「ブラジルでFIFAのブレザーなんて着たがるヤツはいない。殴り倒されるからだ」──2020年東京オリンピックにむけての現状とその概観
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2020年オリンピック開催地は東京に決まった。もともと候補地として最有力視されていたのはイスタンブールであるが、それが誘致レースから脱落し、選考日直前に、マドリッドと東京が浮上してきた文脈には、いうまでもなく、今年のイスタンブールにおける騒乱がある。 しかし、それだけではなく、世界へと視野を拡げてみるならば、今年は、オリンピック、あるいはメガ・スポーツ・イヴェントをめぐって異変が顕著に起きていることが直感される。とりわけ眼につくのは、2014年にワールドカップ、2016年にリオでのオリンピック開催をひかえているブラジルである。
ブラジルでは今年の6月なかばから、公共交通機関の値上げが、1985年に独裁政権を終わらせた民衆蜂起以来の大規模な蜂起の波をまねきよせた。興味をひくのは、この値上げが「わずか」であったことである。その「わずか」の大きさをよく理解することのなかった当局側は、デモの規模に見合わないという不平をもたらしたが、そのわずかなほころびは、うずまいていた濁流を決壊させるには十分であった。決壊した奔流のなかで、要求項目は次々と拡大した。とりわけそれは、ヘルスケアや教育をはじめとする公共政策、社会政策の貧困と政府当局の腐敗にむけられた。そして、そのリーチは、2014年にリオ・デ・ジャネイロで開催予定のワールドカップにまでおよび、開催中のFIFAのコンフェデレーションズカップでは、試合中のスタジアムの外では抗議行動ははげしく警官隊と衝突した。この期におよんで、ブラジルの民衆蜂起は「サッカー暴動」とも名ざされる。
スペインとブラジルは決勝で対戦し、FIFAの役員はそのためにブラジルに結集していたが、かれらを出迎えたのは、世界一のサッカー狂たちの、強烈な反FIFA感情とその表現であるはげしい抗議行動だった。「ブラジルでFIFAのブレザーなんて着たがるヤツはいない。殴り倒されるからだ」と、あるイギリス人ジャーナリストはブラジルにみなぎる空気を表現している★1。
リオW杯は、そもそも、当初予算においても2006年ドイツ大会のほとんど3倍近くもかかっているが、その後も膨らみつづけている。このような膨大なコストと、それがもたらすブラジル社会の分極化の加速、さらに、開発にともなう貧困層の強制排除──2012年2月の時点でリオではおよそ1万5千人の住民が退去をせまられている──、手の届かない高額なチケットなどが、このFIFAと政府当局への怒りの根底にある★2。FIFAは開催の条件として税の免除ときびしい商業ルール──日本でも、今回の場合、「オリンピック」「五輪」という文字やマークが商標登録されていることを受け、小商店や商店街が自主的に記念セールを行なったりすることができないように──を押しつけることができ、それが、オリンピックの「経済効果」の幻想に万人をも巻き込むことができない、つまり、しょせん一部の連中を潤すお祭りとはじめから見積もらせる一因となっている(そのようなFIFAを「国家のなかの国家」としてはげしく批判をつづけているのが、かつてのW杯の英雄ロマーリオである)。
今回、2020年のオリンピック開催地としてもっとも有力視されつつも敗退したイスタンブールはどうだろうか。イスタンブールのオリンピック誘致敗退の最大の原因が、今年の5月終わりに火のついた大規模な民衆蜂起であることは間違いない。きっかけはイスタンブールの長い歴史をもつタクシム広場に近接するゲジ公園の再開発プロジェクトであり、公園をショッピングモールに変え、広場に歴史的建造物を再建し商業施設にするというものであった。イスタンブール市民の憩いと、再開発によって失われる都市の緑地を守れ、という要求によって、わずか50名の環境活動家によってはじまった抗議行動は、またたくまに拡がり、オキュパイ・ゲジという戦術へと展開し、また争点も拡大し、すくなくとも延べ250万のイスタンブール住民の参加する大規模な民衆蜂起に発展した。当局は強硬姿勢を崩さず、警官隊によるはげしい弾圧にみまわれた。
