「空間」論への助走としての「時間」論

八束はじめ
バーバラ・アダム『時間と社会理論』
バーバラ・アダム『時間と社会理論』
伊藤誓/磯山甚一訳
1997年12月発行
法政大学出版局
定価:3,885円(税込)
ISBN:4588005871
330頁

本欄では前回のルフェーブルだいぶ前のシュマルゾーの回のように、いろいろと空間論をとりあげてきたが、今月は趣向を変えて時間論を取上げてみる。といっても、空間論もそうだが、時間論も枚挙に暇がない量があり、その多くに眼を通すというわけにもいかない。ここで取上げたいのは、邦訳も新しいものではないが、イギリスの社会学者バーバラ・アダムの『時間と社会理論』である。日本の大学や研究会で結構取り上げられているテクストのようだが、それだからというよりも、空間論にも参考になる視点が多々盛り込まれているからだ。空間と時間は、三次元だとか四次元だとかいう議論ではなく、以下にも触れるように、各々互いに絡み合った対象と見るべきものなのだ。

まず本書が──参考書としてポピュラーであるにも関わらず──必ずしも読みやすい本ではないことをいっておくべきだろう。記述は古今の社会科学(哲学も含む)の諸議論の吟味のみならず、自然諸科学の議論にも深く足を踏み入れている。これは前回のルフェーブルの空間論で対置された空間の科学的表象(空間の表象)と人間的表象(表象の空間)という図式とも近いわけで、つまり時間には体験された内的/現象学的な時間と計測される機械的時間とがあるということになる。もちろん、前者とても円環的時間と直線的時間というように多種多様なモードがあるわけだが、アダムの関心はその分離にはない。ここが本書の注目すべき点である。例えば自然/文化、個人/社会、自然的時間/社会的時間というような二元論を統合するのが時間なのだというような議論を彼女は熱心に収集する。現代社会学のシステム理論の旗手ニクラウス・ルーマンは、人間精神と社会組織は自然の一部であり、意味と人間的次元によって拡張された自然なのだというわけだが、時間の主要モードである過去と未来は観念作用による場であって(それはそうだ、観念をもたない動物には過去も未来もない)、時計や暦も絶対でなく観念の枠組みに依存する、つまりすべての時間は社会的時間/実践と切り離せないというのが、社会科学側のアプローチである。しかし、アダムの総括によれば、この分野では、物質的世界の時間と生きている世界の時間の関係はいまだほとんど理論化されていない。

では自然科学ではどうか? 従来それを支配していたニュートン理論のパラダイムでは、尺度は普遍で分割可能であり数として表現可能である。しかし、いまではこのパラダイムは特殊な抽象化のひとつの現われでしかないことが証されている。たいがいの社会学者はこのニュートン的なパラダイムしか取り入れていない(が故に上記の二元論が生じる)が、現在の理論物理における相対的時間と量子論的継起性の概念はそれとまったく違う。アインシュタインが相対化した尺度時間の概念などは、上記ルーマンも含む一部の社会学に影響を与えている。観測者はニュートラルな存在ではなく、観測のプロセスに干渉せざるをえない存在(系の外にあるのでなく自ら系の一部であるような)になるわけだが、それは系の外側にある計測者(時計の如き)という存在を括弧のなかに入れ、「客観的(客体的)な時間」というものが本当にあるのかどうかを問う。ルフェーブル風にいえば、「表象の時間」が超表象的なものではありえないとなれば、それと「時間の表象」の二元論の絶対的な根拠は崩れる。

自然科学といっても別の側面、つまり生体を扱うアプローチがあるわけだが、バイオリズムに代表される有機的組織のリズム、自然のリズムへの探求は、当然定量的科学的方法では接近できない(ちなみに、前回も記したように、ルフェーブルの最後の仕事が『リズム分析の要素──リズム認識序説』であったことは、この点に照らし合わせると興味深い)。統一された時間の枠組みを規格化して科学の名の下におくという現在の了解は、いまや物理学や生物学の新しい発見によって終止符を打たれた、というわけだ。この分野での時間の特質は「リズム系──生命と形式の源泉」で論じられているが、それは生物の流動(盛衰)する形態論にもつながり、機能論を時間論によって反駁する。例えば手と足は同じ科学構成(機能)でも形は違うが、これは形態形成が非因果律(非機能論)に従っているからで、生物学者シェルドレークの理論では、形態形成の場とは現象の反復をその起源とする、再生、生殖作用、目標形態に向けての調整の場であるという。これはスタティックなプラトン的形態とは違い、非ニュートン的パラダイムの前提に立っている。アダムはこれを現代社会学理論の最前線にいるアンソニー・ギデンスの社会構造化の理論と類似しているという。シェルドレークで現象の反復が起源とされるように、ギデンスでも繰り返されるルーティン行動が注目されるが、そこでの構造とは、それが媒介でありまた同時に行動の結果でもあるようなものである。つまり「自己組織(再帰)的」(このことばはアダムは使っていないが)なパターンなのだ。

