(ポスト)モダン大阪の「路地」と「横丁」

加藤政洋(人文地理学、都市研究、立命館大学准教授)

1 都市縁辺に埋もれた近代建築──津守下水処理場──(から)の眺め

ポンプ室の上の居住空間
大阪市西成区の西端、木津川に面して、津守下水処理場が立地している★1。この処理場は、昭和6(1931)年から10年の歳月と「巨額」を投じて建設され、昭和15(1940)年4月に通水した、大阪市で最初の大型下水処理施設であった。
その規模は、当時、ニューヨークとシカゴに次いで世界第3位を誇ったというが★2、創業から半世紀以上の歳月を経るなかで施設は老朽化し、平成17(2005)年4月に新しいポンプ設備が通水したことで、初代の(旧第一)ポンプ室は65年間に及ぶその役割を静かに終えたのだった。
敷地面積約12万3千㎡を有する広大な処理場内のほぼ中央に、旧第一ポンプ室の建物が現在も残されている[図1]。閉鎖されたままのエントランスは、先太りの円柱に、丸みを帯びた階上部分が相俟って、いまだモダーンな雰囲気を湛えていた。わたしが学生時代の後半に馴染んだ大阪市立大学の1号館と、ほぼ同時期の建築ということもあってか、どこか似ているようだ。その証拠に、というわけではないのだけれども、市大と同様、建物へのアプローチには背高のヤシが植えられていた。
外観を一瞥すれば明らかなとおり、ポンプ室は地上3階建てである[図2]。施設内に入ると、地階から2階部分までが吹き抜けとなっており、その最下部に複数の巨大な揚水機が設置されていた。案内をしてくださった方が、ポンプにはめ込まれた埃まみれの銘板をふき取ってみせてくれたところ、「昭和九年三月」(=1934年)と刻まれている。素人目には、処理能力はともかく、今すぐにでも稼働できそうなほど、整備が行き届いているように見えた[図3]
さて問題は、ポンプ室の階上部分である。すでに見たとおり、この建物は3階建てであった。ポンプ室の片隅に設置された、これまたモダーンな階段をあがってみる[図4]。採光のためだろうか、壁には印象的な丸窓が設えられていた。内側からみると、美しさがいっそうきわだつ。階段をのぼりきると、建物の向こう端まで一直線に延びる廊下が見通せた。入り口を入ると、すぐ右手には「事務室」と表札のかかった大部屋がある。
そして......、そう、廊下の両側に並んでいるのは戸別の住居スペースで、数えてみると計14軒分あった[図5]。詳細はさだかでないものの、どうやら下水処理施設に働く人たちの(世帯向け)公舎であったらしい。今風に言えば3LDKの、なかなか立派な住まいだ。床の間もあるし、欄間も見事である[図6]。廊下の格子窓には、郵便ポストが備え付けられたままになっているなど、いまだ生活の痕がうかがわれた。
3階部分にあるのは、住戸ばかりではない。廊下の両端には共同のトイレにくわえて、風呂も設置されていた。まるで街場の銭湯を思わせる脱衣場の棚(ロッカー)[図7]、天井を見上げると、明かり採りの窓があるため、室内は思いのほか明るい。これらの施設は、わずか14軒の集合住宅にあって、数少ない「共同消費の場」であったと言えようか。
そして、ポンプ室上階という特異な立地(!?)もさることながら、この集合住宅を他の何よりも空間的に特徴づけているのが、各住戸の間に差し挟まれた、狭い通路の存在である。通路の突き当たりには、なんと(玄関とは別に)勝手口までもがつくられていた。どのような理念で、いったい誰の手によって設計されたのだろう。そもそも昭和戦前期の日本に、このような施設がほかにあったのか。「関西のモダニズム建築」としてリストアップされてしかるべき建築であるようにも思われるのだが★3、管見の限りでは、これまで取り上げられたことはないようで、まさに歴史の舞台からは後景に退き、都市空間の縁辺に埋もれつつあるという感をぬぐえないでいる。
疑問はつきないまま、見学の同行者たちに促され、屋上へとあがってみる。資本の集積する梅田や難波の高層ビル群が春色に霞んで見え、この場の周縁性がおのずと意識された。東を見やれば、上町台地に屹立する、開業したばかりの「あべのハルカス」が目に入る[図8]。感覚的には、ほぼ真東に位置しているように見えたが、地図で確認すると、やや北にふっているようだ。

