フォルムの氾濫の向こうに

吉良森子(建築家)
「今都内では、石上純也展(銀座資生堂ギャラリー)藤本壮介展(ワタリウム)も開催されていますが、どちらもフェリックスさんのテイストではないので、フェリックス★1さんは切れてしまうと思います」。私たちは日本に滞在するたびに知人の建築家から必見の展覧会を教えていただくのだが、今年9月上旬に帰国したとき森美術館の「ネーチャー・センス」展ギャラリー間の「デイヴィッド・アジャイ」展の情報とともにこんなメールをいただいた。数日後銀座をブラブラしていると資生堂ギャラリーはすぐそこだ。ここまで来たのなら、とパートナーのフェリックスも見てみたいと言う。さすが資生堂ギャラリー。若い学生さんたちだけでなく年齢層の高い女性もたくさん来場していてたいへんな熱気だ。愛らしくポエティックな模型やスケッチたちを見ながら、私は、ここまで来たか、と多少ならずともショックを受け、でも個人のフィーリングが建築表現としてシェアされるという日本的な現象は行くところまで行くしかないと腹をくくり、老婆心のスイッチを切って無邪気に楽しんでいたら、いつの間にかフェリックスの姿が消えている。やはり切れたか?とあわてて階段を上って外に出ると彼は交差点に立って空を見上げていた。恐る恐る、「で、どうだった?」と聞くと、唸るように「モンテッソーリ・スクール」とつぶやいた。

「モンテッソーリ・スクール」に馴染みのない方もおられると思う。一人ひとりの子どもの自由な発想と意思を大切にし、子どもが字を習いたいと言ったら習わせ、計算したいと言ったらさせるといった具合で、子どもの好奇心を刺激し、それぞれの個性を伸ばしながら教育をしていくという学校のシステムだ。この20数年、特にヨーロッパ北半分の国で非常に人気があり、オランダではどこの学区にもモンテッソーリの公立小・中学校がある。フェリックスはナイーヴな子どもの発想から建築を模索するかのような石上純也の展覧会に「モンテッソーリ」的なものを感じ取ったというわけだ。

フェリックスは、建築は都市というパブリックな空間とそこに暮らす人間の関係を表現する媒体だと確信する建築家だ。彼の作品からはその場所にその建物をつくることによってその中で暮らす人々とストリートの関係に意味・価値・形を与えようとしていることを強く感じる。そして表現の背後にあるのは、彼の、あるいは住民の個人的な記憶や感傷ではなく、都市とそれを構成する建築のタイポロジーへの意識だ。都市に集まって住み・暮らす歴史は不特定多数の人々の暮しを通して世界中でその文化特有の都市と建築の形式・タイポロジーを生み、展開してきた。フェリックスにとって建築を設計することはその共有された蓄積に対して今日の答えを出すことがであって、「モンテッソーリ」的に個人的なひらめきや感覚の妥当性を確信して、限りなくユニークなフォルムとスペースを展開しようとする行為は建築とはとても遠いところにある。だから彼は天を仰いで唸ったのだ。

現代性やイノヴェーションを究極に突き詰めていかに新しい建築のフォルムとエクスプレッションを生み出すかというレースが建築の、あるいは建築メディアの主流になって久しい。それは建築表現がグローバル化とともに大衆的なスペクタクル、あるいはファッションやプロダクトデザインのように個人的な嗜好・ライフスタイルを投影する消費財として一般化したということだろう。その結果「建築」は、果てしない「形の実験」とそのコンセプトの妥当性のストーリーという一側面のみが、消費財のマーケッティングツールのように強調されるようになった。そして、人々の暮らし、コミュニティ、山積みの社会の問題に直接関わり提案をしていくという消費の世界にはない建築の力を展開する場がどこにあるのか、そのディスカッションのプラットフォームが何なのか今はまったくのところよくわからない。

建築メディアにおけるフォルムの氾濫は世界的な潮流だ。この10年間の印刷メディアの苦戦の結果、ヨーロッパの建築雑誌における記事の文字数は劇的に減り、ヴィジュアルなインパクトが重視され、焦点は新興国の大規模なディヴェロップメントや大規模大開発に向き、コミュニティに近い地道なディスカッションは消えた。多くの建築雑誌は、一年中世界中を行脚して建築写真を撮り続けているドイツの建築写真家クリスチャン・リヒターの言うところの、「プリマドンナ」建築家の作品をいかに誰よりも早く掲載するか、をベースに、人目を引くプロジェクトの写真を掲載するグラビア誌になった。