アダムが次に扱うのは、人間的時間の研究である。これは現象学的、あるいは心理的アプローチとも交差するが、社会的、人類学的視点にも拡大されうる。ロバート・オーステインは時間的意識と経験内容を論じ、内容により経験が異なること、つまり時間は異なった受容をされる、とする。つまり時計的な時間とは違って、人間的時間は定数をもたない。これはわれわれの日常生活のはしばしにおいて感得される事柄だし、同時に──ここでしばしばわれわれの領域に入りこんで付論しておくならば──空間に関しても該当する、というよりは空間もまた人間的受容の変数であるとすれば、時間と空間は互いに独立的な(象限の異なった)事象として扱うことはできない。例えば一点透視図のようにひとつの視点から描かれた空間は、この意味で時計のようなひとつの尺度でのみ計測された時間に相応するものとなる。つまり、特殊な抽象化のひとつの現われであるニュートン的なパラダイムにほかならない。ひとつの座標軸上に投影された写像としての表象形式でしかないわけだ。二次元のスクリーン上の一点透視が深さの次元をもった空間であることは、三次元的に動いて複数の視点を経験した者でなければ感知できないだろう。そして、複数の視点の獲得とは、複数の時間の内側への観測者の定置ということにほかならない。

アダムの記述に戻るが、人類学的には、例えば時間観念の言葉がないホピー族の例が援用される。それは世界の異なった見方の証、人間集団に埋め込まれた時間の諸相を示すものである。さらにアダムは未来の社会計画を検討したマンハイムの『イデオロギーとユートピア』を取り上げ、時計時間は一側面に過ぎず、未来は積極的に構築されるという。この辺の彼女の議論の拡がりはかなりエキサイティングで、もっとさまざまな議論に接続しうるだろう。例えば構成主義(あるいは構築主義/英語ではコンストラクティヴィズムないしコンストラクショニズム)と呼ばれる思想。そこでは記憶も歴史もともに客観的な所与のデータなどではなく、受容(これには歴史家の記述も含まれる)によって構築されるものとなる(アダムはこれに言及していないのは不思議なくらいだ)。心理学に構成主義(記憶は決して客観的なデータの受容によって成立するのではないとする理論)が成り立つなら、それは時間同様空間(の受容)に関しても成立するはずだ。客観的でスタティックな所与としての「空間」とは別のその度毎に構築される空間像が(ただしこれは前回のルフェーブルのことばを使うなら「空間の表象」の方により近く、デザインのような「表象の空間」にもっていくには困難かもしれない)。あるいは、アフォーダンスの理論のようなものもこれに比定されるかもしれない。アフォーダンスでは客体ないし逆に主観として(だけ)の空間(あるいは環境)という位置づけは斥けられるからだ(時間のアフォーダンスのような理論があってもいいはずではないか?)。

ルフェーブルでは「表象の空間」は、産業社会が強いるテクノクラティックな空間秩序、つまりその商品化のモメントに比せられるわけだが、アダムでは「産業時間と権力」という章が設けられて、似たような事柄が論じられている。つまり、それは時間がスケジュール、つまり合理的に組織された継起的な秩序として社会生活を構築する事態である。このスケジュールは管理する側とされる側の分化を生み出す。アダムが引用しているのは、アメリカからブラジルに赴任した勤勉な教師がブラジルの学生のルーズな出席態度に悩まされる事例だが、それを平たく均していく過程は、産業社会化という平準化と近く、そこに時間を巡る権力が行使される。時間管理のモデル(フーコーの規律論が援用されないのはこれまた不思議なくらい)は教育以上に労働だが、それはこの時間構造が産業社会に固有な秩序だからだ。ここでも言及されるのはギデンズ(ギデンズ自身はフーコーを多用する)で、彼のいう文脈剥脱を施された時計時間とは、商品可能性に結びつく産業時間である。ギデンズは、これがもつ権威の資源が構造的搾取関係の再生産を行ない、存在の生きられる経験を形式のない継続時間に代替するのだと論じる。そして、それが行なわれるのはわれわれの社会(近代産業社会)のみにおいてなのだ、と。ルフェーブルの議論との平行性は明らかだろう(ただしその二元論も然りで、後述するように、アダムはギデンズのこの限界を指摘している)。

つづいて論じられるのは、現在の拡張であり永遠回帰としての時間の管理である。つまりそれは前記マンハイムの図式にも対応するのだが、社会的に定置された計画行為とは未来の拡張である。ここでトルステン・ヘーガーシュラントの、銀行や保健、法律などの諸制度と並び、現代建築を将来の一定期間を保証する制度的実践であり未来の植民化であるというテーゼが援用されている(制度の英語institutionが、施設も同時に表わすことに留意しておきたい)。それは未来を資源として取り込む行為であり、そもそも人間は中世盛期に神の被創造物から自らの未来を構築する歴史の担い手になった、テクノロジーを通して未来を支配するようになった(同時に過去の記録をも)のだ。設計や計画という行為はかくして空間のみならず、時間を構築する行為として認識される(これが意識されたのは建築では60年代──日本のメタボリズムをはじめとして──である)。

結局本書を通して目論まれているものは、自然を時間と空間を超越して当てはまる不変の見解と法則に従うものとし、一方複雑性や調停性は人間的社会的時間のみにあるという二元論の超越である。いまやこのドクサには基本的前提の変化が生じているというわけだ。しかしアダムが、二元論の破壊を行なったギデンズにせよ結局その再調整をしているにすぎないといっているように、破壊は新しいパラダイムの構築を保証するものではない。彼女自身にせよ、それを示しえているわけではない。それは、ギデンズやアダムの限界というより、あるいは、この問題がそもそも単一の大セオリー(ニュートンのそれのような)の君臨を拒否するものなのかもしれない。われわれはそのような理論のギャラクシーのようなものに向けて準備していかなくてははならない、ということなのかも。私は本書をそのような船出のためのテクストのひとつと位置づけてみたいのだ。

[やつか はじめ・建築家]


200410

連載 BOOK REVIEW|八束はじめ

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