3.11以後の建築

五十嵐太郎(建築史家、建築評論家)
山崎亮(コミュニティデザイナー)
小野田泰明(建築学者、建築計画者、東北大学大学院教授)
司会:鷲田めるろ(金沢21世紀美術館キュレーター)
山崎亮氏

1995年以降の建築的創造性

山崎──五十嵐太郎さんと一緒にゲスト・キュレーターをさせていただきました。今日は展示への思いや意図を説明しようと思っていたのですが、五十嵐さんがきれいにまとめてくださったので補足することはあまりありませんが、いくつか僕の視点からお話したいと思います。
関西をベースに仕事をしていますので、いまでも「震災」と言うと、阪神・淡路大震災の「は」から発言してしまいそうになります。神戸で仕事をしていましたので、阪神・淡路大震災は自分に大きな影響を与えています。震災後の壊滅状態から絶対に倒れない建築を設計する道へ進むのか、それとも人のつながりによってまちを元気にするためにデザインを用いるのか、迷っていました。当時、2003年からオフィスの床が余るらしいとか、2005年から人口が減るらしいとか、2015年から世帯数が減るということが言われ始めていて、そんな中で新しく住宅をつくる必要があるのだろうか、などということが気になり始めていました。設計事務所に勤めていましたが、震災後どんな仕事をすれば社会に役立てるのか、悶々としていた時期でした。人口や住宅やオフィスの事情を考え、また優秀な建築家は沢山いる。なので、そうではない方向に建築やデザインの力を使うのが良いのではないかと考えたのです。10年ほど迷いましたが、2005年にstudio-L(スタジオ・エル)という事務所を立ち上げてコミュニティデザインの仕事をしてきました。
そういった立場から見ると、「3.11以後」というお題をいただいたのですが、先ほど五十嵐さんもおっしゃられていたように、それ以前から状況は変わってきていたと思います。建築家の職能が広がっていましたし、僕ももっといろんな分野にその発想力を活かしたいという気持ちを持っていました。ですので、この企画の最初の段階から1995年以降のことも展示に反映させたいと皆さんにお話していました。西日本の建築家たちは、震災以後、悩み、いろいろと模索してきたと思います。東日本大震災は東京への影響が大きかったこともあり、東京のデザイナーの多くもこれから自分たちの力をどこに持っていくかという問題を身近に感じられただろうと思います。1995年以降、そういうことを考えたり、建築出身だけれどおもしろいことをやっている人、建築をやりながらその役割を広げている人、建築のつくり方自体を変えて副産物としてコミュニティを再組織する人など、本当におもしろいことをしている人たちがいるなあと感じていました。そういった長い時間をかけて新しい取り組みをされている方々を五十嵐さんや鷲田さんに紹介させていただきました。
先ほど「サバイバル」という言葉がありましたが、これだけ優秀な人たちが建築の分野で働いている中で、人口が減り始めた2005年は既に過ぎ、いよいよ世帯数が減り始める2015年がもうすぐです。当然ですが、社会資本整備のためのお金も減りますし、民間の設計依頼も減っていきます。その時にクリエイティブな人たちに仕事がないというのはもったいない気がします。個人的な裏テーマとしては「建築家に相談してみよう」という人が増えるような展覧会になったら良いなと思っています。建築とは関係なさそうなことでも"Architectural Thinking"(建築的発想)で物事を解決している人たちがいることを知ってもらいたいのです。何か悩み事があった時に「法律家、政治家、経済学者ではなく、まずは建築家に相談してみたらどう?」ということです。住宅やオフィスが余っている時代にも、建築的発想は社会に活かすことができるのではないかと考えていました。会場が金沢21世紀美術館だったことも大きいと思います。兼六園のすぐ近くの学校跡地に美術館ができたことで、用がなくてもその中を通っていく人や、暑いから涼んでいるだけの人、兼六園へ行った後、次のどこかへ行く前にあの丸い建物に行ってみようというぐらいの人たちがいるのはとても大きな価値です。たまたま来た人たちがたまたまやっている展覧会で「建築家はかっこいい建物を建てるだけじゃなくて、こんな発想をするのか」と気付き、建築家に相談してみようという感覚が広がっていくのではないかと思っています。フレデリック・ミゲルーさんの企画による第一部は、建築を知っている人であればよだれが出るような現物の展示が沢山あります。第二部では、建築家が感心するというよりは、一般の人にその発想や取り組みを見てもらい、建築家に発注してみようかなと思う人が増えてくれると嬉しいです。
展示方法は五十嵐さんがおっしゃったように、体感できたり、難しい専門用語をあまり使わないように工夫しています。図録についても、編集者の方にはなるべく一般の方々が読んでなるほどと思えるようなものにしてほしいというお願いをしました。1945年の戦後からある時期までは、建築が物量として求められ、建築家はその求められるものに対して形を与えてきました。そんな第一部の展示を見終わった後、第二部を通じ、求められるものをつくるのではない時代に建築家の発想力をどう活かすかなど、幅広く多くの方々に考えてもらえればと思っています。繰り返しますが、1995年に阪神・淡路大震災を経験し、2005年から10年ほど建築分野から遠く離れて見て、感じた建築家の力を、今回の展覧会を通じてお伝えしたいと思います。

