2 ムセイオンとピナコテーク——美術館前史


今から7年前の秋のこと、フランスの地方都市ボルドーに所在する現代美術館・CAPCを訪れたことがある。パリと直結しているTGVの駅からもほど近い、川沿いの市街にあるこの美術館は、「アントロポ・レネ」(レネ倉庫)の異名の通りワイン倉庫をそのまま美術館に転用した施設で、正面入り口に掲げてある小さな看板に眼がとまらなければ、大方の来訪者が美術館だとは気づかぬまま通り過ぎてしまうかもしれない、そんなたたずまいの建造物である。
CAPCは、大型インスタレーションの展示によって知られた美術館であり、私が訪れたその時点までで既に、ジャン=ピエール・レイノー、リチャード・ロング、リチャード・セラ、ソル・ルウィット、アントニオ・ムンタダスといった著名な作家の個展が開催されていた。折り悪く、私が同館を訪れたのはちょうど企画展の狭間の時期だったので、何の展示も見ることは出来なかったのだが、ミュージアム・ショップのグッズやカタログを通じて、間接的とはいえ同館で開催された個展の雰囲気に浸ることが出来たし、またワイン倉庫を美術館へと転用するアイデアにも、ワインのテイスティングと現代美術の鑑賞とを重ね合わせようとする巧みな文化戦略を見た思いがした。事後的に知ったことなのだが、CAPCは主に地元の小中学生を対象としたワークショップにも力を入れており、またそれらの活動は常に、大規模なインスタレーションやコレクションとも密接にリンクしているのだという。その軽快かつ地域性を重視した活動振りは、ややもするとグローバル・スタンダードとみなされがちなフランスの美術館制度の中でも一際異彩を放つものなのに違いない。

ワイン倉庫から転用されたこの美術館は、ゆったりと高い天井、ひんやりとした室内、石や煉瓦が露出した内壁、ネイヴィーブルーとグレーを基調とした地味なカーペット、抑制された採光と照明といった具合に、その室内はほとんどワインカーヴそのままに保たれており、ワインの保存に最適であった室内環境が、直に現代美術の展示にも生かされているのだが、美術館の21世紀/21世紀の美術館を考えようとするここでの主旨に即してみた場合、CAPCが最も示唆に富んでいるのは、実はそのユニークな展覧会企画や運営方針以上に、この室内環境そのものなのではないだろうか? というのも、この美術館の所在地であるボルドーが長らくワインの醸造と交易で栄えた地方都市であり、この「アントロポ・レネ」にも当然そうした産業的な記憶が継承されているからである。あるいは、この「アントロポ・レネ」/CAPCは、美術館というメディアにとって最も本質的な「記憶」の問題を、その室内空間と歴史的経緯の二つの側面から問い掛けているはずなのだ、と言い換えてもいいだろう。
美術館にとって「記憶」が極めて本質的な問題であるということは、恐らく何度強調してもしすぎることはないほどに重要な前提である。そして、何よりも真っ先に確認しておく必要があるのは、平素われわれが美術館に対応させて考えている「ミュージアム」の語源が、「ムセイオン」、すなわち、古代 ギリシャ神話に登場する主神ゼウスとの間に9人もの美神を設けた、記憶の女神ムネモシュネを祀った神殿の名(史上初のムセイオンは、アテネのエリコンの丘の上に建立されたという)に由来していることだろう。英語のmuseum of fine arts、フランス語のmusee des beaux arts、ドイツ語のKunst-museumなど、ヨーロッパの諸言語に明らかな痕跡を留めているこの語源は、言い古されているがゆえに逆にしばしば忘れられがちなことでもある。

