9 ポストモダンと美術館
 
 2001年9月13日、ベルリンのポツダム広場に建設されたユダヤ博物館が開館した。1989年のコンペでダニエル・リベスキンド案が当選してから10余年、長らくその完成が待ち望まれていた施設の柿落としである。加えて、「過去にベルリンのユダヤ人が体験した不安を建築の形に転移する」ことを意図したというこの施設が、例の同時多発テロ事件とほとんど時を同じくしてしてオープンしたことにも(もともとは9月11日が開館予定日だったらしい)、単なる偶然の一致を超えた符合を感じてしまう。
 そしてもちろん、このミュージアムはそのオープンの経緯同様、建築デザインの面でも極めて刺激的な施設である。写真を見るとわかるのだが、その外観はメタリックな色調で統一されている一方、ジグザグと幾重にも折れ曲がった複雑な形状を持っている。窓らしい窓がほとんどなく、ただ傷口のような小さな開口部が覗いているだけの威容は、さながら軍事要塞のようでもあり、また逆説的にホロコーストを強調するための工夫ともなっているだろう。そして私自身、このミュージアムを訪れたことがないばかりか、未だその内観写真さえ見たことはないのだが、エントランスが隣接する旧ベルリン博物館に設けられていて、地下の導線を通らねばこの施設にはたどり着けないというアプローチの構造からも、あるいは「入場者は今、自分たちがどこにいるのかがわからない状況に置かれる」というリベスキンドの発言からも、内部空間の複雑さもまた容易に察しがついてしまう★1
 ところで、このようにユダヤ博物館の構造上の特徴を羅列しているうち、私はある種の懐かしさのようなものを感じずにはいられない。というのも、ここに述べた饒舌で過剰な諸々の特徴は——恐らく今でもそうだろうが——1980年代であれば、間違いなくポストモダニズムの典型と形容されたに違いないからだ。言うまでもないことだが、21世紀を迎えた今、ポストモダニズムを語ることはどうにも羞恥心がつきまとう行為である。1980年代、文学、建築、美術、デザインなど文化の諸領域で流行した先鋭的な表現スタイルは、まぎれもなく高度資本主義が狂奔したその時代の空気を反映したもので、ポストモダニズムという言葉の斬新な響きは、その雰囲気を伝えるのにうってつけであった。だが、あまりにもうってつけでありすぎたために、社会の状況が一変してしまった1990年代以降、ポストモダニズムという概念は逆に急速に陳腐化してしまう。思想的な側面に注目すれば、1990年代以降の主流はカルチュラル・スタディーズやポストコロニアリズムに代表される実証的な社会科学、あるいはアフォーダンスや複雑系に代表される文理横断型の言説へと移行してしまったし、ここでの主題である美術館建築に関しても、現在最も隆盛を迎えているのは、MoMAのエクスパンション・プログラム(谷口吉生)やテイト・モダン・ギャラリー(ヘルツォーク&ド・ムーロン)、あるいはクンストハウス・ブレゲンツ(ピーター・ズント)らに代表されるミニマリズムであって、ポストモダニズムに例えられる美術館建築は、今や例外的な少数派に過ぎない。思想の問題としても文化の問題としても、ポストモダニズムがすっかり「時代遅れ」のものと化してしまったという印象はどうにも免れがたいのだ。
 だがこれは断言してもいいのだが、そのような浅薄な認識に基づくポストモダニズム理解は明らかな誤解である。バブル経済に浮かれ、「ニューアカ」というキャッチフレーズの下、あたかもファッションのように流行思想を消費してしまった1980年代へのトラウマが未だ強いのだろう、以上のような誤解は特に日本において顕著なのだが、本来ポストモダニズムとは後期資本主義の文化全般に関わる概念であり、従来の旧左翼的なマルクス主義をはじめ、1968年のパリ5月革命を背景とするフランス現代思想、アメリカの文学理論において大きな勢力を誇る後期資本主義理論など、同時代のさまざまな思想が複雑にシンクロしたその問題系は、未だ大きく開かれている。その可能性は、決して楽天的な消費至上主義の思想的同伴者といった卑小な役割にとどまるものではないのだ。もちろん、ポストモダニズムという概念そのものの再検討はここでの課題ではないし、そのような大きな作業はもとより私の能力を大きく超えている。しかし、ポストモダニズムを再検討しようとする視点の導入は、美術館研究というここでの主題に対しても極めて有益なはずである。
