第三世代美術館のその先へ
展示手法の確立
- 五十嵐太郎氏
共通して展示する新規の模型は何分の一でつくるのが適当であるかも検討します。1/50の模型であれば都市との対応関係が見られますが、1/30の断面模型では建物の内部の詳細がわかります。もちろん、原資料は大事ですが、建築の場合は実物を展示することはできないので、どのように見せ、何を伝えるかを考えることが重要です。
村田──確かに展示手法がほぼ固まっている絵画や彫刻といった美術品の展示と違って、他ジャンルのものを扱う展示や展覧会はそこから考える必要がありますね。建築以外にも、最近ではマンガやファッション、音楽を扱った展覧会も頻繁に行なわれるようになりましたが、展示のカタチが定まっていないので、試行錯誤をしている様子が見受けられます。個人的にはミュージアムという空間を考えるうえでそれが非常におもしろいんです。五十嵐さんは建築が美術館のなかでどう展示されうるかという手法を今まさに開発している最中でいらっしゃるわけですよね。建築家ではなく、建築史や建築批評がご専門の五十嵐さんだからこそできるようなことはありますか。
五十嵐──建築家でも展覧会をつくれると思いますよ。アートは業界的にプロデューサーやキュレーターといった、アーティストと観客を媒介する層に厚みがあり、アーティストの制作した作品をどう見せるかは他の人の手に委ねられているところがあります。しかし、基本的に建築家はセルフ・プロデュースしてしまうので、建築業界でキュレーターが成立しづらいのはそのあたりの事情もあると思います。もともと、全体の仕事をディレクションすることが建築家の職能に含まれているので、自分の仕事を俯瞰して見る人が多く、キュレーターが介入する余地があまりないのでしょう。設計事務所とは、個人名を冠していても、実際には複数の建築家からなる集合体です。スタッフである建築家が案をつくり、それを統合させながらオーガナイズしていくのが事務所のトップの建築家の作業であるわけですね。ですから全体のディレクションという視点が建築家にはそもそも含まれていることが多いんです。
ただ、複数の建築家を紹介する展示の場合は、第三者としてぼくのような立場の人間がいたほうがいいと思いますが。
村田──なるほど。自分の作品を俯瞰し、さまざまな意見を統合して第三者へ伝えることがそもそも建築家の職能に含まれているということですね。
一方で、建築分野では美術館で展示されることが評価に関わることはほとんどないとおっしゃっていましたが、建築家は自分の建築が美術館で展示されることに関心をもっていないのでしょうか。
五十嵐──アーティストは展覧会が重要な作品の発表の場ですが、建築家はそうでない。例えば丹下健三は、かつてMoMAから展覧会の依頼を受けたにもかかわらずそれを断ったらしい。彼は実際につくる建物に興味があるのであって、その展示は興味の外にあったのでしょう。
例外的な建築家として磯崎新さんがいます。彼は自分の建築を芸術作品として、あるいは展覧会として自分の建築を残すことに関心があるのだろうと思います。磯崎さんは木製の模型を制作しますが、これはとても頑丈で、実際にルネサンス期の木製の模型がいまだに残っていることを考えると、100年持つとは考えにくい日本の公共施設よりも、模型のほうが長く残る可能性が高い。現在そうした模型やドローイングは、大分県立図書館をリノベーションしたアートプラザ・磯崎新建築記念館に収蔵されています。
村田──磯崎さんは美術館の展示もご自身の作品として捉えられていますが、逆説的に、一般的には建物こそが作品だから、それに付随する模型やドローイングなど、展示品になるようなものはその代理に過ぎないという認識だということですね。
五十嵐──アート・ワールドでは最終的に美術館が作品を購入することが重要ですが、建築家には、模型やドローイングを売るという考え方はほとんどありません。現代建築をコレクションしているポンピドゥ・センターやMoMAの建築のセクションも必ず作品を購入しているわけではないように思います。「ジャパン・アーキテクツ 1945−2010」展で展示された資料の幾つかは、展示後にポンピドゥ・センターのコレクションになることが決定していますが、寄贈が多いのではないでしょうか。2009年に都内のギャラリーのいくつかで、建築作品もギャラリーが扱って値段をつけて取引できることを提示しようとする試みがありました★1が、ここ最近は行なわれていませんね。
コレクションと作品評価という話に戻ると、2013年にようやく国立近現代建築資料館ができました。アート作品としての模型でなく、網羅的なアーカイヴとして資料の保管をめざしていますが、すでに膨大な量となり、収蔵する場所で苦労しているようです。
ポピュラーカルチャーの収蔵と展示
五十嵐──美術作品以外のものをきちんと収蔵していく、あるいはアーカイヴしていくための試みとしては三宅一生氏らが構想する国立デザイン美術館や、マンガのコレクションである国立メディア芸術総合センター構想もありましたね。村田さんはマンガミュージアムに関する研究もされていますが、マンガやポピュラーカルチャーではコレクションすることの意義はどのように受け取られているのでしょうか。村田──国立メディア芸術総合センターは政権交代などによって立ち消えてしまいましたが、そもそもマンガ業界からの反応は賛否両論でした。マンガはカウンターカルチャーであり「国立」や「コレクション」といった権威とは相反しているという声もしばしば聞かれました。
ポピュラーカルチャーの場合には、まだ市場があることもあって、著作権と使用料の問題があります。ミュージアムに収蔵・展示することで、社会全体でこの文化を共有しようという考え方は残念ながら希薄で、出版社やレコード会社はミュージアムにとっては高額な使用料を当たり前のように求めてきます。こうした金銭的な問題や、先の展示手法の問題など、集客率はよくても、ミュージアムがこれまで扱ってこなかったものを展示するのはまだまだハードルが高いですね。
- 椹木野衣『後美術論』
(美術出版社、2015)
村田──ポピュラーカルチャーの展示として印象に残っているもののひとつに、ヴィクトリア・アンド・アルバート・ミュージアムで2013年に行なわれた「David Bowie is」展があります。まず、この第一世代の美術館がポピュラーカルチャーに舵を切ったこと自体が新しい時代の幕開けを感じさせたのですが、前売り券も早々に完売し、滅多に並ぶことのないロンドンのミュージアムで行列ができるほど大盛況でした。展示されていたのはレコードジャケットやライブ写真や映像、山本寛斎氏らが手がけたステージ・コスチュームや手書きの歌詞など、ポピュラーカルチャーの展示物としては比較的オーソドックスなものばかりでしたが、時代性やクロスカルチャーがきちんと意識されて展示が構成されていました。しかも、入口で全員にヘッドホンが配られて、展示室を歩くと、各展示に沿ったデヴィッド・ボウイの曲やインタビューが流れるのです。場所に対応しているので、別の場所へ移動すると、曲やインタビューが自動的に切り替わるようになっています。ですから、鑑賞者はいわば半強制的に文脈や物語がつけられた状態でコスチュームや写真を見ることになります。モノとじっくり向き合うという従来の美術鑑賞法とは異なり、視覚と聴覚を交錯させたポピュラーカルチャーの展示の新しいありかたかもしれないと思いました。
- 「David Bowie is」展
- 開かれた美術館/観賞から体験する美術館へ
- インタラクティヴな作品に呼応する空間/評価基準としての美術館
- 展示手法の確立/ポピュラーカルチャーの収蔵と展示
- 空間体験の重要性/作品の収蔵から情報のアーカイヴへ