14 おわりに
 

 美術館という装置の歴史をごく大まかに辿りながら、その成立と発展の経緯を明らかにすること。またそのような歴史的パースペクティヴの上に立って美術館のアクチュアリティを、そして未来像を探ること——この連載開始に当たって私が意図したのは、言うは易し行なうは難しを地でいくなんとも無謀な目論見であった。果たしてその意図がどの程度実現できたのだろうか。今となっては甚だ心許ない。
 美術館の歴史を辿るに当たって、私がその起点に据えたのは、ミュージアムの語源ともなった古代エジプトの「ムセイオン」、言うなれば美術館論の定番であった。以後「珍奇展示室」や「驚異の部屋」と呼ばれる王侯貴族の私的コレクションを経由して、18世紀には史上初の本格的な近代美術館であるルーヴルが開館する。私はこの出来事を、単なる施設建設ではなく近代的な「視線」の編成、あるいは都市のゾーニングという点からも画期的な出来事とみなす立場を取った。以後、ニューヨーク近代美術館然り、ポンピドゥ美術館然り、エポック・メイキングな美術館の開館に関してはその歴史的な意義を複数の角度から検討する一方、万国博覧会やアートフェアなど、美術館の発展とも密接な並行関係を為す他の文化現象にも注意を払った。またベンヤミンの『複製技術時代の芸術作品』やマルローの『空想の美術館』など、極めて重要な美術館論のささやかな分析を試み、それが現実の美術館の空間編成に対して与えた影響などについても考察したし、その一方で、しばしば「アーカイヴァル」という奇異な形容を与えてみせた美術館の情報収集機能に関しては、とりわけ近年のテクノロジーとの親近性を重視して、「ヴァーチュアル・ミュージアム」や「デジタル・アーカイヴ」といった観点からも分析を行なった。もちろん、肝心のケース・スタディの数自体が圧倒的に少ないばかりか、美術館史やミュゼオロジーの面からもデジタル・メディア論の面からも、多くの問題を書き残している。理論的にも詰めの甘さが目立つだろうし、またあくまでも美術館が主題という立場を堅持するため、時代を問わず、それと関連する美術作品への言及は可能な限り控えたことで、結果的にこの文章からダイナミズムが失われてしまったかもしれない。瑕疵の少なくない議論であることは否めないが、それでも基本的な方向性は決して誤っておらず、全体にある程度の一貫性・統一性を与えられたのではないかとささやかに自負してもいる。
 それでは、この連載で積み重ねられた分析にとりあえず従うとすれば、いかにしてそれをベースとした美術館の未来像を描いていけばいいのだろうか? そのような課題を突きつけられた際、私の念頭に描かれるのは、今までの議論でも再三に渡って参照してきた二つの見取り図である。
 そのうちの一枚は、冒頭の引用で示してみせた磯崎新の「第三世代の美術館」である。磯崎は美術館の発展段階を大きく三つに分割してとらえており、王侯貴族の私的コレクションからなる「第一世代」、アカデミーの権威に反発する形で成立した「第二世代」と続いた系譜の次世代に、1960年代以降の美術動向と結びついた「第三世代」の美術館を位置付けている。1960年代以降の美術動向、なかでも、特定の場所との不可避的な結びつきを強調した「サイト・スペシフィック」と美術館との関係については第8章「美術館の外へ」でも分析した通りであるし、また発案者の磯崎自身も「(第三世代の美術館は)美術館がサイトを提供するわけだが、これが美術館建築の変質をあらためて要請する。かつて神殿や宮殿に美術作品をとりつけていたのと同様の役割を美術館が担う。公開という行為によって支えられていた公共的空間としての美術館に、あらためて社会的な役割が与えられはじめたといっていい」
★1とその画期性を自負し、その理念を「ロサンゼルス現代美術館」「水戸芸術館」「奈義町現代美術館」などにおいて実践してみせた。均質で画一的なユニヴァーサル・スペースから、フレキシブルで変化に富むサイト・スペシフィックな空間へ——それは確かに、80年代以降にポストモダニズムを経験したわれわれが、モダニズムの対立軸として必要としている選択肢の一つである。
 そしてもう一枚が、終戦間もない1947年に発案されたアンドレ・マルローの「空想の美術館」である。文化的な記憶を再構成する写真の特徴に着目したマルローは、このメディアの利点を生かして、現実には収集不可能な「泰西名画」の展覧会を可能とする理念を導き出した。そして、むしろ旧世紀的な想像力に多くを負っていたこの理念は、いつしか「ヴァーチュアル・ミュージアム」や「デジタル・アーカイヴ」の先駆を為すハイパーテキスト概念として高く再評価されるようになった。これまた再三分析したように、その重要性はいくら強調してもしすぎることはないだろう。
 特定の場所と分ちがたく結びついたサイト・スペシフィックな空間であり、それゆえにモダニズムの均質な空間原理から逸脱した作品の容器ともなる「第三世代の美術館」と、場所を問わないランダム・アクセスが可能な「ヴァーチュアル・ミュージアム」の雛型であり、写真によるイメージの統制機能によって異なった文化をモダニズムの認識へと一元化してしまう「空想の美術館」
★2——多くの点で対照的なこの両者は、しかし一方で、ともに近代美術館の次世代型美術館に相当し、極めてフレキシブルな空間構成を可能にするという点で共通してもいる。「空想の美術館」の英語訳であるmuseum without wallsは、まさにこの点に着目して考案され、また「ヴァーチュアル・ミュージアム」の先駆性をも言い当てたその適切さゆえに浸透していったのであろう★3。私は、文字どおり「ポストモダン」と呼ぶことのできる21世紀の美術館の来るべき地平は、まさにこの「第三世代の美術館」と「空想の美術館」の相似と相違、両者の複雑な関係の網の目の中に見出せるのではないかと考えている。モダニズム的な価値観に従った作品の収集・分類から、フレキシブルな空間原理を生かして、現代美術の最前線ともより密接に連動した再構成を重んじた空間への移行——これこそが、現在世界各地で新築・増改築のラッシュを向かえている多くの美術館に最も顕著に認められる傾向ではないだろうか?
