book RESEARCH for urban RESEARCH No.01
イントロダクション──"DAIDALOS"69/70

八束はじめ

近年とみに建築家によるリサーチが「流行」している。レム・コールハースは、ハーヴァードのGSDで、オレはもうデザイン・スタジオはやらないと宣言して、HARVARD PROJECT ON THE CITYをはじめた。重なることもなかったわけではないようだが、基本的に毎期異なったテーマを決めてリサーチが終わるとTaschenから分厚い本を出版している。"Guide to Shopping"然り、"Great Leap Forward"然りで、いずれも私はすでに『10+1』において『ショッピング』はこのWeb版(「『ショッピング・ガイド』へのガイドhttps://www.10plus1.jp/archives/2004/02/06162726.html」参照)で、『大躍進』は本誌でそれなりに細かく紹介した。次の「ラゴス」は本にはならずDVDが出たり、ほかのリサーチと一緒に、同名の展覧会が開かれた関係で日本語にもなっている"MUTATIONS"(いつもながらうまいネーミングだ)と題する本で取りあげられている。DVDはこのWeb版『10+1』でも今村創平氏が簡単に紹介されていた(「グローバル・アイデア・プラットフォームとしてのヴォリュームhttps://www.10plus1.jp/archives/2005/11/10121957.html」参照)。改めて本欄でも取り上げようと思っているが、最近ハーヴァードではもう一度このラゴスのリサーチをやり直すべく学生を募集したらしい。
しかしこの傾向は、近年といってもそんなに最近のことだけではない。近代建築もしくは都市計画の歴史はリサーチの歴史でもあった。もともとジャーナリストとしての経験があるコールハースの最初の著作『錯乱のニューヨーク』も、歴史物とはいえ、この手のリサーチである。さらに前を辿ればヴェンチューリの『ラスベガスに学ぶ』がある。この二つはただのリサーチではなく、いずれも巻末にマニフェストもどきのページがあり、リサーチが著者のデザイナーとしてのスタンスにつながっているということを思わせた。もっと前を辿ればクリストファー・アレグザンダー(後述の『ダイダロス』でも、'DIAGRAMS ARE FOREVER'という『007』をもじったタイトルでページを割かれている)やケヴィン・リンチの仕事だって、あるいはル・コルビュジエの諸作だってそうだ、といえなくもないわけだが。この欄は今回からその最近の成果の一部を紹介しようという主旨で設けられた。私の教えている芝浦工業大学の建築工学科の研究室の諸君を中心にこの作業をやってもらう予定だが(望むらくは、もっといろいろな副産物を産むかもしれないことを期待しているのだが)、初回は私がイントロのようなものを書かせていただく。