イスタンブールは、公正発展党のレジェップ・タイイップ・エルドアン首相のもとで、大規模再開発のただなかにあり、それはトルコに経済的成長をもたらす一方で、エルドアンは財界、メディアらとの一体化をすすめ、表現の自由や集会の自由に制限をかけ、イスラム色の強い教育プログラムを導入するなど、ネオリベラルとイスラム専制主義の結合といった指向性をもつ権威主義的体制を着々と構築していた。したがって、争点は、ネオリベラルな都市再編への反対とエルドアンの権威主義体制への批判といった、2つの軸に沿いながら──それに警察の弾圧への反対──拡大していったおもむきがある。
そうしたなかでの今年の民衆蜂起は、中心グループの当初掲げた要求項目「公共空間、海岸、水、森、川、公園、都市のシンボルを私営会社、大企業、投資家に売り渡さないこと」に典型的にあらわれるように★3、ネオリベラル的再開発に対抗するという意味合いの強い要素をもち、オリンピックがこの「エルドアンの狂気のプロジェクト」とも言われる大規模再開発のうちの一端を占めていることは、のちに触れるが、強い批判の一端がオリンピックむけに計画された第三大橋にむけられていることひとつをとってもあきらかである。
マドリッドはどうか。スペインではそもそもオリンピックへの世論の抵抗はきわめて強かった。スペイン各紙での世論調査をみると、ばらつきはあるが、およそ8割が反対であるという結果がでている★4。7月にはマドリッドで大規模な、大統領のスキャンダルをきっかけにした反政府抗議行動が行なわれており、その際すでに、こうした抗議行動がイスタンブールと同様に、オリンピック招致にもたらす暗雲は報じられていた★5。そして、この機運が、ニューヨークのオキュパイ運動に直接の影響をあたえた、2011年からはじまる「反資本主義」運動の波に位置する15M運動の延長にあることはまちがいない。たとえば、ブエノスアイレスの期間における、目立った抗議行動として、街灯にのぼった男がある。ここで興味を引くのは、それが15M運動の流れをひく、強制退去に反対する活動家であることである★6。
開催決定の直前に東京を予想していたある記事が、その東京である予想の根拠をしめしている。それが会期中にプロテストに見舞われないであろう安全な場所、ということだが★7、それだけではないにしても妥当な ひとつの見方だろう。この記事では、IOCの懸念しているように思われる問題点のリストに福島の放射能汚染の問題は挙がっていない。IOCの懸念は、放射能汚染によるアスリートの健康被害よりは、オリンピックへの、あるいはオリンピック時の抗議行動である、ということは十分に想像がつく。
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以上、3都市のケースから感じとることのできるひとつの仮説は、いまや世界において、スポーツのメガ・イヴェントは、民衆の抗議のうねりに巻き込まれて、開催へとこぎつけることが、あるいは、開催しても平和裏のうちの見せかけのもとに行なうことが困難になってきてのではないか、ということだ。今年6月、燃えるブラジルのただなかにあって、ロイター通信は「ブラジルの暴動はメガ・スポーツ・イヴェントに疑問をつきつける」と題した記事を配信している★8。記事では現在のブラジルの情勢を「FIFAとW杯の歴史にとっての分水嶺」と位置づけ、開催にとどまらず招致のコストまでうなぎのぼりの現状によって、W杯やオリンピックは、都市が立候補する気力を挫いていると報告する。あるスポーツマーケティングの研究者は、「おなじ少数の国がくり返しイヴェントを開催する」いわば「産業集中」が起これば、「公共性やスポーツの民主主義にとっては好ましくない」とし、「近年のグローバル経済の下降が、メガ・スポーツ・イヴェントは手の届かないところで膨張する代物だ、という人々の感覚を強化している」という。
