ストリート・ファイト、あるいは路上の痴話ゲンカ

柳澤田実(哲学)
お花見の場所とりをしている2人の会社員がいる。ひとりは男性、もうひとりは女性。話口調から推察すると、男性のほうが先輩で、敬語を使っている女性のほうが後輩のようだ。満開の桜の木の下におなじみのブルーシートを広げた2人は、ちょっとした口論をしている。占拠した場所がトイレの目の前だから、「移動して別の場所を探した方がいい」という男性に対して、女性のほうは移動したがらない。トイレは臭うから部長に怒られるという男性に対して、女性は、部長がトイレに行きたくなった時には、こんなに近いから誉められるだろうと返す。自分たちのすぐ後ろにあるトイレをもう一度見て確認しろという男性に対して、振り返ってトイレを見た女性は「わーお城!」と返す。女性の発言に対して、男性は「おまえ、どんだけ頭の中がメルヘンなんだよ」と突っ込む。次に男性は、今度は社会的評価という文脈を持ち出す。要するに、花見でどのような場所を選定したかが、今後の社内での評価につながる可能性を示唆するのだ。女性は「花見査定」や「花見でよい場所とった手当」があるのかと尋ねた後で、それでもなお、もしそういう手当がないなら「私はここを動かない」と言い張る。

『Peeping Life -Perfect Edition-』
(監督=森りょういち、2009)
以上は、森りょういちが監督を務める『Peeping Life』という映像シリーズのひとつ「花見の場所とり」の一部だ。こうしたやり取りが続いてくなか、映像は静かにフェードアウトする。たった6分強の作品なので、実際に観ていただいたほうがよいと思うのだが、最低限の解説はしておこう。森りょういちが監督を務める作品は、全編CGで制作されており、絵柄としては無重力的で軽い空気感と希薄な身体性が特徴だ。しかし、アンリアルかと言うとむしろ正反対で、むしろそこで繰り広げられるドラマ、とりわけ会話が非常にリアルなのが特徴である。その理由は、通常のアニメーションとは異なる、『Peeping Life』の制作行程に求めることができる。森の制作チームは、まず入念に状況設定について話し合い、その設定について5行程度のメモ書き(「どんな人が、どう悩んで、どう揉める、みたいな感じ」★1)にまとめるのだという。そして、その設定をもとに俳優たちに即興を演じさせ、彼らの演技をビデオで撮影し編集するのだそうだ。その編集された映像をもとに、俳優たちの演技はCGに起こされ、最後に音響を入れて完成する★2。即興の会話には、沈黙もあり、俳優が想定外の相手の反応に笑い出してしまったり様々なハプニングがあるという。そうした偶然的要素もうまく利用しながら、作品は10分前後の映像に編集される。要するに『Peeping Life』のリアリティは会話の即興性に根ざしているのだ★3

『Peeping Life -The Perfect Extension-』(監督=森りょういち)予告編

今回「ストリート」という主題を考えるに際して、この『Peeping Life』という同時代の作品を採り上げてみたい。2008年以降、シリーズものとして現在も制作され続けているこの映像作品は、現代日本の様々な文化的様態に対して、批評的なスタンスを取り続ける、極めてウィットに富んだコメディだ。「様々な文化様態」とはいかにも大雑把なまとめだが、事実『Peeping Life』には中学生が興じるアイドル文化やいわゆるコミケなどのオタク文化、ヤンキーやラッパーやギャルに代表される所謂ストリート・カルチャー、Youtuber、さらには「花見の場所とり」のような会社カルチャーからひいてはニートなど、ありとあらゆるジャンルの文化の担い手たちが登場する。

『TOKYO TRIBE』(監督=園子温、2014)
一般的に言って、「ストリート」とは、基本的にメインストリームやそうした大多数と結託した権力機構に対するアンチテーゼ・異議申し立ての場である。そのアンチテーゼの表出様態は極めて多様であるため、その定義もまたあまりに多様ではある。が、落書き(グラフィティ)にしても、ヒップホップやラップなどの音楽にしても、ストリート・カルチャーが、メインストリームの大衆文化や管理型権力に対するプロテストの表現として生み出されてきたことについては異論がないだろう。チーマーやヤンキーが形成する族(トライブ)同士はしばしばケンカをすることでも知られるが、こうした暴力的な闘争もまた彼らの表現であり文化のひとつだと言えるのかもしれない。映画にもなった漫画「TOKYO TRIBE」に代表されるように、ラップでもヒップホップダンスでもバトルという形式は必須であるし、ケンカそのものが公序良俗を維持しようとする国家権力や大多数の一般市民に対する抵抗になっているのは間違いがない★4

