書評:今こそ生態学的批評性を!

柳澤田実(南山大学人文学部准教授、哲学生態学的観点からの人工物[アート、宗教]研究)
fig.1──アトリエ・ワン
『空間の響き/響きの空間』
アトリエ・ワンの『空間の響き/響きの空間』[fig.1]は、ヒトという生き物の面倒臭さを別の力に変換するための知性と技の宝庫である。本書にいたるまでのプロセスでアトリエ・ワンが公にしてきた『メイド・イン・トーキョー』(鹿島出版会、2001)、『ペット・アーキテクチャー・ガイドブック』(ワールドフォトプレス、2001)、『「小さな家」の気づき』(王国社、2003)、『アトリエ・ワン・フロム・ポスト・バブル・シティ』(INAX出版、2006)[fig.2]などの調査・研究活動は、単体としての魅力に乏しい狭小建築=「ダメ建築」が密集する「トーキョー」の猥雑さを面白がり、より有効に活用するために提案された「環境の読み方」だった。本書には、こうしたこれまでの彼らの試み、そして彼らの実作品を支える発想の凝縮されたエッセンスが、ヒトという生き物の生態図鑑とも言うべき写真の列挙とともに、伸びやかな文体によって示されている。

fig.2──『アトリエ・ワン・
フロム・ポスト・バブル・シティ』
冒頭にいささか唐突に用いた面倒臭さという表現について、少し解説を加えておきたい。後に詳述するが、本書は基本的に建築や都市といった人工物を、ヒトという生き物の生態活動として捉え直す生態学的アプローチ(ecological approach)を随所に取り入れている。生態学的なアプローチとは、もともとはダーウィン派の生物学者・哲学者エルンスト・ヘッケル(1834─1919)によって主張された生態学(Oekologie)に始まる。20世紀以降、生態学は社会学・人類学・心理学などを経由してその観察と分析の対象をヒトという生き物にまで拡張し、生態学的な諸アプローチ(生態学的社会学、生態学的人類学、生態学的人類学)が生じていった。これらの方法論の共通点は、ラボでの実験偏重を批判し、生き物が実際に生態活動を営んでいる状態を、他の有機体や環境との関係の網の目として観察・分析する作業にある★1。今日、生態学は、心理学や人類学のみならず、考古学や遺伝学とも連動しながらますます多様な展開を見せ始めている。

このようなヒトを対象とする生態学的アプローチにおおむね共通しているのが、近代主義が主軸とした諸概念、つまり人間の自己意識とか人間精神の特権性といったものをなるべく低く見積もるという点なのだが★2、こうした方法を用いた結果、かえって妙に抽象的でのっぺりとした「人間一般」の生態しか見えてこない可能性が生じる。その理由のひとつとして考えられるのは、人間の活動、とりわけ社会的活動に含められるものの多くは余りにも複雑なので、知覚や行為といった観察可能な比較的単純な要素の分析によっては処理しきれないという問題である。同時に、学問の背後にあるイデオロギーに起因する問題もあるように思われる。こうした反近代主義的なアプローチは、かつてのロマン主義者たちが夢想したような、理想化された自然状態の人間を描き出す傾向が強い。自戒を込めて言うならば、現にそのような研究もかなりの割合で散見されるのが実情なのだ。

こうした現状を考えた際に考えずにはいられないのは、生態学的アプローチはヒト固有の複雑性に由来する、面倒臭さや煩わしさを度外視せずにどのように引き受けられるのか、という問題である。ここで面倒臭さという表現によって念頭に置いているのは、人間の自己意識・自らの固有性に対する意識に起因するさまざまな欲望や振る舞い、(ますます漠然とした表現で恐縮だが)そのような振る舞いにおいて押し出されてくる感触のことである。こうした面倒臭さこそがまさに個々人に人間らしい質感や凸凹を与えていて、そこを無視しては人間について何も有効な議論が作れない気もする。ヒトが生きられる環境・世界のデザインを考案するためには、人間の面倒臭さを引き受けたうえで、あたかも柔道で対戦相手の力を利用して自らの技を繰り出す時のように、それらを別のポジティヴな力に変換する必要があるはずだ。面倒臭さに対する見事な知性・受け身・技の繰り出し。こういったものが本書『空間の響き/響きの空間』には満ちている。

