「人を怪物にする」小さな社会
学校では、これまで縁のなかった同年齢の人々をひとまとめにして(学年制度)、強制出頭させ、強制収容する(義務教育)。さらに30〜40人を朝から夕方までひとつの狭い部屋にとじ込め、全生活を囲い込む(学級制度)。そのうえで、生徒が全人格的に関わらずには済まされぬよう、互いが互いの運命に大きく響いてくるよう、そして市民的自由の余地が残らぬよう、学校の集団生活の詳細は考え抜かれて設計されている。
学校では、一人ひとりの能力を無視した集団一斉学習、集団摂食、班活動、掃除などの不払い労働、雑用割り当て、学校行事、部活動、連帯責任、生徒らしい生徒である内面をどこまでも外形にあらわすための服装・身だしなみの些末な規制などが、きめ細かく強制される。さらに、学校は神聖なる教育の共同体と見なされ、法が入らない。大部分の犯罪は「教育」上の問題として扱われ、学校は無法地帯となる。
教育の名のもとに、学校という子ども限定の全体主義国のような「別の社会」が成立しており、それが日本社会にいきわたっている。このような「別の社会」となった閉鎖空間のなかで、外部の市民社会の秩序とは別の、生徒たち独自の残酷な小社会の秩序が発生し、大繁殖する。私たちはこのような学校制度を疑わず、あたりまえの社会通念としてきた。
さて、現代先進諸国でいきわたっている市民社会の秩序では、普遍的なルールがものごとの「是/非」を分かつ基点になっている。それは、人間関係をしくじると運命がどう転ぶかわからない恐怖から、人を自由にする。限られた普遍的ルールを守っていれば、他人の意向を気にせずに生きていけるからである。しかも、市民社会の秩序は、人間の尊厳を最高価値とし、法のもとに平等で自由な責任ある個人を前提とする。またそれは、広い社会を前提にした自由を促進する秩序でもある。
それに対して学校は、市民社会の秩序を好ましからざるものとして、内部に入れないようにする。そして無人島で少年たちが集団生活をするような閉鎖空間で、別の小さな社会が出現し、別の秩序が猛威をふるう。この秩序のなかでは、固有の「あたりまえ」(現実感覚)、「よい-わるい」(倫理秩序)、厳しい身分上下、政治的な権力構造などが生じる。
それは、「仲間うちの勢いづいた力が絶対」「その場の空気に合わせて盛り上がるノリは神聖にして侵すべからず」というタイプの秩序だ。共同生活のその場その場で付和雷同のままに動いていく「いま・ここ」のノリが、そのまま畏怖すべき規範の準拠点になり、絶対的な人倫の要となる。それに対して、「いま・ここ」の気持ちで響き合う頭越しに「人の命は尊い」とするような普遍性、つまり人間の尊厳や人権といった普遍的な理念は、彼らの共同社会においては「わるい」。
この小さな社会では、ノリながら遊ぶのであれば何でも許されるが、「みんなから浮いて」しまったら何をやっても許されない。一見傍若無人な空騒ぎをやりたい放題やっているかのように見える生徒のかたまりは、無秩序・無規範どころか、仲間うちの秩序にはいつくばって、卑屈に生きている。
このタイプの秩序を「群生秩序」と呼ぼう。
群生秩序のなかで、いじめ加害者グループは、「自分たちなり」の秩序感覚にのっとって、「あたりまえ」に「ただしく」、被害者を虫けら扱いして遊ぶ。いじめは、そのときそのとき「みんな」の気持ちが動いて生じた「よい」ことだ。彼らは被害者の悲痛と恥辱を、笑いさざめく祭りの玩具(祭具)とする。いじめで人が自殺や自殺未遂をしたときですら、生徒たちは喝采したり、堂々と「遊んだだけよ」と言ったりすることがある。それほどまでに、彼らは自分たちの小社会の秩序に大きな自信を持っている。またそれほどまでに、広い市民社会の秩序は、学校で集団生活を送る彼らの現実感覚のなかに存在していない。
ここで「遊んだだけ」と言うときの遊びは、自分たちのノリの秩序に従いながら、ノリを次々と生み出す重要な「自分たちなりの世界を生み出す」営為である。もちろん遊びは被害者の命よりも重い。仲間の遊びに逆らうことは絶対的な禁忌(タブー)であり、また遊びであればすべてが許される。
こういった「遊び」の流れに沿って、そのつど仲間うちの身分関係が動いていく。みんなの感情共振的なノリの秩序のなかで、誰がどのくらい存在感を持ってよいか、楽しげに存在してよいか、幸福そうに笑ってよいか、といった身分が厳格に定まる。