[図1]丸みを帯びた上階部分が印象的な旧ポンプ場

[図2]旧ポンプ場の外観。窓の配置から地上3階建てとわかる

[図3]ポンプ室内の現在の様子。壁に掛けられた時計と同様、時間はとまったままだ

[図4]階段は建物の両端に設置されていた

[図5]廊下の両側に14軒の住戸が並ぶ

[図6]部屋の内部。奥に押入れと床の間が見える

[図7]共同浴場の棚

[図8]遠くにハルカスが見える。屋上には、ガラス板の嵌め込まれた正方形の明かり取りが奥の方まで並んでいる


木津川と上町台地のあいだに
見晴らしのよく効く屋上から日本一の超高層ビルを眺めるとき、眼下の空間的ひろがりは無意識のうちに忘却されてしまったようで、まったく印象に残らなかった。けれども、津守下水処理場を後にし、近傍の古びた津守商店街、それに連接して東へ900m以上も延びる鶴見橋商店街を歩きはじめると、とたんにこの空間の歴史地理が思い起こされる。
いま歩いているところは、明治後期から大正前期にかけて実施された「耕地整理事業」によって、見事に碁盤目状の土地空間が生産された一帯であり、1920年代を通じて、自然発生的な市街地が形成されていく。鶴見橋商店街の東端、国道26号線を越え、南海線の高架を過ぎれば、そこは変転著しい「釜ヶ崎」だ。
──津守下水処理場の見学後、実際に歩いたのはここまでなのだが、つれづれに仮想遊歩をつづけるならば、釜ヶ崎の通称「三角公園」(萩之茶屋南公園)の北側、萩之茶屋本通商店街を、そのまま東へ進むことにしよう。阪堺線をくぐり、堺筋を越えて、今池本通の商店街を少し行くと、南北の商店街にぶつかる。新世界の「ジャンジャン横丁」へと連なる飛田本通の商店街である。
そこを左(北)へ折れて200mほど歩き、今度は右(東)に曲がって新開筋商店街に入る。この味わい深い通りを挟んで、北側は戦前の長屋景観を色濃く残す山王地区、そして南側一帯は大正中期に開発された旧遊廓の《飛田新地》である。
ここからは、スロープ状に開発された道路を進むもよし、あるいは上町台地の崖に穿たれた小路の階段をのぼるもよし、崖の上は、全国最大規模の法定再開発地区・阿倍野である。あべの筋の向こうを見上げれば、そこにはハルカスが聳えているはずだ。

生活空間としての「路地」
仮想の遊歩はここまでとし、いま一度、出発点たるポンプ室上階の集合住宅に戻ってみよう。実はハルカスまでの(仮想)遊歩を経た後で、あらためてこの集合住宅の空間形態に着目してみるとき、特定の現実空間を指し示す、あるひとつの語句が想起される。それは、近代大阪の空間的基体とでもいうべき、「路地」にほかならない。
「路地」という言葉(の響き)から、どのような空間がイメージされるだろう。辞書的には「建物と建物の間の狭い道路」を意味することから、さしあたり大通りや表通りを脇に入った、幅員の狭い街路ないし通路と位置づけることができる。関連する語句として、路地裏や小路、横丁なども思い浮かぶ。
しかしながら、「路地」という言葉には注意を要する。というのも、辞書で説明される意味、あるいは東京で使われてきた意味と大阪や京都のそれとでは、まったく内容が異なるからだ。10代の大半を大阪で過ごした作家・宇野浩二の言葉を借りるならば、路地を「大阪では『らうぢ』と云ひ......東京で云ふ路地とは意味が違ふ」のであった★4。では、どう違うのか?
現在の大阪ではほとんど見られなくなってしまったが、表通りに面して町家(長屋)が建ち並ぶと、ひとつのブロックの中央部には空地が発生してしまう。しかし、表通りの家屋と家屋のあいだから通路を通すことで、内部の空地へもアクセスが可能となり、そこにも家屋(裏長屋)を建設して、土地の有効活用を図ることができた。実のところ「路地(ろぅじ)」とは、通路のみならず、内部の家屋――その多くは長屋である――までをも含めた空間を指す呼称なのである。ヴァリエーションは多々あるけれども、今でも京都には、「ろぅじ」が数多く存在している。 この「通路+居住空間」としての「路地」は、近代大阪の文学における主要なモチーフともなった。宇野自身は、小説『十軒路地』を著わしたほか、その「十軒路地」を再訪する優れたエッセーを残したし★5、宇野の大阪論から多大な影響を受けた織田作之助もまた、「路地」をモチーフとする作品をいくつも発表している。彼の代表的な作品「わが町」から、「路地」の描写を引用しておこう★6