小野田泰明氏

小野田──五十嵐さんと山崎さんから、震災を契機としてこの展覧会の企画が建築全体を考えるものになったというお話がありました。発災以来、復興の前線に投げ出されている私がここに呼ばれたのは、そうした理由からかもしれません。大学でも教えていますが、「せんだいメディアテーク」や「横須賀美術館」「くまもとアートポリス・苓北町民ホール」といった厄介な事業で、実務家として設計の前提をつくる仕事に携わってきたことが、復興で多くのフィールドに巻き込まれている遠因のようにも思います(fig.1)。

fig.1

震災復興は、外から見ると特殊なことのように見えますが、実際は普通の作業の積み重ねです。ただ、通常数十年掛かることを数年でこなさなければならないため、社会が一般的に抱える問題が凝縮されて見え易くなっています。今日はそのあたりが共有できるとよいのかもしれません(fig.2, 3)。

fig.2

fig.3

まず、3年半以上経過してしまったので、当日の津波の映像から見ていただきましょう。津波は一般に長い周期を持つので、巨大な波がいきなり迫るというより、徐々に水位が上がり、防潮堤を超えて流れ込むことが多いようです。そして引き波により陸の構造物はほとんど海に引っ張り込まれてしまいます。500kmにわたる海岸線がこのように何もない状態になってしまいました。
復興庁の復興進捗状況のデータによると、瓦礫は9割方が片づけられ、道路や防潮堤などもかなりの部分がすでに着手されています。一方、復興住宅はようやく立ち始まった段階で、土地区画整理についてはさらに時間がかかりそうです。水揚げ高は全体で7割ほどが戻っているようですが、中小企業の売上は40%しか戻っていません。つまり土木インフラが再整備され、水揚げも戻りつつありますが、販路を失ったためか、ビジネスとしては厳しい状況が続いています。
また、震災前100坪近い家で三世代同居していた人たちが、10坪ほどしかない仮設住宅に移行することで起こる世帯分離も深刻です。親世代が元の住所に近い「仮設住宅」、子世帯が「みなし仮設」と言われる仙台などの都市近郊の借り上げアパートと、ばらばらになることが多いのですが、そうすると高台がやっと完成しても、すでに3年以上経過しているので、子世帯は自分たちの子どもが上の学校に進学して、仮だったはずの場所を離れられなくなっています。そうすると、親世帯が自力再建を諦めて単独で公営住宅に入ることになって地区人口の再生産性が失われていく。
これは、三陸のある市の発生直後と現在の写真を比べたものです。瓦礫は片付いていますが、全体としてはあまり変わっていません。ただし、造成はどんどん進んでいます。今回の展示にも写真が出ていますが、山を削った土を送るために全長500mの巨大なベルトコンベアが設けられています。土地全体を5〜10m嵩上げして、その上に新しく街をつくろうとしているのですが、先に挙げたような世帯分離などが進行しているので、巨大なコストをかけて嵩上げしてもどの程度人が戻るのかは、予断を許しません。住む場所が出来ても仕事や教育のための環境が担保されなければ人は戻らないのです。
リアス式海岸の沖積平野で、大きな被害を受けたところは、このような大規模な嵩上げによる再生が図られていますが、比較的大きな街で、中心部の機能がかなり残存しているところは、ひとつひとつの土地を精査しながら、根気強く街の再生を図る道を選択しなければなりません。この場合は土木的な対応だけではなく、建築的対応が重要になってきますが、建築の査定は非常に厳しいので、苦労させられています。
そうした課題が出る背景のひとつに、通称「2─2ルール」の運用があります。国の防災会議は津波をレベルIとレベルIIに分けましたが(fig.4)、前者は数十年に一度起こる規模のもので、チリ地震津波、昭和三陸地震津波、明治三陸地震津波、など。後者は2011年の東日本大震災、その前は1611年の慶長三陸津波、さらに前が896年貞観地震津波となります。貞観地震津波は、近年ボーリング調査によって科学的にも存在が確認されました。周期が長いので、いつかは来ますが、いつかはわからないという類のものです。そこで最初は、レベルIは防潮堤で止めるが、レベルIIは避難で対応することが決められました。でも「ついこの前レベルII津波が来たばかりなのに避難だけというのは無責任だ」という声が上がって、「レベルIIの津波で2m以上浸水が想定されるところには街をつくらない」というこのルールがつくられたわけです。それなりに合理的ではありますが、レベルIIの高さが高いリアス海岸などになると微妙なことになります。嵩上げの高さが信じられない値になるのはこのルールのためなんですね。それでも嵩上げが許されたところはまだましで、コストがかかるために嵩上げが認められなかったところは、巨大なレベルI防潮堤(fig.5)をつくったにもかかわらず、レベルIIで後背平地は2m以上浸水するので、山を削って猫の額のようなところに住まなくてはならなくなる(fig.6, 7)。確率として400年に一度なのにも関わらずです。

