12 メディアテークの誕生——「超域圏」の新型文化施設
 
 さて前回の「メディアアートと美術館」では、「アートセンター」や「メディアセンター」と呼ばれる新しいタイプの施設を、既存の美術館と区別してみせた。もちろんこの区別は、この新しいタイプの施設が、コンピュータを活用したメディアアートの展示に対応した機能を備えていることを強調するために為されたのだが、逆にこの強調は、では既存の美術館とは何なのか、という反問的な問いを孕むことになる。この問いには、大別して二通りの解釈が可能である。ひとつは、美術館が既存の美術作品を収蔵する文化施設であるということ、もうひとつは、「アートセンター」などと比べた場合には、美術館そのものを既存の文化施設とみなし得るということだ。いずれにしても、この二つの解釈に共通しているのは、美術という表現、そしてそれを収蔵する美術館という文化施設が、長い時間の中で徐々にその純度を高め、排他的なシステムを構築してきたものとみなす視点である。
 では、美術館というシステムが構築されるそのプロセスにおいて、システムの「外」へと排除されてきたものは、一体何だったのだろうか? その排除の歴史を遡った末には、第2章でも検討した、「ミュージアム」の語源としても知られる古代アレクサンドリアの文化施設「ムセイオン」の姿が見えてくるだろう。その際にも述べたように、この「ムセイオン」は、講義室・食堂・宿舎・観測所・博物学のコレクション、そして膨大な蔵書を収めた図書館からなる一大総合研究施設であった。いわば「ムセイオン」は、当時世界でも最高水準を誇ったヘレニズム文化の粋が集積された「知の殿堂」だったのである。ところで、この全体像からも察されるように、「ムセイオン」に集積されていた膨大な「文化の粋」や「あらゆる情報」のなかで、美術作品が占める割合は決して大きなものではなかった。その多くは、約70万巻とも伝えられるパピルスであり、またヨーロッパや中近東・西アジアの各地からもたらされた珍奇な聖遺物や献納物だった。要するに、まだ「美術」というカテゴリーが確立されておらず、多くのジャンルが未分化だったこの時代、「ムセイオン」には今でなら博物館や図書館へと収蔵されるであろう多くの情報が蓄積されていたのである。そう、美術館というシステムの構築と洗練は、「文化の粋」や「あらゆる情報」を分かち合う博物館や図書館の成立、及び両者の相互に排他的な発展を抜きに語ることはできないのだ。
 このうち博物館に関しては、第2章で言及した「キャビネ・デ・キュリオジテ」を起点に据えれば、その生成と発展のプロセスを大まかに辿ることができるだろう。大航海時代の到来とともに、世界各地から集められた珍奇な文物の数々は、それを分類・再構成する近代的な視点の編成を要請した。そしてその視点による「文化の粋」や「あらゆる情報」の再構成のプロセスにおいて、ユーロセントリックな審美的基準に基づく価値体系である「美術」と、その外部に位置する「博物」とが徐々に分岐していったのである。前者の確立を1793年のルーヴル美術館開館に窺うことができるとすれば、1753年の大英博物館の開館を以ってそれに対応させることができるだろう。以後の200年は、「美術」と「博物」の分岐が固定されていく歴史でもあったのだ。そして、時代はグッと現代に近づいて1984年、MoMAで「20世紀美術におけるプリミティヴィズム——『部族的』なるものと『モダン』なるものの親縁性」と題する展覧会が開催された。これは文字通り、ピカソやマティス、ブランクーシといった20世紀美術のビッグネームの作品と、アフリカやオセアニアの「部族美術」とを対応させ、その「親縁性(affinity)」を明らかにしようとする意図を持った展覧会で、「西洋美術」と「部族美術」の区別に潜むユーロセントリズムを摘出した斬新な企画意図を評価する声が高まる一方、新しい衣をかぶった植民地主義だという批判の声もあり、激しい賛否両論を巻き起こした。その問題提起や反響は前に取り上げた「大地の魔術師たち」とも共通するものであるが、「20世紀美術——」展の場合は、その「親近性」という視点が「美術館」と「博物館」との制度的分割をも含んでいた点で出色であった