ところで、現在流布している「ムセイオン」の公的な定義は、「収集した芸術作品や、歴史的にあるいは美学的、科学的に有意義な資料を保管し、またそれを展示してその価値を強調する施設」といったものであるが、もちろん、この語が用いられるようになった古代ギリシャ時代に、このような体系だった文化施設が存在したはずはなかった
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本来は女神を祀る神殿であった「ムセイオン」が、コレクションを体系的に展示・分類する施設を意味するようになるのは近代以降の話であり、そこに至るまでには、長い年月といくつかのプロセスを経る必要があったのである。中でも、紀元前3世紀に、プトレマイオス1世ソーテールがエジプトのアレクサンドリアに建設した総合研究施設「ムーサイの神殿」こと「ムセイオン」の存在は、現在のわれわれにとって親しい「ミュージアム」との関連には乏しいものの、先の定義に引き寄せて考えてみれば、そのマトリックスとも呼ぶべき重要な文化施設であったと言えよう。幼い頃にアリストテレスに師事したソーテールは、当時アテネに所在したアカデメイアをモデルと仰いで講義室・食堂・宿舎・観測所・博物学のコレクション、そして膨大な蔵書を収めた図書館からなる一大総合研究施設を建設した。この「ムセイオン」は、当時世界でも最高水準を誇ったヘレニズム文化のあらゆる情報が集積された「知の殿堂」として、長らく世界に君臨したのだった。 もっとも、「君臨した」という過去形の強調が示す通り、今や「ムセイオン」は跡形もない。その時期や理由については諸説あって定めがたいのだが
★2、いずれにしても、その建立から数百年後に、「ムセイオン」は大火災によって炎上の憂き目に遭い、約70万巻とも言われたパピルスが焼失してしまったのだった。炎上の光輝なイメージと、人類の文化史に作り出された深い闇——「ムセイオン」の見舞われた大火災がもたらした二つの物語はいかにも対照的であるが、逆にいえば、この総合研究施設の焼失によって、後世になって「知のアーカイヴ」としての「ムセイオン」の神話が補完され、「ムセイオン」における「記憶」の役割が一層重視されるようになったのだとも言えるだろう。
ところで、「ムセイオン」と「記憶」の関連については、また別の角度からも検討する必要があるので、ここでまた語源の話に戻ることにしよう。先にムネモシュネがゼウスとの間に9人の女神を設けたという話に触れておいたが、この9人の女神とそのそれぞれが司っている芸術/学問の名を羅列しておけば、カリオペ(叙事詩)、クリオ(歴史)、エウテルペ(器楽)、タリア(喜劇)、メルポルネ(悲劇)、テルプシコレ(舞踏)、エラト(恋愛詩)、ポリュヒュムニア(賛歌)、ウラニア(天文)といった具合になる。この羅列を見て真っ先に気がつくのは、この9つがいずれも言語や身体によって演じられ、空間の中に形をとどめない芸術/学問であること(歴史や天文は書き言葉によって後に伝えられるものではないかという疑問に対しては、当時の学問はいずれも口頭伝承によるもので、話し言葉は書き言葉よりも遥かに高い地位を与えられていたのだと反論することができる。フランスの哲学者ジャック・デリダがこの時代の本質を「音声中心主義」に見るのはそれゆえなのである)、そして逆に、創造された後に空間にその形をとどめる絵画、彫刻、建築といった空間芸術が一つも含まれていないことである。「ムセイオン」が「ミュージアム」の語源であることを考えれば、これはなんとも奇妙に思われるかもしれない。