また、記事が挙げるのは、今年の5月にベルリンで開催された、スポーツ大臣を集め、W杯、チャンピオンシップ、夏季、冬季オリンピックなどのメガ・イヴェントのあり方について憂慮を示す宣言が発表されたユネスコの会合である。その宣言では、多くの巨大なスタジアムがイヴェント開催後に財政的にもたないことが指摘され、ホスト国への高まる要求が、大スポーツ・イヴェント開催への意欲を減退させ、特定の国を立候補から排除させる危険があると警告している。
こうして、メガ・スポーツ・イヴェントについて、都市住民の抵抗がたかまるのに対応して、支配サイドにおいても危機感がたかまっているのがわかる。
そうした動向のひとつのブレイクといえるのは、昨年のUEFA(欧州サッカー連盟)の決定だろう。UEFAは、2020年のヨーロッパ・チャンピオンシップ開催に3件の応募しかなかったことから、13の都市で分割して開催し、各都市で3、4の試合を開くことに決定した★9。この動きは、状況次第では、オリンピックやW杯も追随する道になるかもしれない。 しかし、ここでは、このように支配サイドを動揺させている、抗議行動の動向にさらに注目してみよう。経済の一時の下降が人々のメガ・イヴェントからの疎外意識を強化している、という指摘にわれわれは満足することはできないからだ。
先ほど、スポーツのメガ・イヴェントが民衆の抗議のうねりに巻き込まれると述べたが、オリンピックでその印象をあたえる最近の事例は、2010年、ヴァンクーバーの冬季オリンピックである。オリンピックの開催中、街は抗議の波によって覆われ、催涙ガスが飛び、商店街のガラスが割れていた。それは、当時の印象は、若い世代を中心とした抗議者の構成も、戦術からも、物議をかもしたブラック・ブロック(今年のブラジルでも活躍している)の動きからも、1999年シアトル以来の反グローバリゼーション運動の延長上にあるというものであるが、そこでの焦点は、環境破壊、ホームレス排除、そしてセキュリティの強化などであった。その時点から考えるならば、いま、オリンピックやW杯を巻き込んでいるのは、アラブの春、15M運動、オキュパイを経て、より大衆化して拡がりを帯び、ヴァージョンアップした民衆蜂起の波動であるといえる。たしかに、ブラジルやイスタンブールで起きている事態で特徴的であるのは、オリンピック、W杯そのものに対するというより、オリンピックやW杯のようなスポーツのメガ・イヴェントをそのひとつの部品とする装置総体が攻撃に遭い、それにイヴェントが必然的に巻き込まれるというところにある。
先ほど、一時の経済的下降が、人々のメガ・スポーツ・イヴェントが手に負えないという意識を強化しているのではないか、という研究者の指摘を紹介したが、それについては、とりわけイスタンブールの事例から疑念を呈することができる。というのも、イスタンブール、というよりトルコは、おなじく民衆蜂起にさらされている、たとえばスペインやギリシアのような他のEU諸国とは異なり、近年、およそ年10%の経済成長を記録していた、「模範的」な国である。したがって、トルコの事例は、他のEU諸国に見出しうる緊縮政策のもたらす「反資本主義的」動向とは異なり、むしろ、世界の「反資本主義的」動きを現在のグローバル資本主義そのものと相関させてみるよう迫るものである。
アンリ・ルフェーヴルの「都市への権利」という概念が、この間のイスタンブールの動きのなかで頻繁にあらわれるのは、そのひとつの徴候であるように思われる。その動向の反響として、ブラジルの民衆行動について、たとえば『New Republic』は「ブラジルの抗議行動は実質的には都市への権利にまつわるものだ」と題した今年の6月13日付記事で、イスタンブールとブラジルの動きの共振を「都市への権利」の要求という点に見出している★10。この記事では、ブラジルをフィールドとするバークリーの人類学者が談話を残しているのだが、要点は、このブラジルの蜂起は、ブラジルという巨大国家で進行しているとめどもない都市化を文脈として、そこで生じている都市生活の質への要求、参加への要求、すなわち都市への権利についてのものだということである。
