曲げられた空間における精神分析
Anthony Vidler, Warped Space : Art, Architecture, and Anxiety in Modern Culture, MIT Press, 2000.
アンソニー・ヴィドラー『不気味な建築』(大島哲蔵、道家洋 訳、鹿島出版会、1998)
大島哲蔵『スクウォッター : 建築×本×アート』(学芸出版社、2003)
Bernard Tschumi, Event-cities 3, MIT Press, 1994.
──〈フォールド〉〈ブロッブ〉〈ネット〉〈スキン〉〈ダイアグラム〉。こうした言葉はみな、ここ10年にわたる理論的、デザイン的行為を説明するために採用されたものだが、これらはデコンストラクションから連想される〈切断〉〈亀裂〉〈欠点〉〈否定〉といった言葉を急速に置き換えたものであり、そのさらに前には〈タイプ〉〈サイン〉〈ストラクチャー〉〈合理主義の形態学〉という言葉があった★1。
建築に関する文章は無数にあるが、本格的な研究者が現代建築についてコンスタントに書いているという例は、実はほとんどない。アンソニー・ヴィドラーは、そうした数少ない建築批評家の一人である。ヴィドラーの『不気味な建築』(鹿島出版会、1998、原書=[The architectural uncanny, MIT Press, 1992.])が、彼の80年代の評論を中心にまとめたものだとすれば、"Warped Space"は、90年代の評論をまとめたものとなっている。 アンソニー・ヴィドラーは、ケンブリッジ大学で建築と美術の学位を習得し、その際にコーリン・ロウから指導を受ける。1965年から93年にかけてのプリンストン大学のメンバーを経て、カルフォルニア大学において93年から美術史の、97年から建築スクールの教授を務める。2001年から、ニューヨークの建築学校の名門、クーパー・ユニオンのディーンに就任。ジョン・ヘイダックが長年に渡って作り上げたこのユニークな学校を、ヘイダック亡きあと再興することが期待されている。
ヴィドラーの本"Warped Space"は、前著同様、プレ近代、近代、現代と幅広い対象を扱っている。19世紀末の広場恐怖症や閉所恐怖症の議論から始まり、このあたりは前著のモチーフ〈不気味なもの〉を受け継いでいるが、不安についてはつねにヴィドラーの文章に通底するモチーフとなり続けている。近代になっても、恐怖症や不安はモダンライフと表裏一体の関係にあり、それは、建築、都市、映画といった空間を扱う分野でその兆候をあらわにしている。こうした議論において、ヴィドラーが引き合いに出しているのは、ジンメル、クラッカウアー、ベンヤミン、アイゼンシュタインである。
そして、本のタイトルとなっている「Warped Space」であるが、どうも子供時代に親しんでいたSFアニメの影響か、ワープというと瞬間空間移動をイメージしてしまうが、そもそもの英語の意味は、〈曲げる〉といったこと。つまりこのタイトルを訳すとすれば「曲げられた空間」となる。こうした、曲げられた空間というのは、昨今のデジタライゼーションとヴァーチャル・リアリティーによって促進されているわけだが、もちろんフォールディング、ブロッブを意識したネーミングであろう。ただしフォールディングやブロッブが具体的形態に関心を集中させがちであるとすれば、そこに心理学的読解を重ねるところがヴィドラーらしさといえる。また、「曲げられた空間」には、空虚ではなく多くの障害物に満ちた〈心理学的空間〉と、アーティストが既成の概念を破壊して表現する際に生じる〈芸術的空間〉があるとしているが、この議論は今後吟味されるべきであろう。 本の後半では、現代の作家に関するテキストが集められており、アーティストとしては、ヴィト・アコンティ、レイチェル・ホワイトリード、マイク・ケリーなど、建築家はコープ・ヒンメルブラウ、エリック・オーエン・モス、モーフォシス、グレッグ・リン、ダニエル・リベスキンドといった面々に関するテキストが集められている。
ついでながら、ヴィドラーのひとつ前の著作『不気味な建築』のなかから、この連載の前回に取り上げたシチュアショニストに関する箇所を指摘しておこう。それは、ヘイダックのプロジェクトに関する「放浪の建築」というテキストの中で、ヘイダックのデザインする建築動物の一団が世界各地を移動するさまをサーカスのカーニバルに喩え、それとシチュアショニストの〈漂流〉の概念とを結びつけて論じている。ヘイダックとシチュアショニストの出会いということだけでも刺激的だが、〈放浪〉〈漂流〉〈遊歩〉といったテーマに関する興味深いテキストといえよう。
今回はさらに脱線を続け、「放浪の建築」の訳者でもある大嶋哲蔵さんにも言及しておきたい。大嶋さんは、この連載の前任者という縁もあるが、前回も注釈にてテキストを紹介し、今回も筆者が本稿をまとめるにあたり繰り返し参照させていただき、やはりきちんと紹介すべきと思い直した次第である。大嶋さんは洋書店を営む傍ら、建築図書の翻訳、読書会など各活動をされ、また多くの建築評論を残されている。アカデミックな立場にいなかった分、在野にあっての行動や鋭い評論活動は、多くの信奉者を生み出している。氏の惜しまれる、そして早すぎた死のあとに、氏を慕う方々の努力で編まれたのが評論集『スクウォッター──建築×本×アート』であり、「不気味な建築」の書評「ホームレス、そしてフォームレス」その他、建築洋書書評をはじめ多くの評論が集められている。
最後に、もうひとつ前回のシチュアショニストからの連想で、バーナード・チュミの"Event-Cities 3: Concept vs. Context vs. Content"も紹介しておこう。これは、同名の作品集シリーズの3冊目であるが、〈イベント〉という言葉と、シチュアショニストの〈状況〉とが、ともにハードとしての建築/都市ではなく、そこで起こる出来事をテーマとしていることは明らかであろう。ドゥボールは、スペクタルの社会の批判を続けたわけだが、レム・コールハースであれば恐らく都市におけるスペクタクルの状況を積極肯定するであろうし、チュミのいうイベントというのも結局はスペクタクルなのではないかという指摘も可能だろう。いずれにせよ、コロンビアのディーン時代(1988−2003)のチュミは作家としては冬眠時代にあったといってもよく、プロジェクトは多いものの、以前のような切れ味は楽しめなかった。いま、大任を辞したあとの復活を楽しみに見守りたいと思う★2。
★1──Vidler, Warped Space、前書きより。
★2──『a+u』88年9月号にて、チュミの特集が組まれた際に、論考を寄せたのがアンソニー・ヴィドラーである。この「アーキテクトの快楽」と名づけられた長文のテキストは、ちょうどチュミが日本でもブレイクした時に当たったため、チュミをはじめて本格的に日本に紹介した文章といっていいだろうし、チュミがポスト構造主義の理論を体現している建築家との印象を決定づけたものとなっている。チュミが《ラ・ヴィレット公園》以降急速にわれわれの前から見えなくなったように思えるのは、彼自身が教職で多忙のためプロジェクトに時間を割けなくなったという事情もあるだろうし、同時にポスト構造主義のブームも終わり、それまで彼の論理を支えていた文脈がなくなってしまったことも原因となったのだろう。
[いまむら そうへい・建築家]