『Peeping Life -The Perfect Fan Book-』
(東京ニュース通信社、2014)
こうした闘争的性格を持ったストリート・カルチャーに対して、『Peeping Life』はあっさり「闘わない」ことを明言する。ストリート・カルチャーの担い手であるラッパーやヤンキーも『Peeping Life』には登場するが、ラッパーはリズム感のない彼女と仲睦まじくミニバンの車中でラップの掛け合いをし、ヤンキーは自動車教習所の強面の教員に振り回され、いずれにしても戦いとはおよそ縁遠いシチュエーションを生きている。また『Peeping Life』製作陣は、2013年に手塚プロダクションとタツノコプロとコラボレーションを行ない、アトムやヤッターマンやキャシャーンといったヒーローたちが登場する作品を制作しているのだが、それに伴って公刊されたムック『Peeping Life -The Perfect Fan Book-』(2014)収録のインタビューで、森りょういちはこう語っている。「どうも僕、戦うのが好きじゃないらしいんですよ。人間って結局、戦うヒーローみたいに世界を救わないじゃないですか」★5。たしかに『Peeping Life』版のヒーローたちは、腕力にものを言わせて戦うことがない。映画『Peeping Life -WE ARE THE HERO-』では、冒頭に地球を襲う怪獣が登場し、ヒーローたちが集結するまでのドラマが展開するが、最終的に怪獣は単なる迷子だったということが判明し、戦闘は回避される。またヒーローたちが集まるまでのプロットにおいても、たとえばヤッターマンの敵役・ドロンボ──味のボヤッキーは、怪獣襲来という一大事にもかかわらずフォークリフトの免許を取りに行ってしまったヤッターマン一号の代役を務め、ヤッターマン2号とヤッターワンに搭乗することになるのだ(しかもコンビ名も両者を合体させた「ヤッタッキー」に改名される)。

『Peeping Life -WE ARE THE HERO-』(監督=森りょういち、2014)予告編

とはいえ『Peeping Life』はけっして短絡的な平和主義に陥っているわけではない。というのも、私にはこの点が非常に興味深いのだが、『Peeping Life』のほとんどの作品は、冒頭に挙げた「花見の場所取り」に明らかなように、「戦い」とは呼べないほど小規模ではあるが、ある種の「対立」「揉め事」を状況設定として組み込んでいるからだ。それらは、極めてスケールの小さい問題を巡る衝突(コンフリクト)ではある。新しい服を十分に誉めてくれなかったと怒り狂う彼女となだめる彼氏のやり取りだったり、合コンで同じ服を着てきてしまった女子同士の口論だったり、あるいは娘の携帯電話を見たくて仕方がない父親とそれを阻止しようとする娘の攻防だったり。こうした問題のスケールの小ささそれ自体が面白いことは言うまでもないけれど、同時に問題の小ささに比して、あまりにも真剣なやり取りが笑いを誘う。ささやかな「揉め事」として繰り広げられている『Peeping Life』のコミュニケーション。これをストリート上の闘争と対比するならば、どのように解釈することができるのだろうか。

精神科医の斎藤環が発案して以来、多くの批評的言説に登場するようになった「毛づくろい的コミュニケーション」という概念がある。「毛づくろい的コミュニケーション」とは、他者に承認されることが最良の価値となった日本社会のなかで、個々人の「キャラ」を確認し合うために行なわれる情報量の少ないコミュニケーションであるとされている。斎藤はこの「毛づくろい的コミュニケーション」を、日本社会のサイレント・マジョリティを形成する「ヤンキー文化」を語るための概念としても用いている★6。そして、無目的で情報量も少ないが、とりあえずその場を盛り上げることのできる「毛づくろい的コミュニケーション」こそ、ヤンキー的なコミュニケーションであり、こうしたコミュニケーションに秀でた者こそが、ヤンキー文化がマジョリティを占める日本社会において最もリスペクトされるのだと斎藤は言う。ヤンキー同士のケンカについて、斎藤は直接分析を行なってはいない。が、おそらくケンカもまた、自分自身を無限に超えた他者との邂逅や衝突というよりは、自己自身のキャラと序列の確認行為として、あるいは族同士のキャラの相互承認と序列化として位置づけられるのではないだろうか。