この記事の着想は、より自覚的に「都市への権利」がスローガンとして用いられているイスタンブールにある。タクシム広場での抗議行動についての記述で、その発端をThe Right to the City連合が主導したというものに出会ったりするが、筆者はその連合体について現時点でさほど知識がない★11。ただ、すでに数年前から、大規模な都市再開発、ジェントリフィケーション、強制排除に反対するNGOや市民運動、研究者などの連合が形成され、タクシム広場で会合を開いていることはウェブでの情報からわかる。また、2011年の研究論文は、それまでのトルコの都市運動の文脈で、「都市への権利」がさまざまに論じられ、鍛えられてきたこともわかる★12。
タクシム広場の民衆蜂起は、したがって、突発した出来事ではなく、すでに蓄積のあったところで発火したものだった。発端となった公園の再開発案は、再開発が都市中心部に迫り、この歴史的記憶に残る公園にまで手を伸ばしたときに爆発したのである。 トップダウンの都市開発によって、たとえば、オリンピックにむけて交通条件緩和を名目に計画されたイスタンブールのヨーロッパ側とアジア側を東西に分断するボスポラス海峡を架橋する第三大橋の建設やイスタンブール運河の建設のような、大規模プロジェクト。先ほど挙げた連合のウェブサイトによれば、それらのプロジェクトは、「グローバル都市アプローチ」を採っているという点で問題視されている。
グローバル都市アプローチとは、そこでの意味づけによれば、投資家を誘致するためには、遠慮なく人権や環境権を無視し、歴史ある住宅区から住民を追いだす(追いだされた住民は遠いエリアへと移動をしいられる)というものである。それだけでなく、イスタンブールでは、不法建築の総称であるゲジェコンドゥ(gecekondus)の、住民に所有権を付与することを通じたネオリベラルな手法による度重なる退去など、歴史的貧困地区のクリアランスが、たびたび抵抗を受け、そうした積み重ねが「都市への権利」というコンセプトとまじわりながら、都市運動をかたちづくっている★13。それと、つけ加えておかねばならないが、トルコは2010年に原子力プラントの導入を決め、黒海沿岸にいまや着々と日本との提携のもとに原発建設をすすめている。そのような原子力発電導入への抵抗が、同地域でのダム建設への反対運動とあいまって、今回の前哨戦の一端を形成していたと言われている。
こうしてみれば、イスタンブールの蜂起は、オースマンのパリ改造のあとのパリコミューンのように、あるいは、ロバート・モーゼスのニューヨーク改造のあとのジェイン・ジェイコブズたちのように、住民による都市の奪回の衝動を抱えていることがみえてくる。都市の剥奪のネオリベラリズム版に対する動きであり、それはグローバル経済の動向に対応して、国際的な波及力をもち、争点を拡げつづけている。
こうしてみれば、イスタンブールの蜂起が、オリンピックを巻き込んでいるのは必然であり、最近の事例は、メガ・スポーツ・イヴェントが、都市住民の幻想を獲得するのに失敗しているという冷厳な事実である。ブラジルの出来事がよく示唆するように、メガ・イヴェントは、その主催団体と政府と諸利害集団による「掠奪」的動きを促進させるにすぎないものとして経験されている。オリンピックの「経済効果」が疑わしいことは、この間、さまざまに指摘されているが、それは世界の都市住民にとって「実感」としてあらわれている。事実としても、アテネ・オリンピック以後、ギリシア経済が崩壊したことはもちろん、長野オリンピックの開催前から数々の不祥事を引き起こしたプロセスとその帰結、そしてこの年より、日本の不況がさらに深刻化し自殺者が3万人を超え始めることだけでも、重度の健忘症とはいえ日本社会は思い出すべきだ。メガ・イヴェントは、いまでは、メディアの祝福をうけながら空転するのであり、それは、メディアの信頼を失墜させつつその本来の機能を人々に思い出させ、統合の見せかけはさらに空洞化していくだろう。「幸福」になるであろう少数と、それによって多かれ少なかれの危害を被る多数の間の隔絶はもはや隠しようがない水準に到達した。
