8 美術館の外へ
 
 古めの話題が続いたから気分一新! というわけでもないが、今回は最新の話題から始めよう。この11月3日より、水戸芸術館で川俣正の個展「川俣正 デイリーニュース」が開催されている。これは、展示会場内に150トンもの新聞紙を持ち込んで、来館者がその上を歩くことによって成立するタイプの作品で、一見新聞を無造作に積み上げているだけに見えて、その実高い構築性が発揮されている。川俣は今までは木材を使った作品を作ってきた作家で、紙材を使った本格的な展示はおそらく今回が初めてなのだが、メイン会場の傍らでは、川俣が今までに手がけてきた他の作品の写真や模型が展示され、この最新作と以前の作品の間に潜む確かな連続性を感じ取ることができるように配慮されている。
 もちろん、必ずしも現代美術に詳しくない読者であっても(というよりはあればこそ)、以上の必要最低限の説明にも何か腑に落ちない点を感じるのではないだろうか? すなわち、多量の新聞紙をギャラリーに持ち込んだこの作品が全くの架設展示であり、そのギャラリーの空間内でしか作品として成立しないということだ。会期が決まっている以上、展覧会はいずれ終わる(「デイリーニュース」展の会期は、2002年1月14日まで)。終了したら作品は撤去せねばならないが、この場合、多量の新聞紙をよもやそのままの形態でどこかの倉庫に保存したり、他会場へと巡回したりするわけにもいかず、結局は業者にでも引き取ってもらう以外にはない。その後は、もはや通常の古紙と同じリサイクルの手順を踏むだけだ。作品は跡形もなく消えうせ、後はただ、会期中に撮影された写真や映像の記録しか残らない。このように、現代美術の現場では特定の場所と分かちがたく結びついた作品が作られることが少なくなく、そうした作品のあり方はしばしば、この連載の冒頭でも触れた「インスタレーション」や「サイト・スペシフィック」といった概念によって説明されている。
 では、その「インスタレーション」や「サイト・スペシフィック」とはどういう概念なのだろうか? その基本的な定義はどの辞書や概説書を当たってみても五十歩百歩だが、とりあえずここでは、可能な限り作品の意に沿うためにも、そのような作品を作っていることを自認している川俣自身の説明に従うことにしよう。

 インスタレーションという用語が美術用語として用いられはじめたのは、70年代後半になってからだろう。最初は画廊や美術館など特定の空間に作品が設置された状況そのもののことを指していたが、彫刻などの物体を構成した作品とする見方から、その後、設置された空間全体を作品と考える見方に変わってきた。これが80年代に入って、新しい表現方法のように用いられ始めた。……空間に作品を設置するこどだけであるなら、どんな作品であろうと何らかの空間の中に置かれているわけだし、別段それを新しがることもない。しかし、その作品がその空間から生み出されたもの、あるいはその空間そのものが作品を位置付けているもの、作品と空間が相互関係を持って、その作品はその空間でしか成立しないものであるということになる、今までの作品と呼ばれているものの意味から少し変わってくる。作品を取り巻く空間もまた作品の一部であるということになるからである
★1

 アートの現代史の中で語られる「サイト・スペシフィック・ワーク」は、1960年代のアメリカから発生した一連の「アース・ワーク」「ランド・アート」と呼ばれるものから端を発している。……「サイト・スペシフィック」とは、この時にこの場でしかできないというミニマルなモチベーションの中にある可能性が、新たな場を顕在化してくれる最も有効な手段のことである。それは地球規模の環境問題や、都市や生活空間を考えることから、歴史的、政治的、文化的な場の成り立ちまで含まれる
★2