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 だが、相互の排他性が根深いにしても、まだしも博物館のほうが、図書館よりはより多く美術館と比較検討されているのではないかという印象を免れない。「美術館・博物館学」と「図書館情報学」といったアカデミズム上の区分、あるいは「学芸員」と「司書」といった職業上の呼称の区分は、図書館の存在をより遠ざけてしまっている一例である。だが、その制度化やシステム構築のプロセスを一瞥すれば、美術館との対比という観点からは、図書館もまた極めて重要な文化施設であることがわかる。
とりわけ、ここでの主題である「メディア」という概念の現代的な意義に引き寄せるなら、図書館と美術館の比較検討は必要不可欠なように思われる。
 それでは以下、ここでの議論に必要な範囲でごく大まかに図書館の歴史をなぞってみよう。「ムセイオン」に端を発する「知のアーカイヴ」としての図書館機能は、その後のキリスト教世界では、古代・中世を通じて長らく教会がになうこととなった。その一端は、例えばウンベルト・エーコの小説『薔薇の名前』にもうかがうことができるだろう。その状況に変化が訪れたのはルネサンス期、グーテンベルクによる(とされる)活版印刷術の確立と普及によってである。この画期的なテクノロジーによって、出版物の刊行点数は飛躍的に増大、様々な「知」が教会の外へと飛躍していくことになった。そしてイタリアン・バロックの時代には、天窓からの再考を特徴とする図書館建築のスタイルが確立され、また18世紀後半のフランスでは、エティエンヌ・ブーレーによって近代の合理精神にも対応するような「王立図書館再建構想」が計画されたのだった。
 以後の近代的図書館の歴史は、幾人かの固有名によって代表させることができる。
アンソニー・パニッツィは円形の空間の中心にレファランス・コーナーを設け、合理的な知のイメージを表現した大英博物館図書館を構想・実現したし(1852)、また19世紀前半には、アメリカでも「アメリカン・ボザール」と呼ばれる近代的な図書館建築のスタイルが流行した。そして20世紀を迎えると、ベルギーのポール・オトレがわずか5年のうちに1700万枚もの膨大な「世界書誌目録」を作成、「世界の博物館化」という理念の元に、膨大な情報を集積した近代図書館を建築しようとしたのだった。この理念は、たちまち同時代の建築家ル・コルビュジエを触発し、オトレはコルビュジエの「ムンダネウム」の協働者として迎えられることになった
★2。「世界図書館」をはじめ、「世界博物館」「世界大学」「国際機関事務棟」といった諸施設を一同に集約しようとした「ムンダネウム」の計画案は、まさに「ムセイオン」の20世紀版と言えるだろう。
 以上の概略は、主として桂英史の『図書館建築の図像学』に拠るものだが、ここに窺われる近代的な視線と空間編成との密接な関連は、そっくりそのまま美術館にも当てはまるだろうし、また同書の冒頭に引用されている「多くの図書館どうしが話し合ってわれわれの最良の本を選んでくれることができるようになる」というマーヴィン・ミンスキーの言葉は、図書館を美術館と差し替えても何の違和感も生むことはない。そう、いまや大いにハイパーテキスト化された情報(ソフト)のあり方が、その容器であるハコモノ(ハード)の再編を促している事態は、図書館も美術館も同様なのである。そして「アートセンター」や「メディアセンター」に相当する図書館の事例として指摘し得るのが「メディアテーク」と呼ばれる新種の文化施設である。
 読んで字のごとく「メディアテーク」とは「メディア(media)」と「図書館(bibliotheque)」を組み合わせた造語であり、まだ日本では馴染みの薄い概念だが、しかしデジタル化された多量の文献を収集・分類し、またインターネットをはじめとするコンピュータ・メディアへの容易なアクセスを可能とする文化施設として、その呼称は国際的な認知を獲得しつつある。とりわけ、文献資料のデジタル化にいち早く取り組んでいたフランス政府が建設した「新国立図書館」(BnF)は、その先鞭をつけたことで知られる文化施設である。