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では、東京である。オリンピック東京招致は、イスタンブール有利の下馬評のなかで実現度が薄いようにみられていたが、一転、東京も有力な選択肢として浮上したものの、選出直前に、国際的にも問題視されはじめた福島第一原発の汚染水流出によって、あらためて3.11以降の東京での開催をIOCがのぞまないのではないか、という観測も一部ではあった。しかし、結果はこのようなものである。安倍首相はブエノスアイレスで全世界にむかって福島第一原発の事故が「完全にコントロールのもとにある」という、だれも信じるもののいない、翌日には東電によってくつがえされる程度の仕掛けの大嘘をついた。このような嘘をつかなくとも、招致の成否に大きな影響を及ぼしたとも思えないし、本来、このような公人が恐怖を感じるべきは、このようなきわめて重大な問題において、しかも世界に対して無責任な嘘をつくことであるはずだ。しかし、そうしたジレンマのようなものは安倍首相からは、微塵も感じることができない。このこと自体、驚くべき事態であり、また、大メディアがほとんど問題視しなかったことも驚くべき事態である。多くの人が嘆くように、それがメディアだけでなくこの社会そのものの末期的事態のしるしであることはまちがいない。しかし、このことから見えてくるのは、公人の無責任な「虚言」というものに対する、この社会、とりわけ日本社会の感覚の変化である。庶民の小さな「欺瞞」には、あるいは、特定の政治家が福島についてこぼした「真実」には、ときに、よってたかって血祭りにあげるこの社会の奇妙な「寛容」である。ここまで露骨に発言をひるがえし、あきらかに嘘をつき、それにひらきなおって、なお、立場がゆるぎもしない国や地方の首長がいる、という現象に筆者はこれまでおぼえがない。これはなにかこの社会のあり方の変容をしるしているだろう。 ただし、ここではそれを深く追求している余裕はない。この原稿の関連するかぎりでまず一点いうならば、この社会の死命をも決しうる問題についての「虚言」が可能であるのは、原子力体制そのものが、戦争とおなじく、「虚偽」を必須としており、それなしには維持できない、というハードな条件があるからだ。それが根底から揺らいでいるわけだが、にもかかわらずそれを維持しようとすれば、虚偽が露骨に浮上してくるのは当然である。そして、いま進行しているプロセスと存在しているようにみえる秩序に「波風たてない」ことが「現実」や「真実」よりもはるかに優先させられるという、日本ではもはやあらゆる局面にほとんど例外なく浸透しきったミクロな心性である。ここまで破綻しながらも、破局をくりのべながら根強く存続する原子力体制は、3.11以降の、あるいはすこし以前からの、「偉いひと」が平気でくりだすこの社会の奇妙な「虚偽」への寛容と、それを可能にする心性なしにはありえない。
国際舞台での大見得を、ありえない想定だが仮にどれほどお人好しであるにしても、IOCが信じるはずもない。安倍首相の「完全なコントロール」発言は、IOCにむけて、暗黙に字義以上のメッセージを発していたようにも思う。つまり、その発言で問題になっているのは、現実に福島第一原発がコントロールされているということではなく、「日本の状況」が完全にコントロールされているということ、そして、これからもコントロールするという約束である。つまり、福島第一原発が本当にコントロールされていようが、汚染水問題がどれほど深刻であろうが、アスリートにどのような影響があろうが、それはIOCにとってはたいした問題ではない。最大の心配は、そうした問題が、東京を動揺させてしまい、大事なイヴェントを巻き込んでしまうことである。