少し前のものだが、ドイツの建築雑誌"DAIDALOS"が一旦停刊した後の再刊第一号(1998-99年の69/70号)が'THE NEED FOR RESEARCH'と題した特集をしている。最も優れたリサーチの特集というのではないが、ある種の傾向が伺えるということで最初に取り上げることにしてみよう。あくまでイントロだから、ここでは理論的な方向性を中心として、リサーチの本格的な紹介は次号からということにしたい。
この号でゲスト編集者として振舞ったバート・ローツマ(アムステルダムのベルラーヘ学院で教えているオランダ人の批評家)は「現実のバイト:第二機械時代のリサーチの意味」(バイトはコンピュータの容量などに使うバイト)と題したイントロを書いている。「第二機械時代」とはいうまでもなくレイナー・バンハムの『第一機械時代の理論とデザイン』を意識しており、バンハムはアーキグラムのような彼の同時代人たちの仕事を第二機械時代と意識していたわけだが、ローツマ的には21世紀(では、8年前の当時はまだなかったにせよ)こそ、それに相応しいということなのだろう。彼自身の言葉でいえば「社会生活がポスト産業時代における新しい激動を経験しつつある」、そしてまたグローバリゼーションが急速に進行しつつある状況である。ローツマは、これとほぼ同時期に、ベルラーヘの学生たちによる(この伝でいえば)「第一機械時代」のヒーローたち(オットー・ノイラート、タウト、ル・コルビュジエ、ギンスブルグ、ファン・エーステレン&ファン・ローヒュイゼン)、ヒルベルザイマー、タンゲなど)を取り上げた好アンソロジー"RESEARCH FOR RESEARCH"(BERLAGE, 2001./本欄のタイトルはそのもじり)を出版しているが、この「現実のバイト」でもそこに言及しながら(とくにル・コルビュジエとファン・エーステレン&ファン・ローヒュイゼン)、アムステルダムの都市計画局長でありCIAMの議長でもあった──それより前にはドゥースブルクの助手でもあった──エーステレンがコールハースの先駆者であるという議論を紹介している。建築家として(作品が)似ているという事ではない。「すべてのバイアスを避けようとすること」においてそうだというのだ。エーステレンは正しいデータさえ揃えられれば都市計画家は五分間で正しい答えに行き着くはずだと「五分間タウンプランニング」を標榜し、MVRDVのヴィニー・マースは同名のワークショップを開き本にもしている。ローヒュイゼンのほうはそれをバックアップするデータを統計調査などで収集したプランナーで、二人とも機能主義者グループOpbouwグループに属するメンバーである。そのうちに敷衍する機会もあるかもしれないが、私はこの二人の関係は丹下健三と浅田孝の関係に似ていると考えている。OMAに対するリサーチセクションAMOがそれにあたると理解してもいい。そのエーステレン&ローヒュイゼンが率いるアムステルダムの都市計画局とコールハース=OMAの違いは、前者のつくった規範が制度化してしまった所から出発しているところにあるとローツマはいう。第一機械時代と第二機械時代の違いである。
正確にいえば、ローツマはこの比較の間にコールハースがデルフト工科大学の学生とやったアムステルダム郊外のバイルメルメール地区の再開発(70年代に最後のモダニスト開発──チームXの亀の甲パターンのデザイン──としてつくられスラムと化した)への批判的検証を挟んでいる。チームXはCIAMへの批判として登場したことになっているから、エーステレン&ローヒュイゼン→コールハースのラインは近代都市計画の歴史のパラダイムのなかでもう少し込み入っていった発展を体現しているわけだが、ここでは深入りする余裕はないので、これまたそのうち詳論したいということと、本誌のル・コルビュジエ連載とも多少関わる内容を論じているのでそちらも参照していただけると有り難い。ローツマは二つの機械時代の違いを'Society of the And'と'Society of Either/ Or'の違いであるというレーマー・ファン・トールンの議論を紹介して説明しているが、'Either/ Or'(白か黒か)の議論では説明ができないという認識はすでにヴェンチューリのパラダイムでもあり、いずれにしてもお題目でしかないとは思うが、分かりやすい比較である。

RESEARCH FOR RESEARCH
RESEARCH FOR RESEARCH, BERLAGE, 2001.

このリサーチ議論は、じつのところわれわれが以前に議論した事でいえば「プログラム」と呼んだものとも直接つながっている。コールハースが空間をアクティヴィティのダイアグラムの直接的な、つまり「デザイン」という恣意(ローツマの用語では「バイアス」)を介さない、翻案(マッピング/コラージュワーク)をしていることは知られているが、ローツマは、それをOpbouwによる30年代の余暇ダイアグラムとコールハースが横浜でのワークショップでつくったアクティヴィティ・ダイアグラムと並べる事で説明している。
一連のデータを図式化してみせることでこの線をさらに追求しているのはMVRDVである(最大限床面積という意味のFARMAXやDATA TOWNあるいはDATA SCAPE)。彼等の仕事が興味深いのは、コールハースと同様かそれ以上にアーバニズムにおける「量」の問題をとりあげているからだ。日本人は「量」を組織(事務所やゼネコン)の問題であり、「アトリエ派」というさして意味もない時代遅れのカテゴリーにおいて問題なのは、「質」だけだと考えがちだが、「小さなもの」の問題は別の意味で重要だとしても、「量」はわれわれの環境を圧倒的に変えつつある。ヴィニー・マースは、この号に収められた小文のなかで「建築が都市計画となるとき、それは量とインフラの領域に入る」そして「われわれはバナル──平俗──になることを恐れているのか?」といって、"S,M,L,XL"のなかで(「なにがアーバニズムにおこったのか?」)、コールハースがニーチェを意識しつつ行なった「われわれは絶対的に非批判的たらねばならない。......われわれは責任を持てないわけだから、無責任たらねばならない」というような挑発に呼応している。データスケープは、ローツマによれば、かくて「ローヒュイゼンの夢──そのなかでは統計とノルムがアーバニズムの統合的な因子を構成する──の実現化された姿だ」というわけだ。「統計とノルム」は本誌ル・コルビュジエ連載で取り上げたばかりだし、MVRDVについては、本欄でもそのうち具体的には取り上げるのでこれ以上は触れないが、ここでも私は50年代からの丹下研究室の作業(リサーチは丹下の1959年の博士論文に、そしてプロジェクトはいうまでもなく「東京計画1960」に結実する。もっとも容積の問題は、丹下研究室以前に高山研究室の課題であった)との類似性を覚えないわけにはいかない。いずれにせよ、これがアップされる頃にはそのアムステルダムでそうした主旨の講演をする予定である。