 BnFはパリ東端の23区・セーヌ左岸に建つ建造物である。蔵書1000万冊(ちなみに、この冊数は世界第5位に相当するという)を優に超えるその施設は当然巨大なもので、ミッテラン大統領が推進したゾーニング計画「グラン・プロジェ」のトリを務めることにもなったのだが、世界的な注目を集めたそのコンペに当選したのは、当時(1990)若干36歳の若手建築家だったドミニク・ペローであった。
 ときあたかもポストモダン建築の全盛期、多くの応募案がそうした傾向を強く持っていた中で、ペローの提出した計画案はそのシンプルさゆえに異彩を放っていた。その全体構成はさしずめ「4冊の本」といった風で、長方形の敷地の四隅に、開いた本のようなガラスの塔が立っている。地上に露出しているのは実はこのガラスの塔だけであり、閲覧室や書庫といったその他の施設は、中央の庭園を取り囲むように地下に埋め込まれている。
 ちなみに、BnFは市の中心部から地下鉄で10分という交通至便な区域に建っている。人口の密集度が高い周囲の景観は当然のように雑然としているが、そのような立地条件下にあって敢えてミニマルで無機的なデザインの建造物を建てたペローの意図は、機能主義を徹底するためと解釈されるのが普通だろう。実際、BnFは極めて機能的な施設である。BnFは手狭になった旧国立図書館(リシュリュー通りにあるこの図書館は、かつてジョルジュ・バタイユが勤めていたことでも知られている)の機能を補完するために建てられた施設だが、研究者専用施設だった旧館と異なり、一般来館者の利用も想定されているため、利用登録、閲覧手続き、コピーや資料検索などの作業すべてが簡略化されている。「全国総合目録」や「国立図書館蔵書目録」などのOPACも極めて充実しているし、持参したラップトップ・パソコンの活用にも何ら不自由するところはない。またレクチャーや展覧会など、メディアテークとしての機能も極めて充実している。だがこのBnFの快適かつ至便な環境が、もっぱら機能主義を突詰めた結果かというとそうでもない。よくよく注意してみると、高い天井や中庭からの自然光など、BnFの環境には「自然」という要素が大きく介在しているからだ。実のところ、ペローの最大の関心事は「人工」と「自然」という相反する二つの要素の生成的な関係にあり、BnFの場合、その自然観は中心の中庭へと集約されている。敷地の中央部の人口庭園にはノルマンディー地方の赤松が植えられているが、実はこれは人工的な植樹ではなく、ノルマンディー地方の或る区画の原生林をそのまま再現しようという発想の元に造成されたものである。言わば可能な限り忠実に自然環境を再現しているわけだが、しかしBnFの構造上、この庭園を施設の外から覗き込むことはできず、また逆に庭園の中からは、施設の外の市街景観を見ることはできない。内部の人工庭園と外部の市街景観——2つの「自然」は、図書館施設という「人工」によって相互に完全に遮断されているのである。ペローは自らの自然観をDES NATUREという言葉によって表現している。「人工」との関係が転倒した、「人工」の中に遮断された「自然」。そのような「自然」の在り方が都市や建築にとって何を意味するのかは詳らかではないが、無垢の「自然」といった概念が虚偽のイデオロギーに過ぎないことが明らかな今、この提起の持つ意味が決して軽くないことは確かであろう。BnFのような先端的なメディアテークは、その提起を一層先鋭的なものとしているのである。
 このように極めて先駆的な文化施設であるメディアテークの誕生は、しかし決して別世界の出来事ではない。スケールでこそBnFとは比較にならないものの、日本でもまた同じタイプの施設がいくつか誕生しつつあるからだ。その中でももっとも著名で大規模なのが、昨年1月に開館した「せんだいメディアテーク」(smt)であろう。 Smtは、宮城県庁や仙台市役所にも程近い定禅寺通り沿いに建つ、地上7階地下1階の文化施設である。その中にはAVセンター(7F)、ギャラリー(5、6F)、市立図書館(3,4F)など、利用者の様々な用途に応じて、多種多様な機能が集約され ている。そもそもこの施設が建設されたきっかけは、1989年に宮城県の芸術協会が新美術館建設の陳情書を提出したことにまで遡る。その後市民ギャラリーと市民図書館 を併設する方針が確定、1995年に伊東豊雄案がコンペに当選してからは「プロジェク ト検討委員会」が発足、ハードとソフト両面からこの文化施設のあり方に関する討議 やプレイベントを重ねてきた。日本ではほとんど類例のない施設だっただけに、「最 先端のサービス(精神)を提供する」「端末(ターミナル)ではなく節点(ノード) である」「あらゆる障壁(バリア)から自由である」という3つの基本方針