学校の集団生活の中で、市民社会の秩序はシャットアウトされ、群生秩序が蔓延し、人を虫けら扱いするような「あたりまえ」の現実感覚が蔓延する。学校で集団生活さえ送らなければ、生徒たちは群生秩序のなかで人を虫けら扱いするような怪物にはならなかった。つまり、私たちが「あたりまえ」と思っている学校の集団生活のなかに、人を怪物にし、怪物であり続けさせるメカニズムが埋め込まれている。暗く暖かく湿った風通しの悪い地下室がカビを大繁殖させるように、学校は、群生秩序を極端に増殖させる絶好の環境条件となっている。この群生秩序が人を怪物に変える。
制度政策的な改革案
それではどうすればよいのだろうか。
群生秩序を蔓延させる現行の教育制度を廃し、市民社会の秩序にもとづく新しい教育制度を構築する必要がある。この改革は、いじめを減らすという目標だけでなく、「目指すべき望ましい社会は何か」という社会構想にも埋め込まれている。
閉鎖空間で一日中ベタベタ共同生活することを強いる現行学校制度は、全国民の初期学習を通じて社会の隅々に群生秩序をまき散らし、市民社会のムラ化を引き起こしてきた。これは70年前に必敗の戦争を強行した軍のムラ、現在の原発事故を引き起こした原子力ムラともつながっている。日本を、ムラに支配される社会から成熟した市民社会に脱皮させるためにも、以下のような根本的な教育制度改革が必要だ。
国や地方公共団体がバックアップするタイプの教育(公教育)の最小単位を、従来の学校から、より小さな学習(技能習得も含む)支援団体と市民クラブに変更する。そして、人々は国や地方公共団体から支給される教育バウチャーを用いて、それら学習支援団体や市民クラブを自由に選択する。さらにこれを生涯学習とし、子どもを含めた多様な年齢層の人々がいっしょに学習したり、市民クラブを楽しんだりできるようにする。評価と学習支援を分離し、評価は国家試験や専門団体試験によって行う。
今すぐ容易に実行できるものとして、学校の法化(暴力犯罪には司法機関で対処)と、学級制度の廃止について述べよう。
まず、学校の法化から説明しよう。加害者が生徒であれ教員であれ、暴力に対しては司法を呼び出すのがあたりまえの場所であれば、「これ以上やると警察だ」の一言で、暴力系のいじめは確実に止まる。それには二つの理由がある。
まず、利害計算の値が大きく変わるからである。よくも悪しくも、いじめ加害者たちは被害者を虫けらとしか思っておらず、この虫けらのために自分が大損をしてまでいじめ続けようということはない。いじめは基本的に「やっても大丈夫」「やった方がむしろ得をする」という利害構造に支えられて蔓延する。
もう一つの理由は、法が「自分たちは今どの〈世界〉を生きているのか」に関する現実感覚を切り替える強力なスイッチの働きをするからだ。法執行機関が目の前に迫ってきたり、あるいは「警察を呼ぶ」「告訴する」「あなたの行為は刑法○○条に触れている」といった法の言葉が発せられたりするだけで、現実感覚が、教育の共同体の群生秩序モードから、市民社会の秩序のモードへと瞬時に切り替わる。「キレ」たり大騒ぎしたりしながら集団生活にふけることが「生きることのすべて」となる教育の共同体では、何を言われようと残酷ないじめを繰り返すモンスターたちが、市民社会の論理に貫かれた「普通の場所」では、おとなしい小市民に変わる。
次に、学級制度の廃止について述べよう。コミュニケーション操作系のいじめの問題の核心は、その内容にあるのではなく、心理的距離を調節する自由を奪い、狭すぎる生活空間でベタベタすることを強制する生活空間の有害な効果にある。
広い交際圏で自由に対人距離を調節できる人は、コミュニケーション操作系のいじめだけで被害者が非常に苦しみ、ときには自殺にさえ至ることを、「なんでこんなことぐらいで」と不思議に思う。開かれた社会では、コミュニケーション操作系のいじめは、それを不快に感じる側が自由に「ひく」ことによって、大きなダメージに至る前の段階で効力を失い終熄する。いやがらせをする側は、それ以上相手を追うことができない。つまり「つきあってもらう」ことができない。
しかし学校では、誰と生々しいつきあいをし、誰と冷淡なつきあいをするかを自己決定できなくなる。心理的な距離の私的な調節は実質的に禁止される。生徒は学校に軟禁され、グループ活動に強制動員され、いじめや生活指導で脅されながら、親密な「こころ」をこじりだして群れにあけわたす「こころ」の労働(奴隷的な精神的売春)を強制される。自分で友を選択し、距離を試行錯誤する積み重ねから親しみがわいてくる以前に、強制的にベタベタさせられて、「なかよくしていないと不安」だから必死で「なかよく」する、瞬時の反応習性をたたき込まれる。