 ポストモダニズム研究において、建築はしばしば門外漢の人間からも大きな注目を集めてきた領域である。というのも、建築こそ最も早くからポストモダニズムの問題が提起された領域だという指摘が多くの論者によって為されてきたからなのだが、実のところその真偽は今もって詳らかではない。ただチャールズ・ジェンクスが1977年に発表した著書『ポスト・モダニズムの建築言語』が、言葉としてはそれ以前から存在していたポストモダニズムを、モダニズムとは異質な同時代の芸術表現様式に対応した概念として最も早くから用いた一例であることは確かなようである★2。要するにポストモダニズムとは、まさしくその時代に萌芽を向かえつつあった新しいデザイン原理を言い表すためのキャッチーなキーワードとして用いられはじめた言葉であるとでも言えようか。
 ではいち早くポストモダニズムに着目したジェンクスは、この概念をどのように定義していたのだろうか? 何はともあれ件の『ポスト・モダニズムの建築言語』を繙いてみよう。同書は三部構成だが、最初の第一章「モダニズム建築の死」は、ポストモダニズムの前段階たるモダニズム建築の批判に費やされ、例えばミース・ファン・デル・ローエの機能主義的な形態が、合理性や普遍性を重んじるあまり一義的なシステムに堕してしまっていると槍玉に上げている。極論すれば、このシステムにデザインを委ねている限りは、何を建てても同じ形態になってしまうというわけだ。その批判を引き継いだ第二章「建築におけるコミュニケーション」では、そうした閉塞状況に対する処方箋として、コミュニケーションの重視を強調する。各々の建築は、各々の機能や環境に応じた固有の形態を持つべきであり、そのためには文化的な背景との対話が欠かせない。ポストモダニズムという概念は、いわば多様性の同義語として導入されたのである。そして第三章「ポスト・モダニズムの建築」では、「歴史主義」「直進的復古主義」「ネオヴァナキュラー」「アーバニスト・アドホック」といった具合に、ポストモダニズムの「多様な」建築言語を多くの事例に分類、羅列していく。ジェンクスがしばしば引き合いに出していた例を挙げておけば、ロバート・ヴェンチーリ、ハンス・ホライン、チャールズ・ムーア、マイケル・グレイヴス、磯崎新といった建築家の諸作品は、従来のモダニズムとは異なるハイブリッドなスタイルを有しているのだという。
 正直な話、現在ジェンクスの評判は決して芳しいものではない。それはやはり彼の議論がいささか杜撰であったためで、以上の要約からも、モダニズムを単に機能主義の水準でしか捉えていないばかりか、モダニズムからポストモダニズムへの展開の理由がきちんと説明されておらず、また記号論や進化論の援用も厳密さに欠けるなど、その議論には様々な瑕疵が潜んでいることがわかる★3。何より、ジェンクスにはポストモダニズムを後期資本主義の問題として考える姿勢が脆弱で、そうした視点の導入は、ジャン=フランソワ・リオタールやフレドリック・ジェイムソンといった思想家のさらに本格的な議論を待たねばならなかった。結局のところジェンクスは、批評家・歴史家という以上に、新しいデザイン原理の台頭をいち早く嗅ぎつけた嗅覚と、それをポストモダニズムと命名したネーミングのセンスにおいて傑出していたジャーナリストであったのだろう。
 さてここからが美術館である。教会や別荘と並んで、建築家が最も建てたがる建物の一つが美術館だという俗説がまことしやかに囁かれるだけのことはあって、確かに美術館建築にはその時代その時代の先鋭的なスタイルが現われることが多い。「デコンストラクション」や「襞」などのフランス現代思想用語で形容される特異なデザインはその典型だし、先に挙げた建築家の中でも、ホラインのメンシェングラドバッハ美術館(1982)や磯崎のロサンゼルス現代美術館(1985)などは良質なポストモダニズム建築とみなすことができるが、実はそれらの美術館建築には最良の先例があるというジェンクスの指摘は、概して評判の悪い彼の議論の中でも珍しく(?)、正鵠を得たものとして評価されている。その最良の先例とは、以下に手短に検討するジェームズ・スターリングのシュトゥットガルト新国立美術館(1977)のことである。
