3 ルーヴル美術館開館——近代的「ミュージアム」の誕生

フランス革命直後の1793年、パリ市内に共和国美術館(ミュゼ・ドゥ・ラ・ルピュブリック。正式にはフランス共和国中央芸術博物館)という名の美術館が開館した。時期といい名称といい、あたかも革命の勝利を寿ぐかのように誕生したこの美術館こそ、現在のルーヴル美術館の前身である。既に前回に指摘したことではあるが、王侯貴族の私有物であったコレクションが公共財として位置付けられ、一般市民への公開が果たされたという意味において、このルーヴルこそが初の「ミュージアム」であるとの認識は、今までにもしばしば強調されてきた。確かに、革命の成功によって出現した市民社会が要請した、文化遺産の公共化に応え得る初めての施設だった史実を踏まえれば(だからこそ、コレクションの分類・整理の仕方を研究の核とするミュゼオロジーは、必ずやルーヴルを自らの始祖に位置付ける)、それは当然のことなのかもしれない。
 もっとも、このような「教科書的な」視点からの史実にばかりこだわっていては、ルーヴルが孕んだ他の二つの、しかも相互に交差する重要な側面を見落とすことになってしまうだろう。その重要な側面の一方は、この共和国美術館がある日突然市内の更地に出現した美術館ではなく、めまぐるしい変遷の末にようやく美術館へとたどり着いたという歴史的経緯に由来する、ムネモシュネを強く髣髴させる性格である。ルーヴルの起源は、古くは約800年前にまで遡るもので、以後現在に至るまでルーヴルは、ルネサンス期、王政期、そして共和政期と、政体の即応するかのように王宮、人民救済委員会本部、牢獄とその様相を様々に変化させてきた。その意味では、あたかもアーカイヴのように、様々な時代の記憶が蓄積されたこのルーヴルは、いかにも記憶の女神の棲家としてふさわしくも思われる。
 ルーヴルのたどった変遷については、とりあえず伊藤俊治の詳しい記述に拠るのがいいだろう★1。現在のルーヴルの礎は、1190年頃に当時のフィリップ・オーギュストによって、パリを防衛するための要塞として建てられたという。その建設地が、セーヌ川のルパラという場所であったことがルーヴルという名の由来らしい。そしてそれから数百年後、要塞であったルーヴルは、フランソワ一世の手によって華麗な王宮へと生まれ変わる。その改築は、彼一代では終わらない大事業であり、18世紀のブルボン王朝の諸王へと継承されていく。その間には古典主義的なファサードや回廊が増築され、パレ・ロワイヤルと呼ばれていた時期もあったようだ。しかし一方で、チェイルリーやリュクサンブールに王宮が作られ、王族がそちらに移り住んだこともあって、いつの頃からかルーヴルの管理はアカデミー・フランセーズや科学アカデミーの手に委ねられることになる。そして、この空家同然となってしまったルーヴルを、王族のコレクションを一般公開する施設として使用しようという画期的な提案が、アンジヴィレール伯爵によって為されたのは1776年のことであった。このようにして、ようやく美術館として産声を上げたルーヴルは、1793年の開館後も度重なる増改築を経て、その施設とコレクションを膨張させていく半面、多くの問題に直面することになる……。
このように、13世紀にその雛型が形成されて以来、幾度となく増改築が繰り返されてきたルーヴルは、当然のことながら極めて複雑なサーキュレーションを持っており、その結果、美術館としての運営に多くの点で支障を来たすようになってしまった。その意味では、1981年にミッテラン大統領(当時)によって発されたルーヴルの大改修計画「グラン・ルーヴル」は、サーキュレーションの再構築をもその中に含んだ、必然的な急務に応じたプロジェクトであったと言えよう。このプロジェクトの眼目は、文字通りルーヴルを世界最大の美術館として再生することなのだが、とりあえずその意義と詳細の検討は後述することにしたい。それよりも、いま・ここで検証すべきは、開館以来200年近くに渡って用いられてきたルーヴルの極めて複雑な導線が、実は近代以降の「ミュージアム」が必要としていた「視線」に対応するものだったのではないか、というとりあえずの仮説である。