路地は情けないくらい多く、その町にざっと七八十もあろうか。
いったいに貧乏人の町である。路地裏に住む家族の方が、表通りに住む家族の数よりも多いのだ。
地蔵路地は∟の字に抜けられる八十軒長屋である。
なか七軒挟んで凵の字に通ずる五十軒長屋は榎路地である。
入口と出口が六つもある長屋もある。裏といい、一軒の平家に四つの家族が同居しているのだ。
銭湯日の丸湯と理髪店朝日軒の間の、せまくるしい路地を突き当たったところの空地を、凵の字に囲んで、七軒長屋があり、路地という。


彼の自伝的小説「青春の逆説」にも類似する描写はあるが、ここで注目したいのは、これらの路地が実在したかどうかといった歴史地理的問題ではなく、「〜路地は......長屋である」とか、「〜長屋は......路地である」という、「路地」と「長屋」の互換性である。織田作の素描は、「抜けられ」るかどうかさえわからない通路と、それに沿った裏長屋を一体的な生活空間として捉える概念が、まさに「路地(ろぅじ)」であったことを示している。

「路地」の空間パッケージ
いくぶん遠回りをしてしまったが、ここでひとつの仮説を提示してみたい。津守下水処理場の東側一帯にひろがる市街地は、「基本的にあぜ道を直線化した4m未満の狭隘な街路網」によって、碁盤目状に区画整理されていた。「1辺1町≒110m以上もある正方形の大きな区画」は、自然発生的な市街地化の過程で、必然、各々の街区内に袋小路や細街路を生み出してしまう★7。たとえ、「いったいに貧乏人の町」ではなかったにせよ、零細な工場労働者や日雇労働者の受け皿となった「路地」が、(現・国道26号線から)木津川にかけて、分厚く展開されていたのである。
津守下水処理場旧第一ポンプ室上階の集合住宅は、こうした地理歴史的な条件・文脈のなかで、生活空間としての「路地」を組み込んだものではなかったか。つまり、住宅、共同トイレ、共同浴場★8をすぐれて抽象的にモデル化したひとつの空間パッケージ、それがあの集合住宅だったのであり、まさに建築内部に「路地」を再現していたのではないか、とわたしは勝手に夢想しているのである。

2 あべのハルカス周辺から

モール化する「あべの」
2014年3月、超高層ビルの「あべのハルカス」が全面開業した。あべの筋を挟んだ西側では、1969年の再開発計画、そして1976年にはじまる用地買取式の「阿倍野地区第二種市街地再開発事業」にもとづき、じつに息の長い再開発事業がつづけられてきたわけであるが、2011年4月、最後まで残された計画地区内東部の広大な事業区域に「あべのキューズタウン」がオープンしたことで、多大な負債を生んだ事業も、ようやくにして一段落ついた。
これらに先行して、西側には「あべのベルタ」(1987年)、「あべのルシアス」(1998年)、東側には「あべのHoop」(2000年)、「あべのand」(2008年)がすでに立地しており、結果として、大阪環状線以南のあべの筋東西には一大商業集積地が形成される。
わたしが初めてこの地区を訪れたのは、1990年代前半のことである。90年代を通じて、あるいは「あべのHoop」が開業してなお、周辺では「サカサクラゲ/温泉マーク(♨)」の名残と思しき連れ込み宿が営業するなど、あべの筋に沿った表通りを除けば、どちらかといえば裏町的な要素が色濃く残る地域であった。
往時の雰囲気を伝える文章があるので、ここで引用しておこう。それは、「ストリートガール」に関するガイドのなかで「無難に遊ぶなら、近鉄阿倍野周辺である」としたうえで説明される、「近鉄百貨店附近」の次のような描写である★9