fig.3──佐々木正人『レイアウトの法則
──アートとアフォーダンス』
(春秋社、2003)
fig.4──パチンコカテドラル
そもそも建築を専門としない私が最初にアトリエ・ワンの活動に関心を持ったのは、塚本由晴氏と生態心理学者の佐々木正人氏の対談(「小屋の力・街の楽しみ」『レイアウトの法則──アートとアフォーダンス』春秋社、2003[fig.3])がきっかけであった。この濃密な対談には、2001年までの塚本氏の試みを支えたアイディアが明瞭かつ具体的に綜合されている。とりわけ「小屋」というユニットによって、建築を体の延長線上、「自分の輪郭の拡大」として捉える塚本氏の立場が明らかにされており、とても面白いと思ったのを覚えている。塚本・貝島氏=アトリエ・ワンの一貫した姿勢は、建築の完結した輪郭を予め定めてしまうのではなく、こうした自分の体の延長としての「小屋」を基軸に、建物単体のみならず、建物を包み込み相関している環境全体=「環境ユニット」を一貫して設計しようとしている点にあるようだ。『メイド・イン・トーキョー』では、東京に見られる特異な「環境ユニット」の事例として、パチンコカテドラル[fig.4]やセックスビルが挙げられており、さらに興味が喚起された。このような猥雑さ──猥雑さとは人間の面倒臭さの一形態だ──を生態観察に基づくパターン化によって引き受け、その可能性をぐっと引き出すというやり方は、誤解を恐れずに言うならば、青木雄二の『ナニワ金融道』に匹敵する見事な手法だと感銘を受けたのである★3

今回の『空間の響き/響きの空間』では、このアトリエ・ワンのキーコンセプトである「環境ユニット」を土台とした理論が、より広範囲から取られた観察記録および実作によって明確にされている。先にも述べたように、そもそもこうした「小屋」や「環境ユニット」という概念自体、留学先のパリから戻った塚本氏によって、「トーキョー」の猥雑さに対する「読み方」を変えるために、おそらく当初は逆ギレ的直観によって生み出されたと予想されるのだが、こうしたコンセプトの正当性を、自身の観察に裏打ちされた生態学的観点から示しているのが本書だと言える。その意味で、25 頁からの69 頁までの一連のシークエンスはとりわけ重要に思われた。25 頁からの「虫採り」[fig.5]では、虫の好む環境を探すことこそが虫採りの核心であることが語られ、ヤーコプ・フォン・ユクスキュルやバーナード・ルドフスキーの議論を参照しつつ、生物多様性をモデルに現代都市を捉え直す可能性が提案されている。この文脈において「環境ユニット」は再定義される。「現代都市も近代主義を部分技術としては取り込みつつも、総体としてみれば近代主義では捉え切れない複雑な姿をしている。ならば、ルドフスキーからの展開として、生物多様性をモデルに、そこに登場する主体や環境の振る舞いを生態学的に捉えることができるのではないか。そういう直観から、建物として完結せずに周囲の土木的構築物と融合したり、都市生活の生態をひとつの建物によって切り取った、ハイブリッドで一体的な環境を『環境ユニット』と呼び始めたのだが、これはユクスキュルの『環世界』の都市空間への展開であり、生命的な秩序から都市空間を捉え、ひとつの建物が位置づけられている相互依存の網の広がりを取り出したものである」(27頁)。このような「環境ユニット」によって捉えられるのは、「都市の生態系を特徴づける傾向性」であり、この傾向性こそ都市が長い年月をかけて培った「知性」にほかならないと言われる。

fig.5──虫採り(『空間の響き/響きの空間』より)
続く部分では、こうした人間の生活空間という生態系を特徴づける傾向性=「集合的知性」(61頁)の解読が実演される。掃除という行為を通じてゴミや汚れの傾向を追跡することによって発見される空間について、小学校時代に熱中した「中庭キックベース」を分析することによって見えてきた環境のスケールと行為のルールやパフォーマンスとの相関関係について、さらには人間のみならず猫や虫などの、ヒトとは別のオーダーを生きる生き物も含んだ、あらゆる主体が「居候」できる空間について等など。こうした具体的で生き生きとした事例の解読のなかでも、人間の面倒臭さ・猥雑さに関連して特に注目したいのは、「六本木交差点」と題された、日韓共催サッカー・ワールド・カップ時に東京で生じた群衆のムーブメントに関する分析である。日本代表がチュニジアを破って初の決勝トーナメント進出を確実にした際に、東京のそこかしこで歓喜に湧く群衆たちのパフォーマンスが自然発生的に生じた。六本木の交差点では、信号が青になると、それまでせき止められていた人々が、すれ違いざまに見ず知らずの人とハイファイヴをしたという。この出来事は、喜びを共有した人々が信号によって引き裂かれ、再び出会えたからこそこのような行為が生じたのだと分析されている。「そう考えると、この再会の瞬間を祝福するためにハイファイヴが始められたのはきわめて自然な、そして知的なことに思えてくるのである。そのパフォーマンスが誰のものにも還元できない、環境に組み込まれた集合的な知性といえる領域に達しているからこそ、人々はこれに共感し参加したのではないだろうか」(59─60頁)。この六本木交差点という特定の空間内におけるイヴェントをひとつの単位として分析した際に、警官のホイッスルや便乗して大騒ぎする暴走族のエンジン音までが、祭り囃子のように聞こえたという[fig.6]

