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  . 堀井義博
▲展示された模型とBMW
撮影=筆者

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林雅子の回顧展を観に行った。筆者は生前の彼女に会ったこともないし、彼女の実作を訪れたこともなく、したがって彼女の仕事を評論する技量もその知識もないため、なるだけ展覧会そのものにだけ触れて本文を展開したいと思う。

回顧展とは言え、展示されていた模型のほとんどが今回の展覧会のために新規に製作されたもののようで、展覧会としてくたびれたモノを見せているという様子はまったくない。模型は新作だが、図面はというと、生前の林本人が描いた手描きの生々しい図面が展示されていて、ここ10年ほどですっかりCAD図面に慣れ切ってしまった目には、むしろとても新鮮にうつる。

手描きの図面というのはよい。1967年生れの筆者の世代だと、ほとんどの人が学生時代はもっぱら手描きだったろうし、筆者個人に関して言えば、就職してからもしばらくの間はまだ手描きで仕事をしていたため、CADを使うようになった現在でさえ、図面を描く時の感覚は、基本的には手描きのそれの延長だという実感があるのだが、はじめからCADを使っているような最近の学生だとどうなのだろう?という疑問が浮かぶ。別に旧きを懐かしんでいるのではなくて、手描きというものには一種の力が備わるということを、手描きの図面を前にするとしみじみ実感する、というだけのことだ。

どういうことかと言えば、手描きならば、描き手の本人にとって「何を伝えたいか?」が明確でありさえすれば、意図せずとも自然にそのメリハリが結果となって図面に顕われる。描き手が必ずしも熟練者でなくとも、例えば筆者のようなヘタクソでさえそうなる。逡巡した痕跡はその図面に必ず結果となって残るし、自信のない部分は必ずある種の不明瞭さをそこに残す。だから、林のような熟練者の手描き図面を見るのは非常に楽しい。設計に心得のある者にとってなら誰にとっても、それは一種の楽しい読み物となる。そういう意味では、展示品目に、もう少しラフな段階のスケッチがあっても良かったような気もする。あるいは、彼女はあまりそういうものを描かなかったのだろうか?

一方、CADで描かれた図面ではなかなかそうも行かない。むしろ、手描きでメリハリを付けることの必要性を体得している者の方が、CADでの図面描きもうまいことが多いと感じている筆者などは、ひょっとするとすでに生きた化石なのだろうかという気がしなくもない。が、現在の建築図面の文法や記述上の作法が、あくまでも手描きの時代に作られたそれらに則っている以上、あながちそれが間違っているとも思えない。CADでは基本的にあらゆる情報が並列的で等価に表示・表記されうるために、設計時の逡巡を伝えるためにすら表現上の「工夫」を凝らさなくてはならない、という滑稽な場面に出くわすことがしばしばあるほどだから。つまり、CADで図面を描いているときには「落ち着いて悩むこと」さえできず、「悩んでいるかのような表現とはどんな表現か?」についてアタマを悩ませねばならない、という珍妙な場面にまま出くわす。それだけが理由というワケではないし、実際、様々な理由が複雑に絡んでいるのだけれども、筆者などは、最近ときどき「仕事は手描きに戻そうか?」と真剣に考えることがよくある。冗談で言っているのではなく、実際によくそういうことを考える(しかしおそらく「現実的に言って」そうはしない気がするが)。

ところで、展示されていた図面のそこかしこに覆いのような紙切れが被せてあったりしたのだが、あれは一体何だろう?施主の物理アドレス(=住所)など個人情報に関する記載でもあったのだろうか?それとも何か、一般には公開できないような究極の逡巡の後でも残っていたのだろうか?それにしたところで、CADで描いた図面なら、その部分を出力しなきゃいいだけ。

話は変わって模型のほうはというと、こちらはおそらくCAD/CAMで製作されたのであろう超精密な12物件のアクリル製模型群が主で、それにいくつかの他の模型が加わる。アクリル製の模型は、展示台に埋め込まれた白色蛍光灯の光で会場の中に浮かび上がるように展示されている。アクリルを材料に用いた模型と言えば、どうしても、大胆に情報を省略した、一種の「表現的な」模型を思い浮かべがちになるが、本展のために製作された模型群では徹底して「構造」を表現しており、普通は見えなくなってしまう構造・架構が実に精密に再現されている。「空間の骨格を明らかにする」ことを第一に大切にしていたという林の設計した「空間の骨格を明らかにする」模型群。それは、物理的な躯体・架構・構造を指すだけでなく、それぞれの建築が生み出す一つ一つの空間の「関係性」を、すなわちその空間の骨格を見せる。