このような生活環境によって、個としての心理的距離を調節する心理システムが失調をきたす。「悪意の友だち」との心理的な距離感覚がわけのわからないものになり、どういう言動に対してどの程度の大きさの感情的苦痛や外傷を受けるかという、心理的調節メカニズムが破壊される。これによって、広い交際圏で自由に対人距離を調節できる人にとっては痛くもかゆくもないような悪口や無視が、地獄に突き落とされるような苦しみになる。
個としての一貫した親密性をはぐくむ能力も破壊される。そしてしばしば、本当は誰が好きで、誰がなぜ憎いのかわからなくなり、その情動判断の座を自己から群れの勢いに明け渡すようになる。数分前に「なかよく」していた「友だち」が「みんな」からうとまれはじめると、半分は保身から、半分はそれがうつって本当に「いじわるな気持ち」になってしまう。
こういう生活環境のなかで、いじめ被害者はよく、加害者に対して「なかよくできなくてごめんなさい」と泣く。そして、自分を痛めつけて楽しんでいる「友だち」に「なかよくしてもらおう」と必死になる。自分を迫害し、信頼を裏切る悪意の「友だち」との関係で苦しむとき、より美しい関係を求めて「友だち」を代えるのではなく、自分自身の「こころ」の方を友だちに合わせて変えようとする。
コミュニケーション操作系のいじめは、ときに「芸術作品」といってもいいほど悪質に考え抜かれていることがある。しかし、その驚くべき複雑性とは反対に、有効な対策はきわめて単純である。コミュニケーション操作系のいじめには、狭い閉鎖的な生活圏では被害者を苦しめる性能が大きくなり、広い開放的な生活圏ではそれが小さくなるという決定的な特徴がある。交際に関する広い選択肢と十分なアクセス可能性を有する広い生活圏であればあるほど、コミュニケーション操作で人を苦しめようとする者は、そのコミュニケーションがじわじわ効いて相手が被害者になるよりも前に、単純明快につきあってもらえなくなる。生活空間を広くするだけで、コミュニケーション操作系のいじめは効力を無化あるいは激減させられてしまう。つまりいじめが成立しなくなってしまう。
「生きられる空間」のデザイン
以上、学校制度がもたらす閉域で群生秩序が蔓延するメカニズムと、それに対する対策の骨子を示した。その内容について詳しくは、拙著『いじめの構造』(講談社現代新書)、学術書としては『いじめの社会理論』(柏書房)を参照されたい。
これを「生きられる空間」という観点からみてみると、都市計画や建築設計に対してもなにがしかの貢献ができるかもしれない。
まず、都市計画や建築設計は主役ではないことを前提にする必要がある。現在の学校制度を変えずに、物質的な設計だけで事態を改善することはとうていできない。あくまでもそれは脇役である。しかし脇役としての都市計画や建築設計は重要だ。
さて、「生きられる空間」は、物理的空間とは異なる。たとえば、同じ鉄道や道路や建物などの配置の地図で表現される街であっても、自家用車で通勤する成人、バスと電車を使う老人、自転車で近隣をうろちょろしている少年、小学校で集団登校している小児、母親と手をつないで歩いている幼児などにとって、まったく異なる「生きられる空間」がさまざまに開かれ、一刻一刻固有の生が生きられている。とはいっても、それらは単に現象学的な「現れるがまま」に受け取られるべきものではなく、鉄道や道路や商店や病院などを通じて、がっちりと物質的な枠に埋め込まれて存立している。そして、都市計画や建築設計は、そのような生きられる領域と物質の領域とをつなげるアートとしての側面を有する。
そのような意味で、閉鎖的な聖域ではない市民的な学習支援の場にふさわしい建物や庭の設計、都市計画上の配置があるであろう。筆者が提案する制度改革は、これまでの兵営的な学校建築とは別の物質的空間設計にフィットしているだろう。また、学級制度を廃したなかで、開かれた生活空間が一人ひとりの生にとって開かれる自由を、さらに物質的に支援するような、ノンヒューマン環境としての庭や建物やその内部の設計があるであろう。
その具体的詳細は、また別の専門家の領分であろう。筆者は方向性を示すだけにとどめ、ここで筆を擱くこととしたい。