前回も指摘した通り、ルーヴル以前の美術館は「キャビネ・デ・キュリオジテ」としての側面が強かった。ここに存在するのは、戦利品として収奪され、また売買されてきた王侯貴族コレクションの集積であり、またその背後に潜む支配者/被支配者という二元的構造や前者の後者に対するエキゾティックな関心だ。それに対して、ルーヴルはまったく異なる原理によってコレクションを体系化・分類し、新たな「ミュージアム」像を確立しようとした。その指針がいかなるものであったのかは、国民公会の議員として、ルーヴルの設立にも深く関与したジャック=ルイ・ダヴィッドの「総覧的な展示はかつての『キャビネ・ドゥ・キュリオジテ』の延長でしかなく、『公衆教育と共和国を代表する芸術家の育成』のためには、国どうし、作家どうしの比較が重要であるとし、それにはコレクションは流派ごとに分割し、時代順に配列されなければならない」という主張に何よりも明らかだろう★2。ここで注目したいのは、現時点で振り返ればミュゼオロジーのマトリクスを為しているようにも思われるこの主張には、従来の王侯貴族/支配者に代わる「主体」が、言い換えれば「公衆教育と共和国を代表する」近代的な国民・市民という「主体」が含意されており、美術館にはまさしくそのアイデンティティを強化する役割が期待されていることである。要するに、ルーヴルによって編成された「視線」の主は他でもない近代的な国民・市民なのであり、それは私が冒頭で他の重要な側面として提起した問題のもう一方、すなわちルーヴルの遠近法的な性格とも不可分の関係にあるものなのである。
もっとも、このような導入は誤解を招きかねないので断っておくべきだろう。ここにおいて、私が遠近法という比喩で語ろうとしているその意図は、ルーヴルが新たに編成した「視線」を、不特定の「主体」が中心に設定された立体的な空間認識の問題として考えることにあり、別にアルベルティ+ブルネレスキ以来の「正統遠近法」や「カメラ・オブスキュラ」のような知覚図式の変遷を辿ろうとしているわけではない(これらについては、後にまた別の文脈で言及することもあるだろうが)。具体的には、あまりに言い古された例かもしれないが、『言葉と物』においてミシェル・フーコーが緻密に分析してみせた、単にモデルを描くのではなく、(作者自身がモチーフと思しき)画家が構造の中心を占めているヴェラスケスの「ラス・メニーナス」のような空間構造を思い起こしてもらえばいいだろう。その意味では、ここで私のいう遠近法とは、エピステーメーとほぼ同義のものと思ってもらえればよい★3
 繰り返すが、ルーヴルがそれ以前の「キャビネ・ドゥ・キュリオジテ」と一線を画していたのは、なんと言ってもその「視線」の構造による部分が大きかった。ルーヴル以前の美術館が単に支配者/被支配者の二元的構造を反映しているだけなのに対して、遠近法/エピステーメー的な「主体」が導入されたルーヴル以降、美術館の空間は一層その階層化・体系化が推進されていく。何しろ、美術作品はもとより、古代・中世もしくは異文明の祭事品など、美術館に陳列されている展示品の多くは、それが活用されていた本来のコンテクストを剥奪された上で、美術館によって別のコンテクストを与えられ、社会的には隔離された形で展示されている。これらの展示品を鑑賞する来訪者は、自分が何者であるのかを否応なしに考えさせられることで「主体」を強く意識するのだし、また実際に国民・市民の啓蒙やナショナル・アイデンティティの構築といった「ミュージアム」の役割は、この「主体」の形成によって初めて可能になったことだったのである。ここで、「ラス・メニーナス」を緻密に読み解いてみせたフーコーが、別の著書では病院や監獄といった近代的な社会装置の在り方を、これまた一種の社会的遠近法とでも呼ぶべき「パノプティズム」という概念上の立場から解釈していたことを(そして、かつては要塞であったルーヴルの来歴も)思い出すのも無駄ではあるまい。近代的な「ミュージアム」がまさしくフランス革命の盛期に産声を上げたことは、他の社会的機構との関連で考えても十分な理由のあることなのであり、そしてそれはまた——ムネモシュネと遠近法という——私がここで提起したルーヴルの二つの画期的な側面の出会いをも要請したのであった。
