東京で一番住みたい街、吉祥寺──街の魅力とジェントリフィケーションをめぐって

新雅史(社会学者)×笠置秀紀(建築家、都市研究)

吉祥寺の変遷

新──笠置さんは、吉祥寺の転換点を2005年に見ていますが、そのあたりをもう少し議論するために、笠置さんの吉祥寺の記憶を少しお話しいただければと思います。笠置さんは1975年生まれですが、1970〜80年代にかけて、どのように吉祥寺に資本が入っていき、どう街が変わっていったのでしょうか。また、笠置さんが小さかった頃の吉祥寺の風景はいまどのように残存しているのでしょうか。

笠置──ひとつ挙げるとすれば、1980年代の「平和通り商店会」の再開発があるかもしれません。一連の再開発計画の最後の大きなインフラ整備として、あの駅前の道路拡幅が位置づけられていたと思います。それまでの駅前は傷痍軍人がいたり、卵だけを売っている卵屋さんなどがあったりもしました。再開発によって「サンロード」を通っていたバスが廃止になり、北側の駅前の東西を走る道が通ったわけです。そこで、卵屋のようななりわいがなくなっていったと思います。その頃は、1980年に「パルコ」ができて、みんなが浮かれていたような気がしますし、今のような危機的な感じはずっとありませんでした。百貨店は、今は「東急」しか残っていません。「近鉄」も「伊勢丹」もありませんし、「マルイ」にも「ユザワヤ」が入って、いわゆる華やかな百貨店はここ数年でなくなっていきましたね。

新──かつて1970年代までは、駅前にも住民が日常的に消費する場が残っていて、人びとの生活とつながったなりわいが駅近辺にあったけれど、1983年代の駅前再開発で根本的に変わったということですね。たしかにわたしが知っている吉祥寺は、下北沢などとは違って、生活が垣間見える場所ではありませんね。以前の吉祥寺は、JRの駅改札の間近にいきなり「ロンロン」のようなモロに「生活世界」の風景がひろがっていました。ですが、駅ビルの外へ出てしまうと、日用品を買う場所ではありませんでした。下北沢の方が、住む街であり、日常的な街のイメージがあります。いまは「ロンロン」もなくなり、吉祥寺から生活の側面が見えなくなったように思います。

笠置──高山英華の都市計画の影響は大きいと思います。グリッドで街区を計画し、百貨店を周縁に配置しながら、ビル同士をペデストリアンデッキで結ぶ計画です。吉祥寺にはそういった「計画」が1970年代に押し寄せてきました。下北沢ではあまり計画が見えません。地形を見ても、かつては普通の農園だったことがわかりますよね。一方、吉祥寺は平地を生かした新田として開発されたグリッド状の街で、都市計画とフィットしていました。そして、都市計画とそれへの反対運動がぶつかり合うことで、おもしろさも現れていたと思います。さらに、その上に商業的な要素も入り込んでいます。高山英華の都市計画然としたグリッドと、商業の論理が混ざっているわけです。

高山英華による計画案
引用出典=『吉祥寺と周辺寸描!!鈴木育男写真作品集(第2集)』

新──たしかに、吉祥寺は、極小の敷地の集合である高円寺的エリアと、都市計画によって整序された街区で巨大な商業施設が立地する立川的エリアが混在していると言えます。つまり、大規模な商業ビルでニーズを満たしたい人と、小規模の個人的な商店で特殊なニーズを満たしたい人が両方いる街といえるでしょう。かつ、誰もが求める緑があるわけですから、中央線沿線のみならず、大抵の人が街に求めるものが揃っていると言えます。しかし、全方位的といいますか、多くの人の需要を満たす場所というのは、かえって「吉祥寺らしさとは何か」という問いを浮かび上がらせます。


201307

特集 都市的なものの変容──場所・街区・ジェントリフィケーション


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