 この新国立美術館は、実は劇場やミュージックスクールの機能も併せ持った多機能型美術館であり、またまったくの新築ではなく、フリードリヒ・シンケルが1837年に建てた旧美術館の増改築として発案されたものだった。そのコンペの実施に際して特に強調されたのは、1——極力既存の建築を保存し、またこの地域の街並みを変えないように配慮すること、2——旧美術館と同様にU字型の形状とすること、3——新しい劇場の翼は、同じようなスケールと材料で、旧ギャラリーの翼に準じること、の三点だったという。結果的にこのコンペに当選したスターリングのデザインが、特に奇をてらったりせず、三つの要求に極めて忠実であったことは言うまでもない。
 一方でこの新国立美術館は、スターリングにとっては三部作の集大成という意味合いを持っていた。というのも、シュトゥットガルトでのコンペに先立って、スターリングは1975年にデュッセルドルフとケルンで行なわれた美術館コンペに招かれていたからである。スターリングはそこで新古典主義を基調とした計画案を提出し、「具象的・象徴的な要素」と「抽象的・技術的な要素」が高い次元で共存したデザインを提出した。残念ながらこの計画は実現されなかったが、そのときに温められていた理念の一部は、当然のようにシュトゥットガルトでの計画へと編入されていく★4
 とすれば、ジェンクスがこの美術館建築のどこに魅了されたのかは一目瞭然であろう。「旧美術館」と「新美術館」、「具象的・象徴的な要素」と「抽象的・技術的な要素」の共存が可能とする複数の異なる価値とのコミュニケーション——これはまさしく、ジェンクスがポストモダニズムの建築言語として積極的に価値を見出そうとした特性そのものであったのだから。さらにジェンクスは、アクロポリスやパンテオンを髣髴させる中庭と廃墟のような駐車場、デ・ステイルを髣髴させるシンプルな色彩や形態とより古典主義的な背景との対比をも引き合いに出し、ミースやル・コルビュジエのようなモダニズム建築との決定的な差異を力説したのだった。
ところで、この新国立美術館に対して、ジェンクスとはまた別の角度から強い関心を寄せるポストモダニストの論客がいた。前にも参照したダグラス・クリンプがその人であり、彼はその名も「ポストモダンの美術館」と題された長編の論考の中で、この美術館の持つ画期的な性質を、デザインよりはむしろ歴史にスポットを当てながら解釈していく。
 ポストモダニストという肩書きは共通していても、クリンプはジェンクスとは随分と肌合いの違う論者である。その議論はマルクス主義の影響を強く受けており、ポストモダニストとしての立場は、後期資本主義を批判的に検討する作業を通じて選択されたものだった。それゆえクリンプは、資本主義を背景として生まれた美術や、それを体系化する制度としての美術館に対しては、当然のように厳しい眼差しを向け、ときにそれを「廃墟」と罵倒する。クリンプがマルセル・ブルドーザーをはじめ、リチャード・セラ、ハンス・ハーケ、シンディ・シャーマンといったいずれも先鋭的なスタイルを持つ美術家を擁護するのは、彼(女)らの作品が「モダニズムの文化において作品の産出と受容とを決定付けてしまう美術館の役割を分析することから発したポストモダニズムの理論化に、歴史的な深みを与える」契機となるからなのだ★5