夜が八時を回ると、百貨店の正面、近鉄の構内にジカ引きが立つ。日によって人数は定まらないが、約十人前後とみていい。年増が多いの〔が〕特徴。...〔中略〕...手軽にというむきは、近鉄百貨店裏のホテル街を歩いてみること。常に六、七人のコールガールが、真ッ暗な辻に立っていたり流している。

これは、藤本義一『全調査 京阪神周辺 酒・女・女の店』(1966年)からの引用で、さすがに20年前のわたしが街頭に立つ女性の姿を見ることはなかったけれども、わずかに残るサカサクラゲ建築(旅館)のおかげで、かろうじて往時の残影に接することはできた。
さて、時間差のある大型商業施設の立地は、周辺にどのような影響を及ぼしたのだろう。この手の商業施設にありがちなことだが、内部のきらびやかに演出された空間とは異なり、周囲にはまったく関心を示さない――つまり、外へと開かれることのない――、無愛想きわまりない外観は、殺風景ですらある。ハルカスを戴く近鉄百貨店、Hoop、そしてandがほぼ南北に縦列したことで、集客力は格段に高まった。まるでそれらは、一体となってひとつのショッピング・モールを構成しているかのような、そんな印象すらあたえている。事実、近鉄百貨店の一階部分からHoopへ抜け、そのまま歩を進めると、Loftの入居するandまで、ほぼ一直線で移動することができる。来街者の足取りが外部へと逸れてゆくことは、まずない。周辺には、現在もラブホテルが点在しているとはいえ、確実に裏町的要素は脱色されつつあるように見える。住宅の更新も著しく、空地も増えたようだ。
次いで、あべの筋の西側にも目を向けてみよう。「あべのキューズタウン」一帯は、もとは「あべの銀座」と称された商店街をエントランスとする木造家屋(店舗)の密集地区で、闇市や「青線地区」を思わせる路地の入り組んだ景観が、2000年代なかばまで残存していた[図9・10]。東急不動産が開発主体となって再開発施設が具体化し、既存の建造環境を更地にした当の土地空間上に現われたのが、「あべのキューズモール」を核とする「あべのキューズタウン」である。
キューズタウン内には、地権者向けの「ViaあべのWalk」なるゾーンが設定され、そこには、路地裏で営業を続けていた店舗や、歴史を誇る「名店」なども入居している(通い馴染んだいくつかの店が入っているのも嬉しい)。興味が持たれるのは、キューズモール北側の一画に、まるで「飲み屋横丁」を思わせる街区(!?)が設定されていることだ。路地裏の洋食の名店「グリル マルヨシ」、かつてはあべの筋に面して立地し、全国にその名を知られた居酒屋「明治屋」、あるいは立ち呑み居酒屋などが並び、モール内とは明らかに異なる壁の色や照明をほどこし、独特の雰囲気を演出している。
どこまでも取って付けた感は否めないものの、最新の都市型ショッピング・モールに組み込まれた、部分的には真正性を有する「レトロ空間」。すべてではないにせよ、パーツ(店舗)は正しくこの場所に由来している。明治屋の入ったこの場所を、知人に案内されて初めて訪れたとき、わたしには大阪に散在する「横丁」が次々と想起されてしかたなかった。
ここで、あえて「横丁」という語句を持ち出しているのは、それが「路地」とともにモダン大阪に固有の空間的な基体のひとつであったと考えているからにほかならない。