fig.4

fig.5

fig.6

fig.7

このように理不尽な仕組みが沢山ある中で、どのようにしたら現実にうまく適合できるのか。復興の現場では、この冷徹なシステム(fig.8, 9)をある程度受け入れて、丁寧かつ忍耐強く仕事をしなければなりません。アーティストが被災地に入ってそれなりに仕事が出来ているように見えるのは、こうしたシステムから距離を取れるからなのです(fig.10)。その一方で、建築家はシステムの中に入らなければ仕事ができない。そのような仕組みの中では、さまざまな主体が複雑に関わっているので、面倒な調整も生じてきます。さらには、お金の流れも複雑になっています。必然的にそれを動かすための書類をつくる作業も膨大となります。加えて、こうした情報が効率よく共有されていればいいのですが、自治体ごとに行なわれるので、非常に非効率でもある。
また、内部に入っている人(fig.11)にはこのような面倒に関わりながらも守秘義務があるので、あまり発信することが出来ない。一方で、周辺をうろついている人たちはもともと発信が目的だから、ガンガン発信する。そうすると市場に出回るのは、周辺の情報ばかりでそれがすごい勢いで消費されていく。
これらのさまざまな矛盾を調停して、血の通った復興にするためには、問題を共有・調整・発信するプラットフォームが必要だと思います(fig.12)。いま私が関わっているプラットフォームはいくつかありますが、ひとつは東北大学災害科学国際研究所の災害復興実践学分野です。建築と土木と都市計画の専門家がチームを組んで包括的に物事を考えています(fig.13)。もうひとつ、展覧会に出展されている「アーキエイド」さんにもお世話になっています。建築家が個人の枠を超えてネットワークを組むもので、震災発生直後には、石巻市牡鹿半島に入って、たった10日で200ページ以上の詳細な報告書をつくってくれました(fig.14)。

fig.8

fig.9

fig.10

fig.11

fig.12

fig.13

fig.14

東日本大震災における建築家による復興支援ネットワーク[アーキエイド]震災復興に向けての住民からのヒアリング風景(横浜国立大学大学院 Y-GSA小嶋一浩スタジオ、宮城県牡鹿半島鮎川浜)
© ArchiAid

合意形成に関する事例を紹介することから始めさせて下さい。隣接するA市とB市の事例です。A市は初期に素晴らしいスターを集めて、野心的な計画を立ち上げました。一方のB市は、地元出身のランドスケープの先生が頑張られて、われわれも支援しながら丁寧なボトムアップで計画をつくり上げました。色々と不幸な条件が重なったのですが、A市は反対が多く出てまだまだ時間が掛かっています。一方のB市は住民の合意を取り付けるだけではなく、緑地の管理や公営住宅まで丁寧にでた上で、新しい土地に人々が住み始めています。犯人探しをしてもしょうがないのですが、合意形成に失敗すると恐ろしい結果が待っているという例です。
では、合意形成はどう取れば良いのか。鮎川という金華山の麓にある鯨で有名な街は、中央が津波でやられてしまいました。残存している街に隣接した東部と既存の街から離れた高台である西部、二つの土地が用意されました。最初のアンケートでは、西部に希望が集中して、既存市街地とはバラバラになりそうでした。その後、アーキエイドさんとわれわれ災害研で、土木、建築、歴史などを精査しながら東部を中心に街を再生する案(fig.15)を見せながら、再度アンケートをすると、東側に住みたいという人が過半数になり、便利でコンパクトな復興な案が支持されるようになりました(fig.16)。通常は、アンケートの結果は絶対なのですが、その逆のやり方で合意が得られたという事例です。

