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津村泰範

表紙 鹿島出版会
2000年10月25日発行
定価:本体3600円+税
ISBN4-306-09363-8 C3052

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国際的活躍をしている押しも押されもせぬ世界のリーディングアーキテクト磯崎新の新刊が出たという。タイトルは『人体の影(アントロポモルフィスム)』。身体的な知覚を手がかりに建築に迫っていく著述なのだろうか。
ここで、はじめにお断りしておかねばならない。評者は、彼の一連の著書を手にとって拾い読みしたことはあるが、いまだ完全に通 読したことはなかった。信州で主に古民家の再生(リノベーション)の設計を手伝っている実務どっぷりの立場からして、唯一『建物が残った』(岩波書店、1998)は興味深く読んだものの、彼の著書を読むという行為そのものを、どことなく避けていたきらいがあった。彼の建築のみならず周辺領域に対する豊富な知識、深い思索、鋭い洞察を垣間見るごとに、ただひたすら感服し、憧憬を抱き、勝手に「恐れ多い領域」と位 置付けている。というより、正直なところ、ちまたの建築設計のプロセスにはそれほどしっかりした思想がないことが少なくないなかで、これほど完璧(と評者自身が勝手にそう思いこんでるだけかもしれないが)なまでロジカルに思想を提示する必要があるのだろうか(いや、建築家は同時に思想家でなければならないとは、認識してるものの……)という俗っぽい疑念がないわけでもないことも、彼に近づけない理由のひとつだと思う。ただ、昭和のほんの初期を彗星のように駆け抜けた詩人立原道造の建築の側面 を追いかけていたことが、彼の興味と少なからずクロスする部分があることに、密かにシンパシーを感じており、それのみが、この文章をしたためる勇気を奮いたたせる、せめてもの救いかもしれない。言い訳がましいが、そんな限りなく素人的な視点からの、読書感想であることを勘弁していただきたい。
長い前段はさておき、『人体の影』は、冒頭に述べたようなタイトルから短絡的に想像した内容とは異なっていた。磯崎にとって、建築家としてのスタートラインに立つための教養を身につける「グランドツアー」のサマリーと捉えることもできる『建築行脚』シリーズ(六耀社)のなかの6編を1冊に再編したもので、「アントロポモルフィスム」を通 して抽出した建築を時系列順に並べ、ひとつのストーリーをつくり上げた構成だ。5年も経って薄くなりつつある学生のときの西洋建築史、建築意匠の講義の記憶を総動員しながら、(ついでにそのときの不勉強を後悔しながら)読み進めていくと、磯崎に案内され、解説を受けているような気分になれる。反面 、建築の記述(当然図版という補助伝達手段は随所にある)から想像しなくてはいけないので、実際にその場でそれらを見ながらでないとなかなか伝わってこないというのも、一般 読者の感想だろう。実際『西洋建築史図集』(日本建築学会編、彰国社)を脇に携えながらページを繰るだけでは物足りなかった。そういう意味では、本著を片手にそれぞれの建築を訪問したくなる衝動が喚起されるガイド的な役割もあるように思える。登場する建築とそれぞれの背景は、ここでダイジェストを述べるのも愚であるので、是非とも本著を読んでいただいて、堪能していただきたい。
そもそも「アントロポモルフィスム」とは、ハードケースに記してあるが「人体の影をあらゆる人工的な生産物の中に探そうとする思考」を指す。西洋建築史上より、人体像が建築の背後に秘められていることを読みとる作業をしていくなかで、すべての建築の創造者がこのアントロポモルフィスムに回収されることに行き着く。ギリシアから始まり、ルネサンスを経て近代に至るまで、端的に言ってしまえば、建築史=アントロポモルフィスムの歴史に見えてくる。確かに、クラシシズムを排除したモダニズムはアントロポモルフィスムを捨てたように見えるが、ル・コルビュジエまでもがモデュロールにおいて人体を参照している。これは西洋の概念だけではなく(東洋やイスラムなどは詳しくないが)日本においても、尺寸の寸法体系や、寺院の伽藍配置を身体に準えることに通 じるように思う。
アントロポモルフィスムと対置される概念に、テオ−アントロポモルフィスムがある。人間の身体こそが、建築の原型であるという考えに対して、神の身体こそが建築の原型であるという考えである。しかし、過去のほぼすべての可視化された神の姿(彫像など)が、人体の鋳型に当てはめて投影されている歴史を踏まえると、テオ−アントロポモルフィスムにも限界がある。テオ−アントロポモルフィスムの枠組みを超える建築的身体像を提示するために、90年代の磯崎は、「デミウルゴモルフィスム(造物主義)」の概念をANYコンファレンスなどの場で幾度となく語っており、既著『造物主議論(デミウルゴモルフィスム)』にその論考が纏めてある(この周辺の解説は『Anybody』[NTT出版、1999]に所収されている磯崎新+浅田彰「デミウルゴモルフィズムの輪郭」に詳しい)。この著書『人体の影』は、先にわれわれに提示したデミウルゴモルフィスムの概念をさらに推し進めるための、既著『造物主議論』の補完編である。この著書で、アントロポモルフィスムに対する全面 的な批判を浮かび上がらせ、そのうえにデミウルゴモルフィスムを成立させようと宣言している。
磯崎が「グランドツアー」から感じえたことは、アントロポモルフィスム概念を成立させるはたらきを果 たしたのがアルベルティの存在にほかならないことであって、アルベルティが近代の源流と過去からの流れの結節点、いわば蝶番のような役を演じたことを評価している。しかしそれは、言うなれば、乗り超える目標が定まったことを意味している。磯崎は、アルベルティに対する挑戦状を突きつけたように思える。あらゆる局面 で、転換点であり過渡的な様相を呈している現在も、蝶番の役割が演じられる役者が要求されていることは、多くの者たちが自覚しているであろう。物理的な境界がますます希薄になっていく社会状況の推移を前に、これからの建築を創造していくために、デミウルゴスを召還し、圧倒的な引力を備えているアントロポモルフィスムに立ち向かう決意が、そこにはあるように思えてならない。
建築家は創造のために参照する。単なる研究対象ではなく、その先に創造を見据えて歴史を学ぶ。磯崎の場合、特に整理しながら記述していく作業をつねに怠らない。「言説の建築家」を呼ばれる所以だが、あらゆる事象との距離を測りながら、神経質なまでに自身の位 置を冷静に分析する姿勢は、理知的な建築家の職能を社会にアピールするリーダーとして、ますます円熟味を増してきたように感じられる。磯崎新の次の境地を期待すると同時に、追走する世代にしてみれば、ますます挑戦し甲斐があるのではないだろうか。