 そのような傾向は、例えば一昨年にロンドンにオープンしたばかりのテート・モダン・ギャラリーに認められるだろう。母胎のテート・ギャラリーは1897年以来の伝統を誇る老舗で、当然のことながらその館風もクラシックなことで知られるが、この新館の開設に当たっては一転して、ミニマリズム風の作風で知られるスイスの建築家ユニット・ヘルツォーク&ド・ムーロンを起用、テムズ川南岸のサザーク地区に建っていた発電所を最新のギャラリーへと生まれ変わらせたり、従来のクロノロジーや流派ではなく、「風景・事物・環境」「静物・物体・現実生活」「歴史・記憶・社会」「裸体・行動・身体」という4つのカテゴリーに基づく分類を試みるなど、旧套を打破する精力的な運営方針を打ち出した。その結果、「風景——」ではモネとポロックが、「裸体——」ではロダンとシンディ・シャーマンがそれぞれ併置されるなんとも斬新な?展示風景が現出することになったのである
★4。この方針には賛否両論があるだろうが、過去の作品と関連付けることで、リアルタイムの現代美術をより身近に感じてもらおうとするギャラリー側の意図が実感されることは確かだし、あるいは、MoMAやポンピドゥを頂くアメリカ・フランスの後塵を拝し、長らく「現代美術の後進国」と蔑まれてきた劣勢を挽回しようとするイギリス政府の文化政策さえ、うかがうことができるかもしれない。
 またテート・モダンと比べれば小規模だが、それとは全く違ったアプローチで21世紀のミュージアム像を打ち出そうとしている美術館として、2004年に開館が予定されている青森県美術館を挙げることができるだろう。現在、青森市内の「芸術パーク」に隣接した用地で建設が進められているこの美術館の展示スペースは、従来のホワイト・キューブばかりでなく、隣接する三内丸山縄文遺跡を意識した「土の展示室」をも含んでいる。設計担当者の青木淳はかつて磯崎新のアトリエで水戸芸術館の設計に携わったキャリアの持ち主であり、コンペで高い評価を獲得したこのアイデアが、サイト・スペシフィックに配慮した「第三世代の美術館」に多くを負っていることは言うまでもない。なお同館は、他にレジデンシャル部門やメディアセンターなどを持つ複合型文化施設であり、展示施設だけでなく「芸術パーク」全体を一つの美術館と見立てたコンセプトによって建設されている。この地域の精神的な遺産でもある縄文の記憶と、展示スペースを彩るであろう現代美術の作品や、ランダム・アクセスによってもたらされる多くの最新情報との「対決」は、今までには気づくことのなかった新たな発見をもたらしてくれることだろう。
 世界各地で進められている美術館の再編には実に様々な側面があり、ここで取り上げたテート・モダンにしても青森県美術館にしても、そのほんの一例に過ぎない。美術館の未来予測という課題に対して、私が為しえることと言えば、せいぜいのところ「第三世代の美術館」と「空想の美術館」を核に据えた大まかな予測ぐらいのもので、とても結論めいたことは書けそうにない。だが少なくとも、稚拙な試みながらも、多くの読者には展示施設、美術の揺籃、情報アーカイヴ・近代的視線の編制装置等々、その誕生以来、美術館が絶えず様々な変容を遂げ、また今後も遂げるであろうことだけは理解してもらえたことと思う。この連載が、実際に美術館へと足を運び、「変容するミュージアム」の未来へと思いを馳せるきっかけとなったのなら、私としてはそれに勝る喜びはない。それは、この私自身の人一倍強い願望でもあるのだから。


★1——『造物主議論——デミウルゴモルフィスム』、鹿島出版会、1996
★2——このような認識は、例えばContemporary Culture of Display, edit by Emma Baker, The Open University, 1999にうかがわれる。
★3——ロザリンド・クラウスは、フランス語の原語musee imaginaireが意味していた概念的な空間性が、museum without wallsという英訳の採用によって物理的な空間性へと変換され、ある種のパラドクスが形成されたことに注意を促している。
Postmodernism's museum without walls in Thinking about Exhibitions, edit byReesa Greenberg, etc, Routledge, 1996
★4——同館の運営方針の概要は、公式ガイドブックであるTate Modern: The Handbook Iwona Blazwick (Editor), Simon Wilson (Editor) Tate, 2000によって知ることができる。