コーリン・ロウはいつも遅れて読まれる

コーリン・ロウ
『マニエリズムと近代建築』
(伊東豊雄、松永安光訳、彰国社、1981)

コーリン・ロウ、フレッド・コッター
『コラージュ・シティ』
(渡辺真理訳、鹿島出版会、1992)

Colin Rowe,
As I was saying, Volume one: Texas, Pre-Texas, Cambridge,
The MIT Press, 1996.

Colin Rowe,
As I was saying, Volume two: Cornelliana,
The MIT Press, 1996.

Colin Rowe,
As I Was Saying: Recollections and Miscellaneous Essays, Volume three: Urbanistics,
The MIT Press, 1996.
建築批評家コーリン・ロウが、20世紀後半の建築における知的風景のなかで重要な位置を占めていたことは疑う余地も無いのだが★1、しかし彼の書いたテキストはその時その時でよく読まれてきたというわけではない。例えば今日レム・コールハースがなにをしようとも、そのジェスチュアの大から小までもが瞬時に情報として伝わることに比べると、ロウの重要なテキストはいつも「遅れ」をともなっていたと言わざるをえない。
まずは、『マニエリスムと近代建築』に収録されたいくつかの論考は、ロウ自身がその序文で書いているように、書かれたあともなかなか本としてまとまらなかった。この本に収められた極めて評判の高くかつ重要な3つのテキスト「理想的ヴィラの数学」「マニエリスムと近代建築」「透明性──虚と実」は、それぞれ1947年、50年、56年に書かれたものの、著書としてまとまったのは76年であり、それがさらに日本語に訳されたのは81年のことであった。この20-30数年間というのは近代建築への評価の激変など、建築を取り巻く状況としては決して短い期間ではない。例えば、ル・コルビュジエの作品は彼のテキストのなかで繰り返し言及されているが、《ラ・トゥーレット修道院》の完成が1957年である様に、ロウにとってこれらの対象は決して歴史的なものではなく、同時代的なものであり、それが今日のわれわれとのスタンスの違いを決定的にしている。 いずれにせよ、この本に収められている諸論考はすでにこれまでにもよく読まれてきたと言っていいだろう。近代建築が決して純粋な試みではなく矛盾をはらんだ存在であること、虚と実といった建築の実体と理念についての考えなどについては、これまでにも議論が多く、理解も深まっているといえるのではないか★2。そして論考を書くものであれば誰でも発見的に書きたいと願うであろうが、そのように意図され書かれたテキストの多くは感覚的であり、他人からは眉唾に思えるものが多い。ロウのテキストが説得力を持つのは、その的確な事例の選択と実証する能力である。彼の差し出した議論はいまだに有効であるとともに、彼のこの手際というものは、現在も繰り返し参照されるべきであろう。
続く著作『コラージュ・シティ』が出版されたのは1978年であるが、そのもととなったテキストが準備されたのはその5年前にさかのぼり、また日本語版が出たのは92年である。『マニエリスムと近代建築』同様、日本の読者に届くまでに約20年の歳月が経過している。この『コラージュ・シティ』もまた、前著同様ロウの重要な著作だとの認識はされているものの、こちらはどうもあまりうまく読まれてこなかったふしがある。それにはいくつかの理由が考えられる。単純なことから述べると、この本は英語版などを見てもつくりがきわめて雑である。そして、文章の流れも理路整然としていなく、まわりくどい表現も多い★3。『コラージュ・シティ』というタイトルどおり、合理的に計画されていない都市のあり方を肯定しているわけだが、それがかえって浅薄な理解に留まらせたことも否定できない。日本語版が出た時期は、日本では都市のカオスの魅力などといったことがもっともらしく語られもしていたため、この難解な著作に丁寧に付き合うことも無く、共感を覚えることでなにかわかったような気がしていたこともあっただろう。そして、都市についての関心が高い最近とは違って、十数年前には都市を理論的に分析しようという機運も低かった。つまり、その評判に比べて、この著書は十分に読み込まれておらず、そしていまこの本を読むことには多くの可能性がある。日本のみならずヨーロッパにおいても、都市再生はここしばらくの最重要テーマともいえるが、その議論のベースとしても読まれてしかるべき本である。