 ともかくも、ルーヴルの開館を嚆矢とする近代的な「ミュージアム」は、その後世界的に波及していった。ベルリンの博物館島(ムゼウム・インゼル)(1828)、セイントピーターズバーグの新エルミタージュ美術館(1859)、マドリッドのプラド美術館(1872)、ニューヨークのメトロポリタン美術館(1874)などの開館は、いずれもその流れの中にあるもので、「ミュージアム」の分類体系は、年を追うごとにより細分化され、システマティックなものとなっていったのである。また一方では、1846年にはワシントンに美術館の研究機関として現在も強い影響力を持つスミソニアン協会が設立されるなど、その波及効果は必ずしも現実の展示施設にのみにとどまらなかった。先に触れたミュゼオロジーはもとより、美学美術史や博物学といったディシプリン、あるいは美術批評のようなジャーナリスティックな言説の形成は、いずれもルーヴルを起点とする近代的な「ミュージアム」の発展と軌を一にしており、決してこのシステムの洗練抜きに語ることはできない。
 周知のように、現在のルーヴルは古代オリエントから18世紀のヨーロッパ美術までをそのコレクションの対象としている。19世紀美術のコレクションは1986年に開館したオルセー美術館の対象領域であるし、また20世紀の現代美術に関しては、これまた1977年に開館したポンピドゥー文化センターの守備範囲である。そして、地図を見ればたちどころにわかることだが、この三館はほぼ一直線上に位置しているのだ。言うなれば、ルーヴルが開拓した体系化・階層化された「視線」は20世紀の後半にはもはや一美術館のカヴァーできる範囲を超えて、パリという大都市の構造そのものに関わるほどに拡大を遂げたのである。近代的な国民国家の研究に画期的な成果をもたらしたベネディクト・アンダーソンは、国家的な規模の文化事業を「特定の教育的巡礼と行政的巡礼の組み合わせ、これが新しい『想像の共同体』に領土的な基盤を提供した」ものとして分析しているが★4、先に参照したダヴィッドの定義にはじまって、ミッテランが発案した「グラン・ルーヴル」も含め、今やパリのゾーニング事業にまで発展したフランスの美術館行政は、まさにこの分析にとって格好の指標ともなっているだろう★5。そしてそれは、万国博覧会をはじめとする、やはり19世紀の国民国家が切り開いたスペクタクルの可能性とも表裏一体の関係にある。そういうわけで、次回は、万国博覧会と「ミュージアム」が共有するスペクタクルの可能性について一瞥を与えることにしたい。

★1——伊藤俊治『トランスシティ・ファイル』(INAX出版、1993)より
★2——吉田憲司『文化の「発見」——驚異の部屋からヴァーチャル・ミュージアムまで』(岩波書店、1999)より抜粋
★3——エピステーメーを遠近法の1ヴァリエーションとみなす考え方は、例えばHubert Damisch, L'Origine de la Perspective, Flammarion, 1993に窺われる
★4——ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』(白石隆・白石さや訳、リブロポート、1987)より
★5——その点で言えば、今年4月1日付けで発足した日本の独立行政法人国立美術館は、この領土化とは逆のヴェクトルを描くものなのかもしれない。国立美術館4館のトップページにはいずれも「2001年4月1日、国立美術館4館(東京国立近代美術館、京都国立近代美術館、国立西洋美術館、国立国際美術館)は独立行政法人国立美術館へ移行しました」と記載されており、日常あまり意識されることのないこの問題が、既に真剣に問われなければならない時期に差し掛かっていることが実感される。もちろん、この連載においても、この問題は後に様々な角度から議論されることになるだろう。