「リノベーション的視点」の嚆矢

難波和彦(建築家)

吉良森子さんに初めてお会いしたのは1999年のアムステルダムである。当時『SD』誌の編集部からオランダに派遣されていた寺田真理子さん(現在はYGSA所属)と一緒だった。ちょうど伊東豊雄さんがベルラーへ・インスティテュートで教えおり、ドイツ国境に近いアーヘン工科大学で伊東豊雄さんの「Blurring Architecture」展を開催していたので足を伸ばしたことを記憶している。その後、2003年に東京大学で教え始めてから、最初の卒業生のインターンシップを吉良さんの事務所にお願いした。吉良さんの仕事については、彼から断片的に伝え聞いたことはあったが、本書によって建築観を含めた吉良さんの仕事の全貌を初めて知ることができたように思う。

本書を手に取ってまず驚いたのは、写真や図版と文章との比率である。建築家の考え方をまとめた一種の作品集であるにもかかわらず文章の量がかなり多いというのが第一印象だった。「現代建築家コンセプトシリーズ」の第14巻で、このシリーズの本は何冊か僕の手元にあるが、どれも写真や図版を中心としゆったりと余白をとったレイアウトで、文章の量はそれほど多くない。作品を通して建築家としてのコンセプトを伝えようとすれば、そのような構成になるのは当然だろう。これに対して、本書では比較的小さなカットの写真と長めの文章によってすべてのページがキッチリと隙間なく埋められ、見開きの大きな写真はたった3枚しかない。要するにきわめて中身の濃い説明的な編集なのである。なぜこのような構成になったのだろうか。本書を読み込んで行くと、このようなレイアウトが、吉良さんの一連の仕事の必然的な帰結であることがわかってくる。 紹介されている一連の作品は、いずれもディテールがカッチリと納められ、完成度の高い建築であることは、掲載された写真や図版から直ちに見て取れる。しかしこれらの写真や図版から吉良さん自身の一貫した建築的なコンセプトやテーマのようなものを読み取ることは難しい。むしろそれぞれの作品は、その場その場の個別的なコンセプトとテーマに基づいてデザインされているように見える。吉良さん自身が「オブジェ的なデザインは苦手です」と言っていることからもわかるように、建築デザインに対する吉良さんのスタンスは、明らかに「コンセプト」よりも「コンテクスト」優先である。クライアントに対してはもちろん、与えられたプログラムや既存条件との対話的なスタンスによるデザインと言ってもよい。この点に少なくとも日本ではあまり例のない吉良さんの特異性を見ることができる。僕の考えでは、それは建築表現にストレートに表われるような分りやすいコンセプトではなく、それよりもロジカルタイプが一次元高い、方法レベルのコンセプトではないかと思う。
吉良さんの作品は、クライアントの社会的な立場や価値観、仕事が依頼された経緯や理由、敷地の地理的・都市的な条件など、背景にある個別的な前提条件の分析とデザインプロセス、すなわちコンテクストを説明しなければ理解することができない。したがって本書の構成はデザインに対する吉良さんのスタンスの必然的な帰結と言ってよいのである。
本来ならば、すべての建築がそのような条件とプロセスのもとで生み出されるはずである。しかし多くの建築家は、自己のコンセプトを優先し、それに基づいて条件を整理しようとする。仮説としてのコンセプトが先行しなければ、コンテクストとの検証もありえないというのが正統的なデザインの論理である。しかしそれとは逆に、コンテクストからコンセプトを引き出そうとするのが吉良さんのやり方である。このような方法は、かつてはコンテクスチュアリズムと呼ばれたが、僕はもっとストレートに「リノベーション的視点」と呼んでみたい。
かつて僕は『リノベーション・スタディーズ──第三の方法』(五十嵐太郎編、10+1 Series、LIXIL出版、2003)の書評にこう書いた。

──本書を読んでいると、リノベーションとは、単に社会的・都市的問題に対する対症療法ではなく、もっと根本的な、物事を計画し製作する際のスタンスの変化を示しているように思えてくる。一言で言うなら、それは既にあるものを微細に観察すること、すなわち「注視」から出発する態度である。確かに通常の設計やデザインにおいても、設計条件を詳細に検討することは重要な作業である。しかし重点はあくまで「何をつくるか」にあり、設計条件の検討はそのための手段に過ぎない。一方、リノベーションにおいては、むしろ既存条件の注視が大きな比重を占める。最終的にでき上がるものは、既存条件との対話の結果であり、単一な「何か」ではない。したがってリノベーションにおいては、歴史的な視点が決定的な重要性を持つようになる。既存の建築や都市がどのような経緯でそこに存在しているかを知ることは、今後それをどのように変えていくかを知るための重要な条件になるからである。このようなスタンスを突きつめていくと、いわゆる建築的リノベーションにとどまらず、すべての事象をリノベーションとして見る「リノベーション的視点」のようなものが生じてくる。(「リノベーションは『注視』から出発する」『建築文化』2003年8月号)


