継続を通じて確かに地域に浸透した部分はあるものの、「あいち」と「前橋」はより地に足の着いた、成熟したものに感じられたのだ。それは観光から日常へのシフトと言ってもよいだろう。
「あいちトリエンナーレ」では、NAKAYOSHIのVISITOR CENTER AND STAND CAFE★3が特徴的だった。主要会場の長者町に、使われていない商店をカフェバーに改装した拠点である。特筆すべきは、このVISITOR CENTERが公式プログラムではないことだ。アーティストが商店街に乗り込み、ゲリラのように始めた期間限定の施設である。聞くところによると商店街から無償でさまざまな家具や、厨房機器まで集まってきて、営業ができるようになったのだという。地元のこのような社会関係資本が自然につながる背景には、アーティストの力もあるが、「あいちトリエンナーレ」が地域に根づいた証拠に違いない。
秋にオープンした公立美術館、「アーツ前橋」にも同じような状況がある。デパートを美術館にコンバージョンした施設も特筆すべきだが、それにともなって同時多発的に近くの商店街に生まれた、空き商店を利用したアートスペースの数々である。そう、1つや2つではないのだ。いくつかは市営のスペースもあるのだが、そのうちの一つである閉店した銭湯を利用したスペースも、前橋市民の部活動からつながった関係から見つけた場所なのだそうだ。前橋の文化的蓄積は大きくあるものの、公共のプロジェクトが起点となってさまざまなスペースが生まれているのである。
これまでは「箱モノ」「役所仕事」などと揶揄されたプロジェクトも、市民一人ひとりがそれをチャンスとして捉え、行政から与えられることに依存せず、DIYで自分たちのスペースを作っていく。もはやその状況は官か民かという対立を超えている。「行政とDIY」これが最強な組み合わせなのかもしれない。市民の社会的な脚本に「行政のやることに反対ありき」から「行政をうまく利用しながらDIY」のような選択肢が着実に広がり移行し始めている。
 一方でそこに展示される美術作品の質は必ず担保されなければ、このような効果は生まれないのかもしれない。美術が"まちづくり"や"コミュニティ"という名のもとに、うまいように利用されるのではなく、そこに美術の本質を伝える作家とキュレーションが存在しなければならない。この2つのアートプロジェクトでは、優れた作品がその場所を開く力を持っていると改めて思わされた体験ができた。
例えばアーツ前橋の開館記念展「カゼイロノハナ」★4は、地元の作家の作品を中心とした企画展であった。立体や現代美術、絵画、地誌的資料などが相対的に組み合わされ、其々が際立っていたとともに、一見「地味な」絵画がひときわ輝きを放っていた。赤城山など地元の風景を描いた作品は、「ご当地」で見ることによっていきいきと迫ってきた。かつて上野などで見ていた、遠い地方の風景画は、どこか観光的な視点に捉えられて空々しく思え、いつしか見過ごすようになっていたのだ。これがキュレーションのテクニックなのか、絵画の力なのかは、判断できる力を持ち合わせていない。しかし絵画の「ご当地」性は周りに広がる地元の日常風景を際立たせる効果があることは確かなようだ。
「あいちトリエンナーレ」では、岡崎会場の志賀理江子「螺旋海岸」★5が秀逸であった。デパート上階の空きスペースを利用した会場は、現在の地方都市がおかれている状況がうまく表出していた。「螺旋海岸」は夜な夜な繰り広げられる老人たちの宴をとらえたような写真群を、螺旋状に配置したインスタレーションのような作品。見ている間にリアルなのか演劇なのか虚実皮膜の間で彷徨う感覚に陥る写真作品だ。ふと順路を外れた時に、会場の端にある真っ暗なエスカレータホールに迷い込んでしまった。営業を続ける下の階の淡々とした館内放送が聞こえてきた瞬間に、日常に戻され、同時に被写体の妖しい宴がリアルさを増した。被写体たちの宴はまさにこの打ち捨てられたデパートの空間で繰り広げられているのではと、錯覚してしまったことが印象的であった。
「カゼイロノハナ」と「螺旋海岸」に共通するのは、「いまここにいること」の感覚が開くことだったように思える。現在、本当に地域に必要なのは、場所の奥深い本質に迫るための方法論なのではないだろうか。その素養の上に立つことで、地味な日常はものすごく魅力的に見えてくるはずだ。

 
「あいちトリエンナーレ」「アーツ前橋開館記念展 カゼイロノハナ 未来への対話」ポスター


●A2
プロジェクトではないのだが、わたしの地元である吉祥寺の行方はますます気になっている。昨年に本サイトで特集記事として掲載いただいた「東京で一番住みたい街、吉祥寺──街の魅力とジェントリフィケーションをめぐって」★6の後、ドンキホーテの駅前出店や、75年続いた老舗家具店のMIYAKEの閉店、焼き鳥屋の「いせや」新装オープン等、吉祥寺の変容は加速し続けている。つい先日もネットニュースの吉祥寺を揶揄するニュース★7が目に入ってきたりと、街のイメージが簡単に乱高下する状況は注視するとともに、今までにないアクションを起こさなければならない。これも日常と観光化の問題なのかもしれない。

●A3
建築家というのはそれほど強くない。なにかが建設されるとなると、とたんに建築家が矢面に立たされて批判を浴びるが、世の中が思うほど建築家のコントロールできることは大きくない。むしろ社会システムの翻訳者でしかないのかもしれないとも思わされる。それでも、仕事を依頼されたなら、コンペを勝ち取ったなら、少しでもシステムの隙間から社会を変える戦いを行なうのが建築家なのではないだろうか。やると決まったらやるしか無い。2020年の東京オリンピックはまさにそんな状況だ。
一方でザハ・ハディドの新国立競技場ばかりに目を向けていることは大きな問題である。むしろ目を向けるべきは建築のシンボリズムではなく、東京の都市全体である。オリンピックをきっかけに、テロ対策や安全性を理由にして、東京の公共空間が余計に抑圧されることは避けてほしい。昨年末の宮下公園におけるホームレス排除★8などは、どうしてもこのオリンピックに関連した序章なのではと邪推せざるえない。またこれらが、日常の生活空間や、名も無き建築が織りなす風景にまで及び、破壊されないことを願うばかりである。

註 ★1──あいちトリエンナーレ:http://aichitriennale.jp/
★2──アーツ前橋:http://artsmaebashi.jp/
★3──Facebookページ:https://www.facebook.com/pages/NAKAYOSI-VISITOR-CENTER-AND-STAND-CAFE-ビジターセンターアンドスタンドカフェ/1399486116930487
★4──アーツ前橋開館記念展 カゼイロノハナ 未来への対話:http://www.artsmaebashi.jp/?p=2112
★5──志賀理江子「螺旋海岸」:http://aichitriennale.jp/artist/shiga_lieko.html
★6──東京で一番住みたい街、吉祥寺──街の魅力とジェントリフィケーションをめぐって((Website10+1」):https://www.10plus1.jp/monthly/2013/07/issue01.php
★7──住みたい街人気NO1「吉祥寺」これまで評価が高すぎで、実際はたいしたことない?(「J-CASTニュース」):http://www.j-cast.com/2014/01/25194797.html
★8──渋谷区と警察、公園から野宿者を強制排除(「BLOGOS」):http://blogos.com/article/76930/


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