しかし、それはだいじょうぶである。これだけの事故に遭いながらも、原子力体制を維持し、その存続を公言し、さらには輸出まで精力的に行なう政党を第一党に祭り上げ、その政策の急先鋒である首相をいだく、この社会である。メディア労働組合、企業、知識人、都市住民、そして社会運動すべてが「完全にコントロール」されている、という自負にも説得力があったはずだ。
もとより、東京においてもすでに挙げられている問題をみるならば、世界の直面しているものと事情はまったく変わらない。それどころか、3.11以降の福島の問題を抱え、かつお粗末で気力の乏しい対応しかできていない日本がなぜ巨大な予算をつぎこんでオリンピックか、という、多くの人が当然疑問に思い、批判を口にする点がある。 すでに、東京招致反対の立場からはさまざまな問題が指摘されていたが、決定以後も、続々と疑義があらわれている。まず、メイン会場となる新国立競技場の問題がある。ここは神宮の森の風致地区に立地するが、ここに現在の国立競技場の、延べ床面積にして5.6倍、最高箇所70m(15mの規制を緩和して)となる「世界一の」(またもや、である)スタジアムが計画され、その環境破壊が批判されている。さらに、巨大化したあとの施設の維持とそのコストが問題となる。もちろん、それは都民の肩にかかる。ちなみに、総工事費は現在の見積もりだけでも1300億かかる★14。
かねがね問題視されていた、築地市場の豊洲移転の問題がある。歴史的な伝統をもつ場所がプレスセンター設置によって簡単に撤去されるのも問題だが、豊洲の汚染問題とからみあった利権の構造は深刻である。また、カヌー・スラローム競技が行われる候補地とされているのが、葛西臨海公園。公園で観察された野鳥226種が、クロマツ林など鳥の居場所が失われ、えさとなる生物も減れば、鳥の種類も減ると予想される。青山劇場の撤去。そして、もともと1964年の東京オリンピックの際立ち退きによってつくられた都営霞ヶ丘アパートの再度の立ち退き問題。もちろん、野宿者排除はすでに招致活動の際から問題になっており、今後もはげしい争点になることが予想される。再開発の利権は膨大であろう一方で、東京住民へのダメージも深刻であることが予想される。
このような問題点をまとめた「反五輪の会」の主張は、国際的に大規模な争点になっているものとまったく共通のものである★15。つまり、ここでもやはり「都市への権利」とされていることが争点となっているはずなのだ。
7年先にむけて、諸問題を生産する条件は、日本において悪化しこそすれ、良好化することは考えにくい。そのうえ、日本は放射能汚染の問題をかかえている。「完全にコントロールのもとにある」という記述的言明であり遂行的約束である発言は、こうした点を考慮に入れるとますます無気味にひびく。
近年のオリンピックの特徴のひとつは、セキュリティ・コストのおそるべき増大である★16。ポスト9.11という文脈によって加速したこのプロセスは、2001年の「同時多発テロ」以後、最初の夏季オリンピックであるアテナ大会の約15億ドルから、北京オリンピックでは130億ドルへの飛躍的伸びをうながした。これが、GEのようなセキュリティ産業を中心に、おそるべきあらたな利権構造を生みだしているのはもちろんだが、北京でそうであったように、公共交通機関のあらゆる場所、IDカード、監視カメラ、などこうした装置はそのまま大会後も維持され、日常の治安管理に活用されている。すでに、東京オリンピックでの反対派の「テロ」を想定しての機動隊の訓練を高らかにプロパガンダしているようなセキュリティ体制が、今後、オリンピックを名目にどこまでシビアなものに展開していくかは容易に想像がつく。公安条例の自由自在な適用によって民衆の運動をがんじがらめにしたあげく、反原発運動、がれき拡散反対運動に対する異常な弾圧と司法の機能不全のいっぽうで、取り調べ可視化のような改革は進まず、さらには数々の市民的自由と権利にとどめをさすであろう秘密保全法を準備している日本は、すでに充分なほど警察国家への道を歩んでいるが、その流れに拍車をかけるだろう。