fig.15

fig.16

次に、孤独死の問題について述べさせて下さい。阪神大震災では、仮設住宅から本設の公営住宅などに移った後で孤独死が続出しました。その原因を丁寧に調べられた田中正人さんの話によれば、アルコール依存、未婚、無就業、つまり社会と切れていることが原因で起こるようです。これは孤独死がおきたある公営住宅の写真ですが、住戸は非常に閉鎖的状況にあります。こうした予備軍は積極的にはコミュニティ活動に出てきてくれないので、環境の中にちょっとしたアウェアネス(気付き)やきっかけをつくらなくてはいけません。建築の出番なわけですね(fig.17)。偶然ですが、発災前に阿部仁史さんとコミュニティ重視型の「仙台市荒井市営住宅」(fig.18)をつくっていましたので、それを応用することを考えました。南の居間に玄関を設けたリビングアクセスという方式です。北側廊下ではないので、プライバシーの問題などで設計が難しいのですが、それをこなせる能力のある人間を設計プロポーザルで集めて実現しようとしています(fig.19)。さらには、建築と共に地域の見守り体制もセットでつくっています。これらはすべて七ヶ浜町という被災地で最小の自治体での事例なのですが、住民と行政の距離が近いから出来ることだとも思っています。

fig.17

fig.18

fig.19

釜石では伊東豊雄さんが市長と「かまいし未来のまちプロジェクト」を展開しています。魅力的な環境でなければ人はどんどん出て行ってしまうので、街を優秀な建築家と一緒につくりましょうということに同意してくれた結果です。そのひとつに平田晃久さんにお願いした公営住宅計画があります。第一部の展覧会にも出展されていますね。しかしながら、しかし事業が集中して建設価格が急騰している被災地では、標準価格に収めても実勢価格に合わないという問題に直面します。たとえば、悪天候でコンクリート打設がずれると、職人は翌日には別の予定が入っていているので、お金を積んで別なところから人を確保しなければなったりするわけです。そうしたリスクを見込むため、建設会社は普通の値段では札入れをしないわけです。良い案だったんですが、結局、誰も引き受けてくれなくて、ダメになってしまいました。そのあと、建設会社に建築家と組んでもらうデザインビルドという枠組みに転換して、平田さんのコンセプトを引き継いでもらっています。
このプロジェクトを取ってくれた千葉学さんはハウスメーカーと組んでいろいろ調整しながら非常に丁寧にやってくださっています。このタイプの住宅が複数、比較的近接した地区に建てられるので、こうしたコミュニティに開かれた公営住宅をまちづくりの核にすること枠組みが進行中です(fig.20)。

fig.20

同時に釜石では大規模商業施設を誘致して街の再生を図る仕事も進行中です。これは諸刃の剣で、これによって既存の街から人が吸い上げられる危険性もあるのですが、何か求心力がないと人は戻ってこないという苦渋の選択です。最初は、入口が街と反対側につくられてしまいましたが、厳しいやり取りをして、新しく街側にも入口をつくってもらいました。そこには、オンサイトの長谷川浩己さんに広場をデザインしてもらい、仙台の若手であるアーキボックスに共同店舗を、そしてプロポで選ばれたヨコミゾマコトさんの設計による「釜石市民ホール(仮称)及び釜石情報交流センター(仮称)」が立地予定です。このホールは既存市街地の幹線に接しており、大型物販店から街の中心へと人を導入する仕掛けとなっています。こうした丁寧な設定の一方で、別な問題も生じてきます。復興によって新しい公共物がどうしても増えるのですが、人口が減るなかで、今後それらの光熱費や維持費をどうしていけるのかという課題です。これらにも気を配っていかなければいけません。
専門家の役割は、行政と専門家を超えて、互いにやり取りするのが正しいのですが(fig.21)、ガバナンスが不足すると、専門家と住民が癒着した関係になります。住民は野心的先導者と、行政は御用学者とそれぞれくっついて両者対立の構図になります(fig.22)。行政にも問題はありますが、建築家がゲリラになってしまうと、システムを変えるための対話はできません。なので、やはりプラットフォームが必要です。

fig.21

fig.22

最後に福島の話です。避難勧告区域に住んでいた人は、いわき市や福島市や県外などにバラバラにいます。その方々を今後どう束ねるのか。また、人口動態を見ると、お年寄りは戻りますが、若い人たちは戻ってきません。冷徹な広域データと各自治体の復興計画があまりリンクしていないという問題があります。科学的に戦略を考えなくてはいけません。さらには、避難生活の長期化も問題ですので、たとえばお祭りの時だけ帰るなど、さまざまな議論が継続されています。これらは日本建築学会の特別委員会で突っ込んだ議論が始められています。
このように復興は現在進行形の課題であり、現代社会が直面していく、高齢化、孤独死、コミュニティ、公共物管理の問題などを先行して解くことを求められる事業でもあります。ですから、日本全体の課題としてしっかりと位置付ける必要があると思っています。
最後に少し宣伝ですが、2015年3月14日から、こうした問題を議論・共有する国連防災世界会議が仙台で開かれます。もし機会がありましたら期間中、仙台へぜひお越しください。


201412

特集 金沢21世紀美術館「ジャパン・アーキテクツ」


3.11以後の建築
このエントリーをはてなブックマークに追加
ページTOPヘ戻る