この主張は吉良さんの仕事にそのまま当てはまると思う。僕はそれを新しい世代の建築家のスタンスの可能性として提唱したのだが、吉良さんの仕事を見て「リノベーション的視点」を体現した本格的な建築家が出現したことを確信したのである。
確かに日本にも同じような視点を持つ建築家は多い。しかしリノベーション的視点によって質の高い建築を実現している建築家は少ない。『リノベーション・スタディーズ』の続編である『リノベーションの現場──協働で広げるアイデアとプロジェクト戦略』(五十嵐太郎+リノベーションスタディーズ編、彰国社、2005)を見るとそれがよくわかる。リノベーション的視点は具体的なデザイン作業に入る前に、膨大な調査とそれに並行してクライアントをはじめとするステークホールダーとの緊密な人間関係の構築を必要とする。このためほとんどの建築家はその段階でエネルギーを使い果たしてしまい「建築」にまで届いていない。リノベーション的視点を貫徹するには、通常のデザイン以上に持続的なエネルギーを必要とするのである。建築をつくることが果たして最終目的なのかと問われれば、確かにもっと重要なこと──たとえばコミュニティの構築──があるかもしれない。しかしそちらを選ぶのは建築家ではない。建築家にとってリノベーション的視点は目的ではない。新しい建築を生み出すためのいままで以上に高度な手段なのである。

実のところ、本書に掲載された7点余の作品のなかで本格的なリノベーションは「レモンストラント教会の再生」と「シーボルトハウス」の2つだけで、それ以外の作品は新築である。しかし新築であっても吉良さんのスタンスは「リノベーション的視点」で貫徹されている。それはオランダの仕事だけでなく「柿の木坂のケーキ屋さん」のような日本の仕事においても変わらない。
本書の最後辺りで、吉良さんはこう述懐している。

──私はもともとオブジェとしての建物の形に興味がなかったので、リノベーションプロジェクトから仕事を始めることができたのは幸運だったと思う。建物の形のことは心配しなくてよかったし、限られた要素を操作することからさまざまな可能性が生まれて、まったく違う建物に変えてしまうことができるということも学んだ。(吉良森子『これまで と これから』p.152)


あるいは逆に、こうも言っている。

──アーバンデザインありき、町並み重視のヨーロッパの設計はむしろファサードありきのプロジェクトが多く、内側からつくっていって都市と対話するという設計が成り立たないことが多い。スタンダードな平面なのにコンテクストありきでさまざまなファサードをデザインする力が求められるのだ。私は冷や汗をかきながらそういうプロジェクトは「切り抜けている」。そういう意味ではオランダで独立したのは失敗だったのかもしれないが、結果的にはそのことで自分自身の視点や切り口をはっきりと意識するようになったし、内部空間の質を重視する設計を評価してくれる人もいる。(同書、p.156)


プロテスタント的な合理主義と個人主義にもとづく民主主義の思想が浸透したオランダは、もっとも先進的な建築を受け入れやすい国である。同時にヨーロッパ諸国のなかでは、戦後から現在に至るまで建築の工業生産化を引き継いでいる唯一の国であり、建設技術の面では日本に一番近い国と言ってもよいかもしれない。さらに吉良さんも指摘しているように、1980年以降に世界中に拡大した新自由主義的な住宅政策への転換が、吉良さんのような国際的な建築家の活動の場を拡大したようにも思われる。そういった複雑な時代的条件を含めて、吉良さんの一見矛盾した二つの発言に、僕たちが学ぶべき重要なポイントがあるように思う。


難波和彦(なんば・かずひこ)
1947年生まれ。建築家。東京大学名誉教授。(株)難波和彦・界工作舍主宰。作品=《なおび幼稚園》「箱の家」シリーズほか。著書=『建築的無意識 ──テクノロジーと身体感覚』『戦後モダニズム建築の極北──池辺陽試論』『建築の四層構造──サステイナブル・デザインをめぐる思考』ほか。http://www.kai-workshop.com/


201305

特集 吉良森子『これまで と これから 建築をさがして』 刊行記念特集


刊行記念トークショー 第1部:「これまで」を振り返って
刊行記念トークショー 第2部:建築の場所/建築家の場所
吉良のように言葉をもて
「リノベーション的視点」の嚆矢
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