 蛇足が一切省かれた、最低限のエッセンスが凝集された定義である。語の由来である1960〜1970年代の現代美術の状況と、その社会的背景がキッチリと視野に入れられているばかりか、なぜそのような作品を作っているのか、書き手のモチベーションをも強く感じ取ることができる。とすればあとは、「インスタレーション」や「サイト・スペシフィック」といった概念とここでのメインテーマである美術館との並行関係について若干の補足をしておけば、それで事足りるだろう。
 1960〜1970年代にこのような美術動向が台頭したのは、無論それ以前の支配的傾向に対する強い反発を背景としてのことである。抽象表現主義からミニマリズムへと継承された戦後アメリカ美術のメインストリームは、グリーンバーグらのフォーマリズム批評による理論的擁護もあって、戦後の世界美術における覇権を獲得した。それはまた芸術の自律性を確立ようとし、視覚の純粋性をも徹底して突き詰めようとしたのだった。しかし一方で、その自律性が芸術の閉鎖性と表裏一体であることもまぎれもない事実であった。美術作品は美術館・ギャラリーの「ホワイト・キューブ」の中にうやうやしく展示されるものであって、一切の不純物を排除しようとする頑なな姿勢は、美術のあり方を極めて息苦しいものとしてしまったのである。そうした息苦しさに対する反発は、1950年代の終わりには既に顕在化していたのだが、1960年代以降に登場した「インスタレーション」や「サイト・スペシフィック」は、作品そのものの質においても、既存の美術館から逃走しようとする志向性においても、その反発がさらに徹底され純化されたものと考えることができる。
 ではその反発とはいかなるものだったのだろうか? ここでは、「サイト・スペシフィック」の出発点とみなされている「アース・ワーク」を例にとって考えてみよう。「アース・ワーク」とは、荒涼とした自然環境、大地そのものを制作素材とした作品のことであり、ともに今は存在しないが、ユタ州の湖畔に石を螺旋形に積み上げたロバート・スミッソンの「スパイラル・ジェッティ」や、ネヴァダ州の渓谷で、巨大な二本の溝を穿ち4万トンもの土砂を移動したマイケル・ハウザーの「ダブル・ネガティヴ」などが特に著名である。必然的に、その制作には大規模な土木工事を伴うし、作品の立地も人里離れた僻地に限定される。滅多なことでは現地に足を運べない(運良く足を運べたところで、もはやそこには作品そのものが存在しないかもしれない)のだから、観客は作品の記録写真を通じて間接的に鑑賞することしかできないし、売買や収集も当然不可能だ。一見エコロジーやネイチャリズムを髣髴させる「アース・ワーク」は、その実ことごとく既存の美術の「常識」の裏をかく表現形態なのである。
 もっとも、「アース・ワーク」がミニマリズムと不可分の関係にあることは、スミッソンやハウザーをはじめとする代表作家のそのほとんどが、ミニマリズムを出身母胎としていることから察することができる。特にスミッソンなどは、屋外に移行する直前の時期には、ギャラリーの空間に大量の土砂を持ち込むような展示を試みていた。とすれば、「アース・ワーク」の出現は、ミニマリズムの実験が行き詰まった段階で予測されていたことではあっただろう。ミニマリズムの作品は、その形態が極限まで切り詰められているがゆえに、逆に作品と観客の関係を厳しく問う側面を持っていた(視覚の純粋性とは逆ベクトルへと逸脱していく傾向を、マイケル・フリードは「演劇的」と批判した
★3)。それが四方八方を白一色で覆われたギャラリーの「ホワイト・キューブ」を飽き足りなく思い、展開の場を外部に求めようとするのはむしろ当然のことであった。最も厳格で原理主義的なミニマル・アーティストとして知られたドナルド・ジャッドが、1971年以後はテキサス州の田舎町マーファに蟄居し、現地に恒久設置するための作品を作るようになったのが何よりの証明である。その展開の場が主として荒涼とした自然環境に求められたのは、ヴェトナム戦争への厭戦観などいかにもこの時代らしい別の要因や、現象学や場所論などの理論的影響も深く関与しているのだが、ともかくも特定の場所、特定の空間と分かちがたく結びつき、その関係性の中でのみ成立する「サイト・スペシフィック」な作品のあり方が、正統派モダニズムの必然的な帰結であったことは、ここであらためて強調しておくべきであろう。