この『ダイダロス』ではローツマや上記マース以外にもいろいろな論者によるテクストが掲載されている(ただし本欄が基本的に扱う都市よりは建築寄りの論考が多い)が、ローツマのベルラーヘの同僚でありコールハースとの"Mutations"の協働者でもあるステファノ・ボエリは「折衷的地図」という概念を同名のテクストにおいて論じている。それは「空間と社会の間の相応性を吟味する新しい方法を目指す」ものであり、そのテクストはレポートや写真、地理学的あるいは文学的記述、分類、リサーチレポート、量の探求、エッセイ、プランやプロジェクト等々の異質なものからなるという。これは同じローツマが自分のキュレーションをした"the naked city"展(2004/オルレランのArchilab/ここで紹介してもいいものだが、これもすでに今村氏が紹介していたので本欄では割愛する)のイントロで語っている、「多くのアーティストたちが地図制作者やドキュメンタリー写真家、あるいは映画作者のような役割を果たしている」という認識と一致している。 つまり、彼らは、オット・ノイラートの概念を使えば、起承転結からなる均質な体系(システム)ではなくランダムに追加しうる「百科事典」のようなものだとして、とくに既存の都市の変容を記述する方法を提唱しているわけだ。それはある種かつてのシチュアショニストの仕事に近いものともいいうる。現在のアーバニズムはすでに計画行為というより、それを見て分析し、ジャッジするという行為なのかもしれない。そこには「表象の空間」と「空間の表象」の決定的な分離に現代の日常生活の批判されるべき対象を見いだしたアンリ・ルフェーブルの危惧を乗り越える可能性が垣間みられる可能性もあるのかもしれない(まぁ、随分楽観しすぎではあるけれど)。