fig.6──六本木交差点(『空間の響き/響きの空間』より)
とはいえ、たまたま疲労困憊のうちに帰宅する途中そこに居合わせてしまった人のことを思ったり、この群衆の一部がフーリガンのように暴徒化する可能性などについて考えるならば、もっともっと解像度を上げて、このイヴェント=出来事の分析に人間の面倒臭さを詳細に描き込んでほしい気もする。たとえば青木雄二が『ナニワ金融道』でまさに猥雑としかいいようのない金融業者や債務者の顔を描きつつ、なおも彼らの生態をある抽象度において記録しきったのと同様に、ここにも群衆のフローだけではなく、見ようによってはとうてい愛しがたい調子に乗った若者の顔があっただろうし、この祝祭に乗り切れない、疲れ果てたよれよれサラリーマンの姿もあっただろう。それらの顔を一つひとつ見るのはいかにも面倒臭いのだが、こういったディテールなしにリアルな生態はありえないようにも思われる。

実のところ、本書の功績は、そもそもこうした議論が成り立つための、ヒトの生態の「読み方」を実践してみせている点にある。まずは面倒臭くて複雑なヒトの生態をいったんユニットとして境界確定したうえで、構成要素(ヒト・環境・振る舞い)へと徹底的に解体することが肝要なのだ。本書の言葉を借りて言うならば、「そうすることによって、環境や習慣といった個には還元できない領域に、どうやったら個として関与していけるのかということを模索」(61頁)できるからである。この指摘は、建築に関わる人間はもちろんのこと、ヒトがより生きることのできる環境作りに参与したいすべての者にとって、極めて示唆的な見解である。本書は、こうした模索において建築の批評的知性が試されていると述べているが、まさにこの態度をこそ「生態学的批評性」と呼んでみたい。ヒトという生き物の面倒臭さのなかに可能性を読み取り、それを再配置すること。本書によって多くの人が生態学的な批評性に触れることを期待せずにはいられない。




★1──アラン・W・ウィッカー『生態学的心理学入門』(安藤延男訳、九州大学出版会、1994、1─7頁)。
★2──このような態度はすでにヘッケル自身に見出される。ヘッケルは、あらゆる有機物質に「心」があることを主張している。E・H・ヘッケル「綜合科学との関係における現代進化論について」(『ダーウィニズム論集』八杉龍一訳、岩波文庫、1994、特に138─139頁)。
★3──私見では、青木雄二は、今和次郎や赤瀬川原平など、極めて独自な生態観察と記録を行なった人物セリーのなかに含められる。青木の『ナニワ金融道』は、人間の顔のパターン化においても秀でているが、同時にどのような生態を持つ人間がどのような空間に生息するかに関して充実した図鑑にもなっている。たとえば風俗ビルの凝縮された内部空間やフラットでこちらに迫ってくるようなファサードは、コマ内の配置と大きさ、そしてスクリーン・トーンを使わずすべてを均質に書き込むという青木特有の表現方法によって見事に描写されている。



やなぎさわ・たみ
1973年生。南山大学人文学部准教授。哲学、生態学的観点からの人工物(アート、宗教)研究。編著書=『ディスポジション──配置としての世界』(現代企画室、2008)。論文=「宗教的経験と行為の動機付け──経験科学に基づく宗教研究の可能性」「キリスト教から読む大野一雄──魚釣りとしての人間」「地続きの思想──中井久夫、木村敏」など。 http://www.liv-well.org/index.php


200911

特集 アトリエ・ワン『空間の響き/響きの空間』刊行によせて


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