模型の精度としては、手作業で作るには明らかに不可能な領域に達している。しかしながら、既製品の部材を組み合わせて作って行くというような、普段僕らがやっている模型製作の手順とはまったく違い、すべての部材をアクリルのカタマリから切り出すレベルから始めているように見える。つまり、普段僕らが、縮尺に見合った適当な寸法を持った材料の「選択」から入って、それらの部品を「組み立てる」というプロセスで模型を作るのに比べれば、この展覧会に用意された模型群は、ある種の純然たる「手作業」の産物とさえ言えるのであって、その精度を導き出すための手段としてCADが使用されたに過ぎない、と感じた。

住宅をメイン・フィールドとして活躍している今日の僕らの世代の作家達と比べれば、林が圧倒的に裕福な施主に恵まれていたらしいことは、いくつかの仕事を見ればすぐに分かる。しかしながら、彼女に仕事を依頼した側がそうだっただけでなく、おそらく彼女自身も(あるいは夫の昌二氏も含めて林夫妻が)今日の僕らとは全然違ったレベルにあったんじゃないかという気さえする。これは何もやっかみから言っているのではなく、たぶん僕らの誰もが、暗黙の内に了解済みの事項でもあるような気がする。

展覧会場の外、代官山ヒルサイドフォーラムの入り口付近に、唐突に一台のシブいワイン色のBMWが置かれていた。生前の林雅子氏が、発売開始と同時にドイツから取り寄せて運転しておられたものだそうだ。今日の僕らの生活環境は、物質的にはおそらく当時の彼等よりももっと選択の幅が広がっているに違いないし、おそらく、手に入れられる品々の種類も品質もずっと豊富な世界にいる。また、インターネットの普及のおかげで、当時の彼等よりもはるかに簡単に個人輸入ができるようになっているし、円の価値だって、日々変動しているとは言え、例えば今から39年前(=筆者と林雅子との年齢差で、39年前に彼女は現在の筆者の年齢だった)に比べれば断然高値で安定しているため、その頃には超大金持ちにしか手に入れられなかったような商品や経験も、はるかに手に入れやすい世界にいる。しかしだからこそ、今日の僕らの中には、海外で発売になった自動車を自分で取り寄せたりする人など、ほとんど誰もいない。たぶん彼等は、僕らと非常によく似た職業を持った、僕らと非常によく似た生物だったのかもしれないけれども、やはり何か僕らとはぜんぜん違う存在だったんじゃないかという思いを拭い切れない。

彼女が現在の僕らよりも「恵まれていた」と言っているんじゃない。よく知られているように、彼女は日本の女性建築家のパイオニアであり、女性が職業人として生きて行く、ただそれだけを実現するのさえ、現在よりも遥かに困難を伴う時代を生きた人物であることは周知だ。だから、今から見れば、彼女が同時代の他の女性達とは違っていたように見える。しかし、と言うことは、彼女と人生を共にした昌二氏もまた、他の同時代の男性達とはぜんぜん違っていたのかもしれない、と思えたって不思議じゃない。少なくとも、筆者個人からはとても遠い世界の人々を見る思いがする。外見上は非常によく似ているかもしれないが、ほとんど完全な他者。そしておそらく「実際に」ぜんぜん違っている。


「建築家 林雅子」展・東京
日時:9月4日(水)〜15日(日)10:00〜18:00
会期中無休/最終日 10:00〜17:00)
会場:ヒルサイドフォーラム
東京都渋谷区猿楽町18-8 ヒルサイドテラスF棟1階
TEL:03-5489-3648 会期中のみ連絡可
入場料:無料

「建築家 林雅子」展・大阪
日時:9月20日(金)〜10月6日(日)10:00〜17:00
火曜日休館/最終日 10:00〜16:00
会場:大阪市立住まいのミュージアム
大阪市北区天神橋6-4-20住まい情報センター8階TEL:06-6242-1170
入場料:無料