『ダイダロス』に戻るが、この号では、ほかにも'no w here Recommendations for the Aanalysis of Urban Reality'というカール・アマンとジュゼッペ・マンティーナの論文では、さまざまな都市事象(アムステルダムのクラブの情報戦略からケルンとボンのZwischenstadt──間都市──のインフラの容量と結節点の問題、交通やメディアを通したヴィツェンツァの町の社会-形態学的な条件の体験の仕方等々)を取り上げたり、'Outback Metropolis: Time Sharing Urbanism'と題したペネロープ・ディーンとピータ・トゥルマーの論文も、都市サービスの分散と連結それに相補性の問題を取り上げたりしているが、この辺の具体的な分析は対象も手法もボエリのいうようにさまざまであり、実際のところまだまだ洗練されたというわけにはいかない。リサーチ流行りだからといってやればいいというものでは、当然、ないのだ。
さらに、ザハ・ハディドのパートナーであるパトリック・シュマッハーの'Business・Research・Architecture'は、近年のビジネス及びそのための組織や空間の構造が著しく流動化しており、それは他のプロダクションの諸分野同様に建築の分野でも該当するのだという主張が展開されている。この状況は「建築を芸術的表現というよりビジネスに基づいたリサーチとして理解するようなアカデミックな枠組」を要請するというわけだ。「これは明らかに建築的前衛を哲学的批判から〈操作性〉の関心へと向き直させるものだ」。「操作性」とはプログラムのことを意味し、「哲学的批判」とは例えばアイゼンマンやリベスキンドのようなものを指すと考えられる。いわゆる「デコン」のなかでもあまり「理論的」という印象のないザハのパートナーの議論としては幾分冷やかし的な意味で面白いといえなくもないが(つまりシュマッハーはその部分を補完する役割だと)、そのシュマッハーもまた初期モダニズムを参照し、「インターナショナル・スタイルの教義における作品の時代の産物をコード化したのはフォーディズムの覇権と軌を同じくする」という。とりわけこの、第一機械時代のフォーディズムの理論を作品化したものとしての「20年代のラジカルな機能主義(例えばABCグループ)」は「単なるポスト合理主義や自発的に現われた形態の美的なコード化を超えるものであった」ということを第二機械時代である現在に外挿してやれば、デコンとフォールディングの(つまりザハ・スタイルのということだ)「実験とリサーチ」はつなげられるということになる。
ここでは敷衍する余裕はないのだが、ローツマもシュマッハーも二つの機械時代の違いをテクノロジーの違いという以上に、社会主義の管理社会(=全体計画への信頼)と規制を外されたグローバルな市場社会のコマーシャリズムの社会の違いとして見ていることは、いろいろと考えるべき問題を含んでいるとはいえ(またハーツ&ネグリの『〈帝国〉』まで話が行ってしまいそうだ)、面白くはある。その問題設定に根本的に異議を唱えて小泉改革と一緒じゃないかと力んでみても、それだけではさしたる意味はないだろう。
前記"the naked city"を見ると、ローツマはコールハース流のニヒリズムに対して「グローバリズムがただ新しい都市性の豊かなメトロポリス的な集中を見、『フローの空間』を平滑にするだけではなく、新しい緊張や軋轢も作り上げる可能性があることに意識している」と釘を刺してもいるが、それに先立つ『ダイダロス』でのシュマッハーの議論のようにハンネス・マイヤーが第一機械時代の、ザハが第二機械時代の(超)機能主義だとなると、これはいささか我田引水にすぎるというものではないのか? 西欧で大流行のフォールディングは本当に「芸術的表現というよりビジネスに基づいたリサーチ」の結果なのか? この辺は、じつはリサーチあるいはプログラムものの問題点である。統計や数字はいくらでも恣意的に扱いうるし、正反対の結論だって導き出しうる。リサーチはいつだって「ナンチャッテ」リサーチ(これは私のことばではないが、なかなか正鵠を射た形容だ)になる可能性は秘めている。「ナンチャッテ」でもいいケースはいくらでもあるにせよ。

例えばMVRDVのデータスケープでいう100メートルキューブの超建築都市を、統計や計画としては「ナンチャッテ」であるには違いないとしても、そんな馬鹿なとかつてロン・ヘロンの「ウォーキングシティ」を非難したギーディオンのようなことをいうつもりはない(つまりモデルとして面白さや教訓は評価したい)が、何事も無条件というわけにはいかない。例えば(都市ではなく建築の話だが)、最近、美術館の20世紀的なプランニングを破り、森のような散策パターンをつくりあげた(つまり順列を自由に組み替えられるということだろう)として評判になった建物を見に行く機会があった。リサーチをしたのかどうかは知らないが、プログラム的な改変のプロジェクトである。しかし実際には、私に関する限り、内部で方向性を見失い、堅い(非吸音性の)素材の円形の部屋ばかりで、反響音が四方から跳ね返ってくることも合わせて、ビックリハウスよろしく(そういえば、かつて磯崎新はそれを20世紀建築の重要発明に数えたのだっけ)気分が悪くなるばかりで、周りを見ないようにして退出する始末だった。常に検証の必要性というもの、リサーチ万能主義を能天気に謳うわけもいかないと考える所以である。本欄では、建築よりも都市に水準を合わせて取り上げるつもり(つまりより抽象性は高くなる)だが、リサーチャー(やデザイナー)の能書きを全面的に受け入れるのでなくそこのところは気をつけてほしい、ということだけを担当する学生諸君や読者諸氏への留意事項として申し上げておきたい。

[やつか はじめ・建築家]


200609


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