 なお付言しておくなら、ミニマリズムから「インスタレーション」や「サイト・スペシフィック」への展開は何もアメリカだけの局地的な流行ではなく、この時代世界的な規模で見られた現象であり、趨勢であった。フランスのシュポール/シュルファスやイタリアのアルテ・ポーヴェラといった動向は、その代表的なものである。そして同様の現象は、同時期の日本でももの派の作家たちによって担われたのであった(冒頭で紹介した川俣は、世代的にはもの派の次に当たる作家である。いかにしてもの派の問題提起を継承し、また全く異なる作品を生み出すのかは、彼にとって避けることのできないテーマであった)。同じミニマリズムの圏域に属するといっても、ジャッド作品のシャープな覚醒感ともの派のウエットな情感は全く異質なもので、さしずめその隔たりはそれぞれハイデガーの「空間」と柳田国男の「郷土」との違いにもたとえてみたくなるのだが
★4、裏を返せば、ミニマリズムの提起は、この果てしなく隔たった両者をも同じ問題系のなかに位置させるほどに幅が広いと言うこともできるわけである。
 ここでようやく本題の美術館について。「インスタレーション」や「サイト・スペシフィック」の立場によって作られた作品が、ことごとく既存の美術館制度と対立することは説明するまでもない。収集や売買が不可能な架設展示の形態は、コレクションを収集して分類・整理し、情報の系統化・階層化を行なう美術館のアーカイヴァルな機能と敵対するものだし、また特定の場所との結びつきにおいてのみ成立する作品のあり方は、「ホワイト・キューブ」の無機的な性質と鋭く敵対する。とりわけ後者は、近代美術館(MoMA)と呼ばれる装置の根幹に関わるだけに重要である。言うまでもなく、美術作品の形態や色彩は個別の作品によって様々であり、展示空間が自らの個性を前面に押し出してしまっては、少なからぬ作品がその空間との整合性を欠き、鑑賞に適さなくなってしまうと予想される。最大公約数という観点に立てば、結局は極力梁や柱を省き、白無地で窓のない壁面でスクエアに作品を取り囲み、また作品の大きさに応じてその壁面を移動させることのできる無機的で無限定な空間こそ、美術作品の展示に最適であると察されるのだ。これこそが、近代美術館と不可分の関係にある「ホワイト・キューブ」の由来である。この空間には、特定の場所の記憶と分かちがたく結びついたモニュメントをも、その記憶とは全く無関係な別の場所において「芸術」へと転換してしまうだけの力がある。逆にいえば、世界中いたるところにこのような「ホワイト・キューブ」が確保され、作品がどこに移動したとしても同じく無機的で無限定な環境下で展示されるという条件が満たされてこそ、モダニズム芸術はその普遍性を主張することができるのだ。「インスタレーション」や「サイト・スペシフィック」は、作品が空間を選ぶという意味でも、まさしく抽象表現主義からミニマリズムという系譜を辿った、モダニズム芸術の正統が確立してきた普遍性を揺るがす動向だったのである。
 では従来の近代美術館から一歩踏み込んだ、「インスタレーション」や「サイト・スペシフィック」に対応した美術館は存在しないのだろうか?——当然のように沸き起こるこの疑問に対しては、あらためて冒頭の提起への注意を促しておこう。この連載をはじめるに当たって、私が様々な問題の導入として参照した文献は、美術館の発展形態を三つの段階に区別して論じた磯崎新の『造物主義論——デミウルゴモフィスム』であった。そしてまさに、目下の話題である「サイト・スペシフィック」な空間こそ、磯崎がその必要性を力説する「第三世代の美術館」の核心を占める要素なのである。