★4をい かに具体化していくのかは、なかなかの難事だったようである。
 まずはハード面から注目してみよう。「せんだいメディアテーク」は、ほぼ50メートル四方の敷地に建つスクウェアな建造物である。建造物全体は、縦軸はチューブと呼ばれる13本の鉄骨をまとめ合わせたシャフトによって、また横軸は7枚の鉄骨スラブによって構成されており、柱が一切用いられていない。また定禅寺通りに面した南側の外壁は「ダブルスキン」と呼ばれる二重ガラス面で仕上げられており、夜間には印象的なライトアップを演出する。またもちろん移動しやすいサーキュレーション、最新の免震システムやOPACをはじめとする高速ネットワークの導入、最新の上映装置やユニークな形態のソファーの設置など、斬新かつ快適なシステムの構築という点では、ソフト面でもぬかりはない。ほとんど類例のない施設を運営するに当たって、smtではできるだけ小さなコストで効率よく目的を達成することを目指した「アンダーコンストラクション」型のワークデザインを提唱している。「フレキシブル(しなやかな)」「スケーラブル(拡大縮小できる)」「プラッガブル(接続することができる)」といったそのキーワードは、ハードとソフト双方に当てはまるものだろう。ペローの「自然」に「死」のモメントを指摘する伊東は、自身はそれとは対照的に、smtとの協働によってヴァイタリズムに溢れたワークデザインを目指しているわけである。
 近年、フランスを中心にメディオロジーと呼ばれる新しいメディア研究が展開され、国際的な注目を集めている。ごく大まかに言えば、68年5月革命のインパクトをメディアの史的展開として読み替え、「活字圏(grahosphere)」から「映像圏(videosphere)」への移行という図式の元にとらえる立場なのだが、その代表的な論者の一人ルイーズ・メルゾーは「映像圏」のさらにその先に「超域圏(hypersphere)」という段階を設定、メディアテークをそれに対応するアーカイヴとして位置付けて、「活字圏」に位置する旧来の図書館や美術館からの飛躍を強調している
★5。その意味で言うと、BnFにせよsmtにせよ、「超域圏」の文化施設であるメディアテークが、外から内部が透けて見えるガラス外壁のデザインを採用していることは決して偶然ではない。コンピュータから携帯電話にいたるまで、様々なツールの普及に伴う情報環境の変化——メディアテークという新しい文化施設の生成を促した要因が何であるのかは誰しも容易に想像のつくことだが、「文化の粋」や「あらゆる情報」がインターネットによって接続される「超域圏」の時代を迎えた現在、「知の殿堂」たるメディアテークはまさしくグローバル・アクセスに対応した文化施設である。「すべてが見える」スケルトンタイプのデザインは、その象徴なのではないだろうか? 

★1——この展覧会についての分析は、吉田憲司『文化の発見——驚異の部屋からヴァーチャル・ミュージアムまで』(岩波書店、1999)に詳しい。
★2——「世界書誌目録」をはじめとするオトレの業績については、PaulOtlet,
International Organizationand dissemination of knowledge:Selected Essays, translated and introduction by W. B. Rayward, Elsevier, 1990を参照のこと。
★3——詳細は、BnFのホームページhttp://www.bnf.fr/を参照のこと。
★4——この基本方針は『せんだいメディアテーク コンセプトブック』(NTT出版、2001)に拠る。
★5——「これはあれを滅ぼさないだろう」(神山薫訳、「現代思想」2000年6月号所収)を参照のこと。