ナオミ・クラインは北京オリンピックを、「カミングアウト・パーティ」であると言った。つまり、それは中国政府が数十年かけてみがいてきた、「不穏なほど効率のよい社会の組織方法」を世界にお披露目するパーティである、と。すなわち、中国政府は、記録的速度でスタジアムを完成させ、ハイウェイを貫通させた。めざわりな民衆の居住区は、無慈悲にブルドーザーでかたづけた。またたくまに木と花を植え、それにそって街並みをととのえた。住民の習慣を改造し町をてばやく清潔にしあげた。それが可能であったのは、権威主義的共産党支配のための政治的ツールのおかげであり、絶えざる監視、無慈悲な抑圧、集権的計画のようなツールが、そこでは、グローバル資本主義の展開のために動員されるのである。 権威主義的資本主義、市場スターリニズム、マッコミュニズム(McCommunism)などと形容されるこの中国型資本主義であるが、それをローカルものではなく、「資本主義の中国化」という現代の世界資本主義の趨勢に位置づけるスラヴォイ・ジジェクの分析は、ナオミ・クラインによる北京オリンピックの観察と無気味に反響しあっている。この事態の文脈にあるのは、資本主義と民主主義との分離、とジジェクの特徴づけるプロセスである★17。むろん、その推進力は、民主主義を資本主義が圧倒的に凌駕していくという方向にむけられている。あらためてこの視点からみるならば、日本の近年の政治的動向がこのラインに沿っていることは十分に想像できる。
現代の巨大化したスペクタクルとしてのスポーツ・イヴェントは、利潤生成の契機という以上に──それはあったとしてもごく限定されたものにますますなりつつある──、壮大な動員の装置である。ひとはその奉仕に駆り出され、邪魔なものはあっというまに撤去され、異論は攻撃にさらされ、メディア上では、瑕疵のない見世物として世界へと発信される。原子力体制も、利潤のみでは理解できない、人間と環境の動員とコントロールを動力とする巨大な装置である。
この装置のめぐらす夢想は、もはやひとの欲望を捕獲できないものになりつつある。日本ではどうだろうか。オリンピック招致決定のあとも、熱はそれほどでもないが、かといって、この幻想をつきやぶるほどの動きをおこすほどの力はない、というところだろうか。昨年の東京スカイツリーもそうだったが、この国は、かつての栄光に、巨大志向による「成功」の夢想に、いまだにとらわれている。だが、それも、その夢想に魅力がさしてあるからというわけではなく、夢想をつきやぶる萌芽がどこにもないから、ともかくしがみつくしかない、といったところだ。つまり、この国は、社会を過剰に馴致し同質化したあげく、ミニマムな「反」の弁証法的モメントすら喪失してしまったようにみえる。それが、過去の「栄光」の力のない反復と、幻想は希薄化しているが、かつてより拡散し、強制力を増している、というような奇妙な感覚をもたらしているように思う。耐性がつき効果がとぼしくなった注射を頻繁にうちつづけるしかないジャンキーのようでもあるが、あるいは、「新富裕層」の日本脱出の動きにみられるように、崩壊を見越して逃走をこころみる富裕層の一部が準備をするあいだにだれも気づかないよう見せる煙幕のようでもある。
先ほど述べた、昨年のUEFAの決定は、スポーツ・イヴェントのヨーロッパ的起源、すなわち都市国家への、あるいは国家を都市ネットワークが凌駕していた中世ヨーロッパ回帰のしるしとみえないこともない。一方、2020年、東京オリンピックは、もしそれが1940年の「まぼろしの東京五輪」とおなじく途中で座礁に乗り上げないとしたら──まったくありえないわけではない──北京で頂点に達した流れを、規模を落としたかたちで踏襲するだろう。それは、オリエントの帝国のもの、ルイス・マンフォードのいうあの「メガマシーン」であり、原子力体制と一体化した、世界史的にもずばぬけて巨大で、かつ破滅的なものとなるだろう。「資本主義の中国化」とメガマシーンとしてのスポーツ・イヴェントは、相性は悪くないのである。