さて、洋書紹介というこのコラムの趣旨からするとやっとここからが本題となってしまうのだが、1996年に"As I was saying" というロウの文章を集めたアンソロジー3冊組みが出版された(第一巻は彼の前半生、第二巻は後半生、第三巻は都市に関するものとなっている)。これは、上記2冊に収められていないものを集めたもので、日本版が出版される2001年の2年前に、ロウは79歳で亡くなった。前の2冊がある傾向の特定のものを集めたとすれば、ここではそれ以外の雑多なものが集められ、ロウの多様な側面をうかがい知ることができる。理論的な論考があれば教育論もあり、コーネル大学での都市計画の課題についても詳細に記述されている。晩年になってから書かれた回顧的なエッセイや、各テキストの前に付けられたロウ自身の解説により、テキストが書かれた背景や当時の状況などが詳細に述べられ、ロウを取り巻く世界がよくわかる。ロウの信奉者であったり、ロウをより理解しようと努める人には、必読の書といえよう。 日本語版が出ているといったが、それは、第一巻、第二巻の半分ほどであって、第三巻の都市に関するものはまったく訳されていないなど、重要と思われるものの未訳の箇所も多い★4。各大学の状況を述べているものは、重大な時代の証言である("Review: Student work of Architectural Association" など)。"Transparency: Literal and Phenomenal, Part II" は、「透明性──虚と実」の続編とも言えよう。そのほかにも、興味深いテキストが多く、このきらめく思考の断片の集積から、掘り起こせるものは多いであろう。
★1──コーリン・ロウは、1920年生まれ。38年よりリバプール大学で学ぶが、当時の同級生にジェームス・スターリングがおり、その交友はスターリングの死まで続く。戦後イエール大学で、ヘンリー=ラッセル・ヒッチコックの指導を受け、この頃ルイス・カーンとも接点を持つ。引き続きテキサス大学で教鞭をとり、その時の同僚のひとりがジョン・ヘイダックであった。またこのすぐあとに学生であったアルヴィン・ボヤスキーと知り合うが、ボヤスキーは後の70年代、80年代にロンドンのAAスクールを世界のトップの建築学校に押し上げた人物である。59年よりケンブリッジ大学に場を移し、そこでピーター・アイゼンマンと知り合い、彼にジュゼッペ・テラーニの分析を奨めたというのは有名なエピソードである。また、ケンブリッジではアンソニー・ヴィドラーの指導教官も務めている。63年よりコーネル大学に移動し、その後は30年近くにわたってアメリカに落ち着くことになる。70年代初めには、アメリカでホワイトVSグレイの論争が起こるが、ロウはホワイト派のイデオローグであり、そのホワイト派には、先に登場したヘイダック、アイゼンマンとともに、リチャード・マイヤー、マイケル・グレイブス、チャールズ・グワスミーが含まれている。ロウの影響というのは、その著作が今日世界中で広く読まれている事実がまずあるが、このようにイギリスとアメリカの両国の建築シーンと密接に関係しており、彼の教え子が主要な建築学校で主導的な役割を担っているのである。
★2──まずは、『マニエリスムと近代建築』の各テキストの前に付けられた訳者による解説が、テキストを取り巻く状況の説明をするとともにそこでの議論をうまく整理しており、理解のためのよい導きの糸となっている。また、ここでのロウの議論に関連しては、とりあえず以下に挙げるものが目に付いたが、参考になると思う。
・磯崎新×柄谷行人×浅田彰×岡崎乾二郎「共同討議──モダニズム再考」(批評空間臨時増刊『モダニズムのハード・コア』、太田出版、1995)
・丸山洋志「コーリン・ロウという現象」(『マニエリスムと近代建築』書評、五十嵐太郎編『建築の書物/都市の書物』、INAX出版、1999)
・「コーリン・ロウ再考」(『建築文化』2000年4月号、彰国社)
★3──『コラージュ・シティ』の日本語版は、文章の意味が取りにくい箇所が多々見られ、これを読み通し理解することはとても難しい。少しでも英語の心得がある方には、英語版を読まれることをお奨めする(ちなみに値段も英語版のほうがずっと安い。また、ドイツ語版は、レイアウト等を含め非常に丁寧に作られているのだという。もしかしたら、本の出来はドイツ語版がベストかもしれない)。『a+u』1975年4月号に、ロウが前年に行なった「コラージュ・シテイ」というレクチャーが翻訳されている。こちらは15ページほどのものだが、日本語の翻訳も読みやすく、日本語で取り組もうという方には、まずは本のエッセンスが集約されているこのテキストを読むのがいいかもしれない。
★4──一方、日本語版に収められたロウ自身による「日本語版に寄せて」は、もちろんオリジナル版には無いものである。彼が学生時代に近代建築にのめり込むに至った経験が書かれており、このアンソロジーの性格をよく物語る興味深いテキストともなっている。
[いまむら そうへい・建築家]