[図9]阿倍野の再開発地区に残されていた仕舞屋と飲食店

[図10]瓢箪の明かり採りが印象的な建物。青線地区を思わせる

「横丁」の発見
[図11]法善寺横丁の入り口
「横丁」は、ある意味でお馴染みの言葉となっている。大阪では法善寺に代表される横丁が各所に散在しているし[図11]、現在ではインターネットのウェブサイトでも「横丁」なるものが開設されているからだ。しかしながら、「路地」と同様、「横丁」もまたやっかいな言葉ではある。たとえば手元にある辞書を繰ってみると、「よこちょう【横町】表通りから横へ入った町筋〔よこまち〕」とだけあり、「横丁」という字はあてられていない。また『大言海』に目を転じると、「『よこちョう(ヨコチヤウ)』よこまち(横町)ニ同ジ」とし、その「よこまち」では「大通リニ對シテ、横路ナル町。ヨコチョウ。横街」と説明した上で、『好色一代男』から「車屋ノ黒犬ニ咎メラレテ、又、西ノ横町ヘマハルモヲカシ」という一文をひいている。少なくとも西鶴の時代から使用されていたことはわかるのだが、現在一般に使われる略字の「横丁」ではないし、大通り/表通りから「横」へ入るという空間的な性格を説明しているにすぎない。これではなにかが足りないのだ。
そこで、近代大阪に登場した都市空間の観察者たちによる、「法善寺横丁」の叙景を導入してみよう。たとえば、大阪や神戸で考現学を実践したことで知られる村嶋歸之は、道頓堀と千日前の「中間にあって一種独特の雰囲気を醸し出しているのは『法善寺裏』で、二軒の寄席――花月と紅梅亭――と十四軒の飲食店が狭い路地内に櫛比しているのだ」と、昭和6(1931)年に述べていた★10。モダン大阪の漫歩者である北尾鐐之助もまた、昭和7(1932)年に出版された『近代大阪』の「千日前逍遥記」のなかで、村嶋が「法善寺裏」として記述した「法善寺横町」を、次のように描き出す★11

二間とはない細い路次の両側は、殆ど飲食店。敷きつめた石畳みは、いつも水に濡れて光ってゐる。だからこの路次に生活してゐるすべての人たちは、みな前皮のかゝった高下駄を穿いて、すさまじい響きをあげながら動いてゐる。

北尾は「法善寺横町」を、「飲食街」ないしは「食傷街」として見出したのである。そして、この北尾の描写に啓発されたのが、あの織田作之助であった★12

...〔前略〕...この法善寺にも食物屋はある。いや、あるどころではない、法善寺全体が飲食店である。俗に法善寺横町とよばれる、三人も並んで歩けないくらいの細い路次の両側は、殆ど軒並みに飲食店だ。その中に一軒半えり屋が交っているのも妙だが、この路次の石畳は年中濡れており、路次に生活するひとびとは、殆ど高下駄をはいている。

「大阪の顔」と題された随筆のなかで、織田作はこのように北尾の影響を露わにしながら、「法善寺横町」の景観を素描していた★13。そもそも織田作の大阪文学の出発点には、すでに見た路地などの都市下層の生活世界がある。けれども、法善寺界隈やその他の横丁が、ある種の「路地」としてのみ舞台化されていたわけではないし、生活空間と商業空間との違いだけをみて取り入れられていたわけでもない。
というのも、織田作にとって法善寺横丁とは、「もっとも大阪的なところ」であり、「大阪の顔」として表象すべき場所であったのだ。「大阪的」とは、どういうことなのか。それは、大正に生まれ昭和を生きる織田作が、「昭和」には「もはや大阪の伝統的な匂いや勁さは薄れている」と述べたことにヒントがある★14。すなわち、「昭和」という時代の都市空間にあって、「大阪の伝統的な匂い」を感じ取ることができるのは、法善寺界隈などの路地や特定の「食物屋」でしかない、ということだ。織田作は「横丁」を「大阪のなかの故郷」として、言い方を換えるならば、郷愁(ノスタルジア)を喚起する空間として発見していたのである。
織田作の放浪時代「昭和」を象徴する都市景観は、ネオンきらびやかな盛り場(道頓堀)、溢れかえらんばかりの商品で埋め尽くされた商店街(心斎橋筋)であった――「その都会的な光の洪水に飽いた時、大阪人が再び戻って来るのは、法善寺だ」★15