 そのようなクリンプが、一転してスターリングの美術館を好意的に評価する。何とも気がかりなその理由は、先に触れた「歴史」というパースペクティヴの導入によって説明されるだろう。繰り返すが、シュトゥットガルトの新国立美術館は、シンケルが19世紀に建てた旧館を最大限尊重することによって増改築されたものだった。この旧館が極めて正統なモダニズム建築であることは、クリンプがヘーゲルを引き合いに出し(当然のことながら、その参照は芸術の終焉という物言いが強く意識してのことである)、またマルクスの『ブリュメール18日』を引用していることからも容易に察せられるだろう。つまるところこの旧館は、まさしくクリンプが批判するようなモダニズムの文化産出装置としての美術館だったのである。ところがスターリングは、新館の建設にあたって、理念的にもデザイン的にも、旧館が担っていた諸機能を補完するのでも、あるいはそれを現代的に更新するのでもなく、可能な限り新館の中に包み込み、共存させる戦略を採用した。「現在」と「過去」を併置することによって、芸術とは何かという哲学的な問いを発し得る環境を作り出したのである。アクチュアリティを喪失し、時代から取り残された美術品が死蔵された「廃墟」としての美術館——スターリングが生み出したのは、クリンプが嫌悪してやまなかった「排除」や「幽閉」を伴ったモダニズムの美術館の閉塞感とは全く無縁な空間だったのである。これもまた、この美術館がポストモダン・ミュージアムの先例たる十分な根拠であろうし、当時のホラインや磯崎の美術館建築を、同様の視点から検討してみるだけの価値は充分あるに違いない。
 最後にあらためてジェンクスを召還しよう。近年はダーウィニズムに深く傾倒しているジェンクスだが、彼はその後『ポスト・モダニズムの建築言語』や自著『ポストモダニズムとは何か?』を何度も繰り返し改定し、ついには「ポストモダニズムは歴史化した」とまで述べるようになった。ある意味では、1990年代以降の「失速」を正確に予見していたわけだが、そのときに彼は、ポストモダニズムの真の盛期は美術ならばアンディ・ウォーホル、建築ならばヴェンチューリらが最も先鋭的な仕事を発表していた1960年代であり、1970、1980年代は彼らの仕事によって認知されたポストモダニズムが、その後資本によって回収され、制度化されていく下降期だったのだと指摘している★6。ポストモダニズムをあくまでもスタイルの問題として考えようとする視線は一貫しており、であればこそ「歴史化」以後の離脱も早かったわけである。だが、もちろん私はそのような軽薄な立場には汲みせず、後期資本主義の批判的検討という一点にこだわった上で、ポストモダニズムはいまだ現在形の問題であると考えたい。冒頭で取り上げたユダヤ博物館といい、あるいはフランク・ゲーリーの手がけたグッゲンハイム美術館ビルバオといい、その正しさを示す例は、少数ながら美術館建築にも指摘し得ると思うのだが、さてどうだろうか? 今ポストモダニズムを語ろうとする姿勢は、やはり時代遅れな滑稽さを免れないのだろうか?

★1——リベスキンドのこれらの発言は飯島洋一「世紀末のミュージアム——われわれは21世紀に何を残すか」(『BT/美術手帖』1998年5月号所収)中の引用による。
★2——当のジェンクスによれば、ポストモダニズムという用語が初めて用いられたのはスペインの作家フェデリコ・デ・オニスが1934年に著したAntologia de la poesia espanola e hispanoamericanaにおいてであり、また歴史家アーノルド・トインビーが1947年に出版したA Study of Historyにおいても用いられているという。Charles Jencks, What is Post-Modernism?、 Academy Editions, 1986.
★3——『ポストモダンの建築言語』の受容や評価に関しては、五十嵐太郎『終わりの建築/始まりの建築——ポスト・ラディカリズムの建築と言説』、INAX出版、2001年に詳しい。
★4——ちなみに当のスターリングは、自身の建築がポストモダニズムに括られることをよしとしなかったという。美術館建設の詳しい経緯に関してはロバート・マクスウェル編『ジェームズ・スターリング——ブリティッシュ・モダンを駆け抜けた建築家』、小川守之訳、鹿島出版会、2000年を参照のこと。
★5——Douglas Crimp "The Postmodern Museum", in On the Museum's Ruins, MIT Press, 1993.
★6——Jencks, op.cit.