このようなコンテクストで日本の建築はグローバルな建築の世界でひとつのジャンルを確立してきた。例えば、苦戦する伝統的な建築雑誌のなかで購買数を伸ばしてきた雑誌に『MARK』『A10』がある。両誌ともオランダをベースにしているが、前者は世界を、後者はヨーロッパをマーケットとする雑誌だ。毎号スペクタキュラーなプロジェクトが満載の『MARK』の編集者Arthur Wortmannに数年前に編集方針を聞いたことがある。「定期的に『MARK』のメールアドレスに送られてきたプロジェクトの写真をテーブルの上に並べて、ヴィジュアルに目立つ作品を選ぶんだよ、それ以上でもそれ以下でもない。日本のプロジェクトはエクストリームなプロジェクトが多いから日本のプロジェクトなしにこの雑誌は成り立たないかも」と。今では日本発のプロジェクトに刺激された韓国・中国・東欧の建築家の作品も増えてきた。「クリティックしない、ドキュメントする」のが編集方針だと6年前に『A10』を創刊した時、編集長のHans Ibelingsははっきりと言った。それはシニシズムではない。グローバルにものすごいスピードで変わっていく建築の世界のある種の定点観測は明快、フェアで有効な切り口だと彼は確信しているのだ。

このようなメディアを通して建築を学んだヨーロッパの若い建築家は建築の最も大切な、基本的な価値はヴィジュアルだということを知っている。それこそが楽しく、コンテンポラリーで、彼らに名声をもたらす可能性をもっている。それはもう幼少期の原風景のようなものだ。そして彼らの多くは感覚的に日本発の建築に反応し、共感している。石上純也の作品に対しても。「モンテッソーリ・スクール」に通わなくてもプライマリーでパーソナルな無邪気な感覚にアピールする建築は魅力的だ。「自分とその理解者のためのプライヴェートな巣の感覚」は、私自身も含めて、ノマドでインディヴィジュアルな現代人にとって拒絶し難く魅力的だ。それを思う存分展開し、建築化していくことに何ら異存はないし、ゴーアヘッドだ。でも、このナイーヴで内向きな空気とフォームの展開のみがこれからの建築の方向になってしまうのではないか、ということを私は率直に恐れている。これだけになったら建築はかなり一元的で、非理知的で、閉鎖的になってしまって、私はつまらないと思う。それに、今建築を勉強している何千という学生の皆さんの行く末はどうなるんだろう。

ところで、近年の印刷メディアの劇的な変化はもちろん建築雑誌に限ったことではない。新聞も一般雑誌も購買数をいかに伸ばし、コストを下げ、利益を上げ、株主を納得させることを目的とし、腰を据えて、長い目で社会的に有意義なテーマを掘り下げることができるようなメディアは稀になり、とにかくスピードとコスト管理に追われている。一国の人口がヨーロッパから見ると多く、かつプライヴェートな時間を削ってクオリティを生み出し続けようとする編集部によって支えられている日本の印刷媒体に比べるとオランダのように人口が少なく(1600万人)、仕事とプライヴェートが午後6時にきっかり分かれている国の印刷媒体は空恐ろしい状況にあり、コンテンツも、かつてオランダの誇りだったグラフィックもそのクオリティは目も当てられない状態だ。そして先進国の印刷メディアは基本的にすべて同じ状況にある。ヴィジュアル中心の建築文化を悲観する前に、ヒューマンによるヒューマンのための真摯な議論をする場として築きあげられた伝統的なメディアが急速に消失していこうとしていること、そしてそのような状況を引き起こした社会の状況と建築界のフォルムの氾濫は無縁ではないことを私は意識したいと思う。そしてこの状況をどう超えていくのか。フォルムだけではない建築の価値と今の世の中をどう結びつけていくのか、消費や資本の力に支配されているだけではない、ヒューマンな生活と建築の可能性はどこでどのように模索し、コミュニケーションしていったらよいのか。今はまだはっきり見えてはいないけれど、これらのことに心を砕いている人たちはすでにたくさんいる。

10月末に私たちはヴェネツィア・ビエンナーレを観に行った。金のライオン賞を受賞した、建築の限界を探求する石上純也さんの作品は残念なことにすでに倒壊していた。なんで直させてあげないんだ、とあきれ、建築の限界を追求して倒壊してしまうっていうのは冗談にならない、とフェリックスと顔を見合わせた。フォルムは消えてもその先に何か現われるのかもしれないと心を落ち着かせて、いつ行っても夢見心地のヴェネツィアの海を前に、もうこれは徹底的に飲むしかないなと思い、実行に移した次第だ。




★1──建築家Felix Claus。Claus en Kaan architecten主宰、吉良森子のパートナー。

きら・もりこ
1965年生まれ。moriko kira architect主宰。早稲田大学建築学科大学院卒業後、4年間ベン・ファン・ベルケル建築事務所勤務。2004年よりアムステルダム市美観委員会委員。ローマ賞基本賞ほか建築賞受賞。アムステルダム建築アカデミー、神戸芸術工科大学講師。日本建築学会建築雑誌編集委員。


201012

特集 石上純也──現代・日本・建築のすがた


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フォルムの氾濫の向こうに
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