『Peeping Life』で繰り広げられるコミュニケーションもまた、一見すると「毛づくろい的」だ。『Peeping Life』は男女およびニューハーフも入り交じった何組かのカップル(必ずしも恋愛関係にはない)を基本としており、しかもごく少数の例外を除いて、対話は2名で行なわれている★7。そして冒頭に描写した「花見の場所とり」でも明らかなように、たいていボケ役とツッコミ役が決まっている。また対話のなかで伝達される情報量はお世辞にも豊富とは言えないし、目的志向性も弱く、そのやり取りは冗長である。またノリや勢いといったヤンキー的コミュニケーションの特徴も随所に見られ、そこが笑いのポイントになっているのも間違いがない。そもそも日本人の日常を作品化することを意識的に行なっている森は、その概念こそ知らないかもしれないが、日本人のコミュニケーションの「毛づくろい」的特徴を必ずや知悉していることだろう。しかし、『Peeping Life』のコミュニケーションが「毛づくろい的コミュニケーション」に収まりきらないのは、「毛づくろい的コミュニケーション」ではキャラと序列が変化することなくコミュニケーションが進むのに対して(だからこそ「毛づくろい的コミュニケーション」は若年層のスクールカーストを強化すると言われる)、『Peeping Life』で繰り広げられるコミュニケーションにおいては、対話者同士の関係性が不確実性に晒されているからだ。端的に言うと『Peeping Life』では双方の立場・キャラが時に入れ替わったり逆転したりする。「花見の場所取り」でも後輩がしばしば先輩に対してタメ口になったり、命令口調になったりするが、別の作品では、よりドラスティックに上司と部下の関係が逆転したりといった状況も見られる。たとえば歴史を題材にした「エジプト王妃の恋愛相談」では、クレオパトラがカエサルとの遠距離恋愛に悩み下女に何気なく相談した結果、下女のほうが「今は誰が先生ですか?」と上から目線で言い放ち、王妃に対して堂々と命令し始めるのである。

『エジプト王妃の恋愛相談 Peeping Life -World History- #04』(監督=森りょういち)

『Peeping Life』は即興の演技をベースにしているとはいえ、あくまでも再構成されたフィクションであるから、作品中の会話をそのまま自律的に展開したコミュニケーションとして取り扱うことはできない。したがって、本作に見られる社会的立場の転倒や平等化は、自然発生的というよりは、あくまでも意図的に(ある意味で作者・森りょういちのフィロソフィーとして)仕込まれた仕掛けとして捉えられるべきだろう。しかし、それでもなお、『Peeping Life』が示す、社会的な関係性の変容をも含み込んだフレキシブルなコミュニケーションは、日本社会にはびこると言われる「毛づくろい的コミュニケーション」を異化し、コミュニケーションの内側から何らかの突破口を開くために示唆的であると私は思う。

ここで「毛づくろい」をリアルに研究する霊長類研究を参照してみよう。「毛づくろい」が相互承認的で序列確認的、つまり政治的なコミュニケーションであることについては、霊長類研究も認めるところである。一方的に行なう「毛づくろい」は、あくまでも親しいもの同士でしか起こりえないし、相互的な「毛づくろい」=「対角毛づくろい」では、お互いをある程度対等な者として認め合っているかが試される★8。こうした言わばポリティカルな「毛づくろい」に対して、より冗長で複雑なのは蟻つり場でのコミュニケーションだと言われる。蟻つり場でのチンパンジーの母子のコミュニケーションを観察した京都大学野生動物研究センターの西江仁徳は、子供がひたすら母親の棒を奪おうとし、奪っては投げ捨て、母親は母親でなんとなく子供を阻止したり、時には棒を与えたりといった何とも首尾一貫しないやり取りを記録している。西江は以上の観察から、蟻つり場でのコミュニケーションでは相手の出方への対処が中心になるため意図が不明瞭になり、あえて言葉を与えるならば冗長性、抑制、受動、保留といった側面が目立つと結論づけている。

西江はこうした冗長性、抑制、受動、保留に関連し、このようにも述べている。「他者の行為を『指示』したり『命令』したりすることによって、『他者の行為を変更する』ことが困難な場合、自分にできることは他者の行為に自分の行為を何らかのかたちで接続すべく『自分の行為を変更・調整する』ことだろう」★9。また、「......場合によっては『どうしたらよいかまったくわからない』という行為不可能な状態に陥ることもあるが、おおむねそうした困難を回避できるのは『とにかく何か行為してみて相手の反応をみる』というある種の『場当たり的な対処』をしてみることが可能になっているからである」★10。チンパンジーとは異なり、あくまでも言葉でコミュニケーションをとってはいるが、『Peeping Life』もまた「指示」や「命令」によって「他者の行為を変更する」ことが困難であるがゆえの「揉め事」を描くことが多い。その結果生じる「場当たり的な対処」、冗長性、抑制、受動、保留がきっかけとなり、立場やキャラの変更が生じているように見える。私はこうした冗長なコミュニケーションを西江が母子のなかに見出したことは偶然ではないと考えている。この問題について今回仔細に論じることはできないが、実際、人間の大人と子供同士でも、上記のようなコミュニケーションは頻繁に起こるのであって、大人はとかく子供をボケとして扱い自分はツッコミのような自己認識に立っているが、大人が子供の思わぬ反応に全くとんちんかんな「場当たり的な対処」をすることで子供に突っ込まれ、立場が逆転したりするからだ。