空間パッケージとしての「横丁」
織田作之助は、「昭和」という時代にあって、その突端をゆく盛り場/商店街の片隅に埋もれた「横丁」に、「大正的」なる空間を幻視していた。そうしたレトロスペクティヴな空間へのまなざしが、いつの間にか独り歩きをしたのだろうか。
現在、なかば商品化された空間パッケージとして、あちらこちらの地下街や商業ビルに「横丁」が嵌め込まれている。元来、大通りと対置された「横丁」であるが、それらは物理的な形態や建造環境にとらわれることなく、野放図に差し込まれている点に、ひとつの特色があるようだ(とはいえ、周縁的な場が選ばれていることに変わりはないのだが......)。いくつか例を挙げてみよう。
阪急梅田駅北側の高架下にあって、古書店の集積する通路「かっぱ横丁」は、その典型例である[図12]。親しみやすいネーミング、キャラクターやオブジェ、そして古書店のひしめくさまは、たしかに「横丁」の枠には収まりきらず、また遠見遮断するかのような通路は迷路的で、その機能性が必ずしも前景化することはない。とはいえ、人通りが絶えることはなく、当然ながら裏街のようなうらぶれた感もまったくない。


[図12]かっぱ横丁の入り口

[図13]地蔵横丁。
手を合わせる女性の姿が見える
それにひきかえ、同じく阪急梅田駅の高架下で「北向地蔵尊」を祀った「地蔵横丁」は、狭い路幅で提灯やダウンライトを光源にするなど、通路としての機能性を極力抑えることで、大都市交通の結節点に位置するとは思えない空間の演出に成功している[図13]
レトロないしノスタルジックな空間という点では、梅田スカイビルの地下にある滝見小路を挙げねばなるまい。路地奥に小祠を設けたり、旧大淀区の町名看板を張り付けるなどして、ダウンライト系の照明を効果的に用いながら、「在りし日」の路地空間を理想的/偽装的に再現しているからである。地理歴史的な文脈とは切り離された景観を、文化商品としての空間に変換した好例と言えよう[図14・15]
また、「食傷街」の系譜に連なる「横丁」も、古くから存在していた。一例を挙げれば、西梅田の地下街にある飲食店街「ぶらり横丁」である[図16]。この「横丁」には、往時、中央の抜け路地を挟んだ両側に、いずれもカウンター式の飲み屋が十数軒も櫛比していた。布製の暖簾が掛けられ、無造作に丸イスの並ぶさまは、まるで北尾鐐之助や織田作の描いた「食傷街」を彷彿とさせるものがある[図17・18]
地下道の拡幅工事が予定されていることから、惜しまれつつも店舗の立ち退きが進められた。その歴史は半世紀以上もさかのぼるといい、地下街の隙間に無理やり詰め込まれたかのような一画であるのだが、かえってそれが「横丁」らしさを醸し出していたのもまた事実であった。地下飲食店街型としては、天王寺の「あべちか」にある「あべの横丁」も、この例にあたる[図19]

[図14]滝見小路の入り口、[図15]滝見小路の内部

[図16]まさに「横丁」といった感のある「ぶらり横丁」の入り口

[図17・18]在りし日のぶらり横丁の内部

[図19]あべの横丁の入り口

以上のように、モダン/ポストモダンを問わず、戦後一貫して計画的な商業空間の片隅や隙間には、「横丁」が埋め込まれてきた。機能空間の主要部からは外れた通路や一角、「〜横丁」などと書かれたゲート、レトロを演出する飲食店、そして時には(擬似的な)場所の記憶を想起させる祭祀施設や諸種の凝った仕掛け......。
これら各要素の取り合わせによって、いかようにも景観的に変奏される「横丁」は、ひとつの空間パーケッジとして商業・交通施設に嵌め込まれていく★16(紛い物であることを重々承知しつつ、そうした「横丁」のなかに個人的には好ましいところもいくつかあるのだが)。はたして、昭和大阪の都市空間に織田作が「大正的」なるものとして「横丁」を見いだしたごとく、わたしたちはノスタルジアの空間をそこに見ることができるのだろうか。

3 消滅する路地

もう一度、織田作之助の「横丁」に戻ろう。彼の「法善寺横丁」の叙景は、明らかに北尾を導きにしていたものの、彼自身が見出したもうひとつの「横丁」、すなわち「雁次郎横丁」にふれるとき、その筆は冴え渡る。少し長くなるが、厭わず引用しておくことにしたい★17

