地下・風景をめぐるノート(6)|野村俊一

〈潜勢態地表面〉としての「東京グラウンド」


「地下」という問題設定
「風景」というキーワードのもと、地下を横断的に駆けめぐってきた。ここで今までの連載を補完しつつ全体をまとめてみよう。
まず、なぜテーマが地下だったのか。連載を始めるまで、正直、地下をフィールドワークの対象にしようと考えたことは一度もなかった。東京の中でも、地下は私にとって最も不可視な領域のひとつだったのである。さらにこの不可視な領域が、すでに東京の至る所に寄生している。ひょっとすると地下は、全域を見渡せない「東京」を捉えるさいの鍵になる場所として機能するのではないか? そんな直感が、拙いながらもこの連載を継続させてきたのだ。
 

非同一性地下空間
地下の全域を把握したいという意志が生じた。そのための戦略として、「風景」というキーワードはあった。機能性・抽象性が特化した地下空間を捉えるためには、対象を同一の客体として捉えようとする近代の風景観がふさわしいのではないかと思い、まずはそのイメージをひとつのまとまりとして抽出しようとしたのである。
第2回の「 地下の標識、地上の光景」を振り返ってみよう。東京で最も長大な大手町周辺地下道は、その規模のみならず、標識や地図の機能がますます自らを見通しの悪いものへと変貌させる。同じ地下道内にあるにもかかわらず標識と地図は全域を示すことなく、もはや局所でしか機能しないのだ。さらにこの地下道を地上との相対的な位置関係により把握しようとする試みは、たとえ「フォト・インフォメーション」を参照したとしてもはかなく失敗に終わる。見通しをよくするための開口部がない地下空間。地下自体を自己言及的かつ神経症的に同一のものとして把持しようとする試みが引き起こした焦燥感。おそらく、第2回の文体の不自然さがそれを物語っていよう。そもそも、複数の読解にさらされた地下空間を、同一のものとして読解する構え自体、矛盾していたのかもしれない。いやむしろ正確には、同一のものとして読解しようとすればするほど地下は読解の矛先を無数に撒き散らし、読解に必要なコンテクストは遡及的に拡張しうるのである。
 
 

遍在する「地上的地下」と「地下的地上」
第2回の反省から、地下そのものを問うのではなく、このような地下がいかにして現われるようになったのかを問うようになった。そしてこの問いはやがて、地上も考察の対象に含むこととなった。
第3回、「 電車/地下鉄の経験」。地下には地上を繋ぐさまざまな出入口が備え付けられている。そしてどの出入口を通過するかにより、印象は全くと言ってよいほど変わってしまう。この事態は、観察者の視線のありようのみならず、進入する過程により領域の性質が変貌してしまうことを示している。地下空間は、地上から見たそれぞれの出入口の印象よりはるかに異なっているのだ。
また、調査を進めていくと、実際の出入口が実感としての〈出入口〉と異なっていることに感づくようになった。つまり、行為を介して能動的に捉えた〈出入口〉が、実際のそれと食い違っていたことが頻繁に起こったのである。これはどういうことか。
地上と地下を隔てる出入口は、地上と地下の境界を我々に認識させる識別閾のひとつとなる。一般に出入口は標識や地図のもと確認されるが、標識や地図の機能不全が至る所で生じていることを前提に考えると、この識別閾はさまざまな可能性のひとつにすぎなくなるだろう。この識別閾は経験を介しても捉えられるし、また行動していて気がつくとそこが地下であったり、地上であったりすることが東京ではよく起こる。つまり定義された地下・地上の境界と実感としての境界とのズレにしばしば遭遇するため、地上のはずが地下っぽい「地下的地上」、地下のはずが地上っぽい「地上的地下」が東京の至る所に潜んでいると考えられるのである。
まとめてみよう。東京は地下と地上がすでに曖昧な状態である。かろうじて標識や地図などの定義で区別がつくのだが、実感をもとにした区別はそれらと異なることが多い。つまり、地上と地下の識別閾が上下に遍在しているのである。文字通りの地上・地下空間と、観察者が行為を介して実感した地上・地下空間とでは異なっていることが多いのである。
 

現実の地表面と潜勢する〈地表面〉
仮に東京の地表面を抽出しようとするならば地下と地上の出入口、すなわち地下と地上の識別閾を繋いでいくことで可能になるだろう。ならば、実感としての〈出入口〉を繋ぐと、実感としての〈潜勢態地表面〉が描けるのかもしれない。地上と地下の〈出入口〉を探る行為はやがて、東京の〈地表面〉を探る行為へとパラフレーズしていったのだ。つまり、社会的・文化的に定義される地表面とは違う、実感としての〈地表面〉についての地図制作を志向するようになったのである。
この時点で「東京グラウンド」の着想が生まれた。やがてこの考えの基、以後「地下的地上」「地上的地下」の抽出から東京に潜勢する〈地表面〉を探るようになる。 同じ地下でも機能や観察する方向性により状況が全く変わる様を記した第4回「地下の閉合性」、地下が地上の自然を擬態し始める様を記した第5回「地下の季節」は、「東京グラウンド」へ向けての布石として用意されたものだったのである。

「東京グラウンド」
「東京グラウンド」とは、文字通りの地表面と異なる、眼に見えないイメージとしての〈地表面〉を地図としてヴィジュアル化する試みである。
「東京グラウンド」についての概略はホームページのリード・テクストに記したので、ここでは補足を記しておこう。
文化的・社会的に定義される文字通りの地表面は、実際すでにある対象一般として認識することができるだろう。その一方で「東京グラウンド」におけるイメージで捉えられた〈地表面〉は、視覚、嗅覚、触覚、聴覚、味覚、そして運動による感覚、もしくは錯覚といった観察者別の視点と行為をもとに遭遇した「地上的地下」「地下的地上」が補助となり再定義される。
このような能動的に現実化された個別のサンプルは、東京の潜在的な力を観察者が自己へ内在化した結果として表出するだろう。そしてこの潜在的な力こそおそらく、東京という領域を複雑にしている〈地表面〉の実在が関与しているのではないかと考える。〈潜勢態地表面〉が、すでに定義されている地表面よりも実在的であるという事態。「地下的地上」「地上的地下」という同一性の論理を揺さぶるキーワードはそのとき、〈潜勢態地表面〉を個別に顕在させる機能を担うのだ。

東京グラウンド

〈潜勢態地表面〉 をヴィジュアル化することは難しい。なぜなら、そのような眼に見えないものは結局、文字通りに表象することができないからである。
抽出された〈地表面〉の高さは実際の距離ではなく、観察者が時間的プロセスを経て把握した心理的距離をマッピングしたものである。それぞれは線で繋がれていて、こうすることで、「東京グラウンド」が織りなす地平が、奇妙な奥行き感を提供してくれる。この感覚を、東京を生活する者が得る潜在的な、しかしあまりにも実在的な事態として提出したい。つまり東京の〈地表面〉は実際にあるものとは異なり、見えないにもかかわらず実在したものとして感覚される複雑な事態として、「東京グラウンド」を通じて類推的に捉えられるのである。

最後に、この類推をあえて〈風景〉と呼ぶのであれば、それは近代に発見された同一性の論理に回収されるものでは決してないだろう。「東京グラウンド」で開示される〈風景〉とは、フィールドワークという行為を前提にした、〈地表面〉に対する志向と同時に、東京への微細な知覚との屈折した関係を模索した結果としての、デスクトップのメディアの中にとどまらない、観察者にはたらきかける出来事としての〈風景〉なのである。(了)
   

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