斎藤環はヤンキー的な倫理(エートス)を母性的だと評しており、父性的な切断ではなく、おせっかいな介入や身体的な支配によって特徴づけられると述べている。母性的なヤンキーが行なうコミュニケーションが「毛づくろい的コミュニケーション」だとしたら、当然「毛づくろい的コミュニケーション」も母性的ということになるだろう。震災以降何かと絆が強調され、またSNSなどの浸透による相互監視的体制が強まったことで、最近では、繋がりが過剰化していること、そしてかえってコミュニケーションが形骸化していることなどが批判されている。しかし、そこで反動的に父性的な切断を持ち出すことだけが唯一の道ではないだろう。主張が一貫しない母性的な★11コミュニケーションは、場当たり的で冗長であるがゆえに、関係性を弛緩させ、フレキシブルにする可能性を胚胎しているのではないだろうか。序列を決めるための殴り合いのケンカではなく、序列を撹乱していく冗長な痴話ゲンカの可能性。私が『Peeping Life』に見出すのはそのようなサジェスチョンである★12



★1──http://www.tvguide.or.jp/news/20141128/06.html
★2──『Peeping Life -The Perfect Fan Book-』(東京ニュース出版、2014)35頁。
★3──その意味で本作は、演劇の方法論にも強く立脚している。森りょういちは学生時代にイッセー尾形の公演を観て感動し、イッセー尾形作品の演出を務める森田雄三のワークショップに参加したのだそうだ。そのワークショップの経験から、即興芝居をCGに起こすという制作方法が生み出されたという。『Peeping Life』の身体性と現代演劇との関係は、非常に興味深いテーマである。『Peeping Life -The Perfect Fan Book-』32頁。
★4──もっともストリート・カルチャー自体の展開(「ヤンキー」→「チーマー」→「ギャル」)のなかで、暴力が忌避されていく傾向があるという。斎藤環『世界が土曜の夜の夢なら──ヤンキーと精神分析』(角川書店、2012)37頁。
★5──斎藤環『承認をめぐる病』(日本評論社、2013)。
★6──斎藤環『世界が土曜の夜の夢なら──ヤンキーと精神分析』。
★7──唯一1名しか登場しないのは、監督の森りょういち自身が好演(怪演)する「オタクくん」と言われるキャラクターが登場するシリーズで、彼のみが一人でボケとツッコミの両者を務め自己自身と対話を続ける。
★8──中村美知夫「同時に『する』毛づくろい──チンパンジーの相互行為からみる社会と文化」(『人間性の起源と進化』昭和堂、2003、264−292頁)。
★9──西江仁徳「相互行為は終わらない──野生チンパンジーの『冗長な』やりとり」(『インタラクションの境界と接続──サル・人・会話研究から』昭和堂、2010、393頁)。
★10──同書。
★11──言うまでもなくこの「母性的」という形容詞は性差としての女性を意味しない。ヤンキー文化では、男性もこの母性的コミュニケーションの担い手であるし、『Peeping Life』では老若男女(ニューハーフなどジェンダーフリーな人も含む)の様々な組み合わせで冗長なコミュニケーションを展開する。このこと自体、かつてのストリート・カルチャーのホモソーシャリティに対する批判になっていると言うこともできる。
★12──本稿では「ストリート」を狭い意味に採っているが、たとえば毛利嘉孝の『ストリートの思想──転換期としての1990年代』(NHKブックス、2009)の立場に立ち、複数の立場(マルチチュード)による撹乱の可能性を「ストリートの思想」と理解するならば、『Peeping Life』はまさに「ストリート」的だと言うべきだろう。




柳澤田実(やなぎさわ・たみ)
1973年生まれ。関西学院大学神学部准教授、哲学、生態学的アプローチによる協働性研究。共著=『ディスポジション:配置としての世界──哲学、倫理、生態心理学からアート、建築まで、領域横断的に世界を捉える方法の創出に向けて』(現代企画室、2008)、『知の生態学的転回3 倫理:人類のアフォーダンス』(東京大学出版会、2013)ほか


201504

特集 ストリートはどこにあるのか?
──漂流する都市空間の現在


ストリートの終わりと始まり──空間論的転回と思弁的転回の間で
空間の静謐/静謐の空間
アンチ・エビデンス──90年代的ストリートの終焉と柑橘系の匂い
ビザール沖縄──石川竜一の作品についての少しのコメントと、多くのボヤき
ストリート・ファイト、あるいは路上の痴話ゲンカ
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