雁次郎横丁──今はもう跡形もなく焼けてしまっているが、そしてそれだけに一層愛惜を感じ詳しく書きたい気もするのだが、雁次郎横丁は千日前の歌舞伎座の南横を西へはいった五六軒目の南側にある玉突屋の横をはいった細長い路地である。突き当って右へ折れると、ポン引と易者と寿司屋で有名な精華学校裏の通りへ出るし、左へ折れてくねくね曲って行くと、難波から千日前に通ずる南海通りの漫才小屋の表へ出るというややこしい路地である。この路地をなぜ雁次郎横丁と呼ぶのか、成駒屋の雁次郎とどんなゆかりがあるのか、私は知らないが、併し寿司屋や天婦羅屋や河豚料理屋の赤い大提灯がぶら下った間に、ふと忘れられたように格子のはまったしもた家があったり、地蔵や稲荷の蝋燭の火が揺れたりしているこの横丁は、いかにも大阪の盛り場にある路地らしく、法善寺横丁の艶めいた華かさはなくとも、何かしみじみした大阪の情緒が薄暗く薄汚くごちゃごちゃ漂うていて、雁次郎横丁という呼び名がまるで似合わないわけでもない。ポン引が徘徊して酔漢の袖を引いているのも、ほかの路地には見当らない風景だ。私はこの横丁へ来て、料理屋の間にはさまった間口の狭い格子づくりのしもた家の前を通るたびに、よしんば酔漢のわめき声や女の嬌声や汚いゲロや立小便に悩まされても、一度はこんな家に住んでみたいと思うのであった。

空間パッケージとしての「横丁」には、雁次郎横丁のような淫靡で猥雑な雰囲気はなく、ましてや「しもた家」も存在しない。時には酔っぱらいのわめく声や怒声が響くこともあるだろうが、嬌声は聞こえないだろし、迷惑防止条例その他の諸規則がますます細かくなる昨今、ポン引きが袖を引く余地など残されてはいまい。もちろん(「汚いゲロや立小便」に起因するかはともかく)、饐えたような臭いもしないはずだ★18
「横丁」が規模の大小を問わず商業空間内に再現されてきた一方、火災にあってなお特例的に保全された「法善寺横丁」を例外とすれば、街場の横丁はその姿をどんどん消している[図20・21]。同じことは、津守下水処理場のポンプ室上階に再現された「路地空間」についても言えるだろう。一概に「ジェントリフィケーション」とは言えないにせよ、社会空間的な地区更新は着実に進んでいるし、(宇野浩二や織田作之助が呼ぶ意味での)「路地」が早晩消滅するといっても過言ではあるまい。
さて、ここまで雑感を述べてきたところで思い起こされるのは、「......駅の地下街のおでん屋には入りたくない。おでん屋は屋台の〔、〕しかもやはり場末地区に存在してこそ独特の味わいもあるのである」と述べていた、歴史地理学者の故・藤岡謙二郎氏の「場末地区」なる短い随想である★19
氏は、「場末には場末の気楽なよさがある」ことを認めつつ、「現代都市のもつ悪いところのみが隔離集中されている印象」がある点を問題視し、「場末地区は清潔でなければなら」ず、「昼間見れば幻滅を感じさせるような場所のまま放置させてはならない」という信念をもって、次のように提言していた。すなわち、「...〔前略〕...障がいとなっている場末特有の狭い袋小路はある程度ぶちこわして緑地をつくり、そこを昼間は楽しい憩いの場所たらしめ」ること、あるいは「圏構造をもつ都市域の外周にバイパスの形ではなく、場末地区の中をぬって行く環状線を通じ、ある間隔をおいて〔、〕おでん屋街や娯楽街等といった機能別中心」をおくべきである、と。
「場末地区」が物されてから50年近い歳月が過ぎ、都市空間の再編ステージも部分的には別段階へと移行した昨今、さて、はて、わたしたちはこのような主張をどのように引き受けたらよいのだろう。そんなことを思いながら、昨日も今日も街歩きをし、場末の酒場(もちろん、おでん屋)で呑んでいます。