 磯崎によれば、「サイト・スペシフィック」な空間的特性は「第三世代の美術館」の必須要件であるらしい。冒頭でも触れた通り、それはプラトンの『ティマイオス』を繙き、宇宙開闢の場としての「コーラ」に遡ってまで、建築が成立する根拠を場所性に求めようとした建築家ならではの発想と言えようか
★5。そこにおいては、展示空間は抜本的な改革を求められる。作品は恒久設置を前提としており、原則として移動しないし、あるいは逆に、展覧会が終了すると同時に消滅してしまう短命なものかもしれない。コンピュータなどの新しいメディアの活用も、必然的に想定しなければならないだろう。求められているのは、無機的で無限定なMoMAの空間とは対照的な、作家のインスピレーションを触発するような特徴のある空間造形である。その意味では、荒川修作、宮脇愛子、岡崎和郎の三作家に恒久設置を前提とした作品制作を委ね、岡山の山中に突如としてポストモダンな威容を現わした奈義町現代美術館などは、まさに「第三世代の美術館」の呼称にふさわしい美術館と言えるだろう。そして、定期的に企画展が巡回する施設の性質上、そこまで際立った空間的特性があるはずもないが、同様の性質はおそらく水戸芸術館にも認められる。それゆえに、新聞紙を用いた川俣の「サイト・スペシフィック」な作品が、この展示空間に何ともマッチしたものと感じられたことは、決して偶然ではない。この堆く新聞紙を積み上げた作品は、概念の発祥から30〜40年を経て、「インスタレーション」や「サイト・スペシフィック」が歴史化され洗練されてきたプロセスをも示しているのだ。
 もちろん、美術館からの逃走の試みは、「インスタレーション」「サイト・スペシフィック」「ランド・アート」といった特定の概念にばかり収斂するわけではない。1950年代末には、アラン・カプローらによる「ハプニング」の試みが広く都市空間を舞台として展開され、その後の「パフォーマンス」の確立に決定的な影響を与えた。1962年以降爆発的な流行をみせたポップアートは、広く社会全般から大衆的なアイコンを採取して、それをまた社会へと拡散させる運動であった。もちろん、都市空間における美術作品の展開という点では、パブリックアートへの言及も決して欠かすことはできない。また理論面でみても、フランスを中心に、COBRAの活動などを通じて展開されたシチュアショニスムは、都市空間の漂流を重視する立場から、美術館をあからさまに敵視していたのだった。1960〜1970年代にかけて、次々と堰を切ったように出現した「美術館外美術」の展開には、学生運動などが盛んだった当時の時勢との密接な一致を感じないわけにはいかないし、「第3世代の美術館」もまた、そうした時勢の中で考え抜かれた最良の対応の一つだったことも間違いない。だが、それが陽の目を見る1980年代、美術館を取り巻く状況は既に一変していた。21世紀の今となっては懐かしい(?)、ポストモダンの時代がすぐそこまで迫っていたのである。

★1——『アートレス——マイノリティとしての現代美術』、フィルムアート社、2001年
★2——同
★3——「芸術と客体性」川田都樹子+藤枝晃雄訳、「批評空間別冊・モダニズムのハードコア——現代美術批評の地平」、大田出版、1995年、に所収
★4——実際、ハイデガーの空間論は「インスタレーション」や「サイト・スペシフィック」に直接・間接の影響を与えている。「芸術作品の起源」『ハイデガー選集第8巻』、高坂正顕+辻村公一訳、理想社、1960年を参照のこと。一方、柳田国男が「郷土」という語に込めた極めて日本的な共同主観性に関しては、佐谷眞木人『柳田国男——日本的思考の可能性』、小沢書店、1996年、が詳しい。
★5——冒頭での説明に若干の補足を加えるなら、「コーラ」は不定形で境界を持たない非=場所的な場所概念であり、その点でアリストテレスの「第一質量」とは対立する。コーラは不完全な神・デミウルゴスを無二のパートナーとし、それゆえ決定不能性を持つ。磯崎にとっては、建築の生成する場は「コーラ」に、己=建築家はデミウルゴスにほかならないのだ。