実のところ、古代ギリシャにおける美術の地位は極めて低いものだった。ここでまた語源的な考察を加えれば、「アート」の語源はラテン語の「アルス」に、さらにはギリシャ語の「テクネー」へとたどり着くことになるのだが、ざっくばらんに書けば、この「テクネー」は、「手仕事」や「器用仕事」といった意味合いの言葉なのである。すなわち、当時美術は想像性に乏しい、対象を写し取るだけの「手仕事」と見なされていたと言えるし、そうした思考の一端は、例えば、画家の仕事を家具職人の仕事よりも程度の低いものと見なしていたプラトンの『国家』にも窺えるだろう。 母としての記憶の女神——「記憶自体が芸術であり、多様なすべての芸術がひとつ残らず総合されたものなのである。古代神話は、記憶の神ムネモシュネをミューズの神々の母なる神として空想したとき、ある意味でこのことをはっきりと見抜いていたのである」とイタリアの哲学者アントニオ・ルッシが述べるように、古代ギリシャにおいては「記憶」こそがすべての芸術の母として、源として君臨していたのであった。絵画をはじめとする空間芸術が「アルス」の末席を占め、またそれを展示・保存する「ミュージアム」がムネモシュネを想像上の神としてあがめるようになるのは、随分と先の話なのである。
では、その「随分と先の話」とは、すなわち「テクネー」が「アルス/アート」へと、単なる対象の模倣ではない真に創造的な芸術であるという評価へと転じた時期のは、果たしていつのことなのだろうか?もちろん詳細を特定することは不可能だが、多くの歴史研究は、ルネサンスから大航海時代にかけての時期こそがまさしくその転機であったことを明らかにしているし、またそれと対応するかのように、やはりちょうどこの時期に、富裕な王侯貴族が世界各地から集めた名画や珍品などのコレクションを形成、それを展示・収集するための施設を建設するようになる。その意味で言うと、史上初の美術館(?)は、1471年にときのローマ法皇によって建設されたカピトリーノ美術館ということになるが、以後数百年のうちに、フィレンツェのウフィツィ美術館(16世紀)、オックスフォードのアシュモリアン美術館(1683年)、ドレスデン国立絵画館(1744年)、大英博物館(1753年)、エルミタージュ美術館(1764年)、ヴァチカン美術館(1784年)などが続々と産声を上げていったのだった。これら諸施設の大半は、王侯貴族や教会など、ごく一部の富裕層の所有物であって広く一般市民に公開されていたわけではなく、またコレクションの公開の仕方も「キャビネ・デ・キュリオジテ」(珍奇陳列室)の側面が強く、体系だった分類整理や鑑賞者の啓蒙からは程遠いものだったので、真に近代的な意味での「ミュージアム」の成立は、フランス革命直後の共和国美術館(現在のルーヴル)美術館開館を待たねばならないだろう。だが、これらの王侯貴族によるプライヴェート・コレクションの形成は、紛れもなく19世紀以降の美術館の隆盛の礎を為したものであり、その膨大なコレクションともども、諸々の文化的記憶も、後世へと伝達されていったのである。前回に紹介した磯崎新の「第一世代の美術館」のマトリックスは、この時点で既に形成されていたのである。

美術史の概説書を繙けばすぐにわかることだが、われわれがここで言うところの「美術館」に対応する概念は、決して「ムセイオン」を語源とする「ミュージアム」だけに限定されるものではない。「博物館」との区別が曖昧な「ミュージアム」とは裏腹に、絵画を専門とする展示・収蔵施設については、pinacotecaというイタリア語やPinakothekというドイツ語が当てられることもあるし、彫刻の専門館についても、やはりGlyptothekというドイツ語が対応している。一方では、「ミュージアム」とギャラリーやアートセンターと呼ばれる文化施設との区別も、必ずしも明確ではないし、むしろさらに曖昧さの度を増してさえいる。だが、過去を再検討し、現在を再構成し、それを未来へと投影する「記憶」本来の機能について思いを巡らしたとき、そのような文化的体験を可能にする「美術館」に相当する言語は、やはり「ミュージアム」をおいて他にないように思われるのだ。過去と現在と未来という三つの異なる時間を往還できる「ミュージアム」——この稀有な文化施設こそが、まさしくムネモシュネの棲家であるのに違いない。

★1——Larousseによる定義。なお、この定義は、ルーヴル美術館の公式ウェヴサイトの中で、フランス語・英語・スペイン語・日本語によって紹介されている。
★2——諸説の中でも、最も人口に膾炙しているのは、紀元前48年に起こったアレクサンドリアの戦の最中、カエサル(シーザー)の放った火がムセイオンに引火したというものだろう。その一方で、ルチャーノ・カンフォラはこの戦で失われた蔵書はごくわずかであり、後年のキリスト教国教化による異郷神殿の排斥によって喪失したものと見ている。また、アレクサンドリアを占領したイスラム教徒による放火であるとの見方も根強いが、それに対しては、ハンガリーの文化史家ラート・ヴェーグ・イシュドバーンが年代的な不整合を指摘して反論している。