[図20]日本一横丁のアーチ。奥は駐車場になっており、すでに店舗はない。現在はアーチも取り外されている
[図21]あべのハルカスにもほど近いあべの横丁の入り口。現在はアーチも取り外されている
以上、撮影=加藤政洋




★1──大阪市都市環境局『津守下水処理場』(大阪市建設局西部方面管理事務所(津守下水処理場)、2006)、『TSUMORI SEWAGE TREATMENT PLANT』(2012)。以下は、2014年4月11日に水内俊雄氏(大阪市立大学)と共同で見学した際の印象記である。
★2──『大阪毎日新聞』昭和15年4月11日)
★3──この点に関しては、次の文献を参照されたい。石田潤一郎監修『関西のモダニズム建築』(淡交社、2014)。
★4──宇野浩二『大阪』(小山書店、1936、7頁)。
★5──宇野の「十軒路地」に関しては、水内俊雄ほか『モダン都市の系譜』(ナカニシヤ出版、2008、167〜173頁)も参照されたい。
★6──織田作之助「わが町」(『織田作之助全集 3』講談社、1970、257〜258頁)。
★7──この点に関しては、水内俊雄ほか『モダン都市の系譜』(ナカニシヤ出版、2008、64〜69頁)を参照されたい。
★8──この住宅は、おそらく「路地」には立地することのない上質なものであったことを急いて注記しておかなくてはなるまい。また、現在でも京都の「路地」(=裏長屋)には「共同」のトイレが見られるところもある。浴場の場合、当時は一般的に公設/私設を問わず「公衆浴場」ということになろう。モデルは明らかに公衆浴場であっても、下水道処理施設内の公舎に公衆向けの浴場を設置することはできなかったであろうから、ここは居住者向けの「共同浴場」だったということになる。
★9──藤本義一『全調査 京阪神周辺 酒・女・女の店』有紀書房、1966年、120-121頁。
★10──村嶋歸之「民衆娯楽の王城『千日前』」(『大大阪』第7巻第7号、1931、141〜142頁)。
★11──北尾鐐之助『近代大阪』(創元社、1989〔原著=1932〕、302頁)。
★12──織田作之助「大阪の顔」(『織田作之助全集 8』講談社、1970、293頁)。
★13──ちなみに、「大阪発見」という随筆にも同じ文章がみられるが、そこでは「俗に法善寺横丁とよばれる路地は、まさに食道である。三人も並んで歩けないほどの細い路地の両側は、殆ど軒並みに飲食店だ」と、「横丁」をもちいていた。同「大阪発見」(『織田作之助全集 8』239頁)。
★14──織田作之助「大阪論」(『織田作之助全集 8』248頁)。
★15──織田作之助「大阪発見」(『織田作之助全集 8』239頁)。
★16──そういえば、先月訪れたJR博多シティ(2011年開業)にも、「博多ほろよい通り」なる飲み屋横丁が挿入されていた。
★17──織田作之助「世相」(『織田作之助全集 5』講談社、1970、350頁)。
★18──ドキュメンタリー映画『歌えマチグワァ』(新田義貴監督、2012)に描かれた那覇市の栄町市場は、既存の建造環境をスクラップすることなく路地空間(マチグワァ)を再生させつつある、稀有な事例と言えるかもしれない。加藤政洋「〈場所の再=創造〉と都市」(京都建築スクール実行委員会編『京都建築スクール2013 リビングシティを構想せよ[商業の場の再編]』建築資料研究社/日建学院、2013、114〜117頁)。
★19──藤岡謙二郎「場末地区」(『地理』第12巻第1号、1967、58〜59頁)。




加藤政洋(かとう・まさひろ)
1972年生まれ。人文地理学、都市研究。立命館大学文学部准教授。著書=『大阪のスラムと盛り場』『那覇──戦後の都市復興と歓楽街』『敗戦と赤線──国策売春の時代』ほか。URL=http://urbanist.blue.coocan.jp/


201409

特集 大阪、その歴史と都市構想 ──法善寺横丁、ヴォーリズから《あべのハルカス》まで


近代建築と文化から読み解く都市のコード
(ポスト)モダン大阪の「路地」と「横丁」
大阪の近現代建築と商業空間──「近代建築」と「現代建築」の対立を超えて
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