第三世代美術館のその先へ

五十嵐太郎(建築史家、建築評論家)+村田麻里子( メディア論、ミュージアム研究)

空間体験の重要性

五十嵐──強制的に物語を体感するというと、アートでも映像作品は音と連動していますが、展示によっては暗い部屋でずっと座って見るのは、つらいものもありますね。

村田──そうですね。例えばある時期からビデオ・インスタレーションの展示が急激に増えましたが、作品ときちんと向き合おうとすると、決められた時間その場にいることを強要されるので、つらくなってしまうことはありますよね。
先の話に少し戻りますが、美術館が今後、美術館の外で起きた出来事のドキュメントとしての映像やパネル展示の場になってしまうとすれば、逆にそのバックラッシュとしてモノやモノの量でストレートに圧倒するような、ヴンダーカンマーやクンストカマー(驚異の部屋)的な空間に一方では逆戻りしていく方向性があるかもしれません。例えば第一世代といわれる美術館でも、時代を経るごとに作品数を減らしたすっきりとした展示をしているところが多いのですが、最近では開館当初の状態をあえて復元してタペストリーパターンでびっしりと絵画を並べたりしているのを見かけるようになりました。
あるいは、ヴンダーカマー、クンストカマー的なコレクションや、収蔵されていた人類学関係の資料を、まるでアートを展示するような設えでみせるというような展示手法も出てきています。これはパリのケ・ブランリ美術館がはじめた手法で、一部の人類学者たちからは強い非難にさらされながらも、今世界的に広がりつつあります。すでにあるコレクションを別の見方、別の文脈、別の感覚で見せていくような展示も増えてくる気がします。

「現代美術への視点──連続と侵犯」展
五十嵐──すでに発表された作品に対し、空間を変えて別の見方を提示することに関していえば、国立近代美術館では近年展示構成に建築家を積極的に入れていますね。キュレーターサイドがトラフや西沢徹夫さんといった建築家と共同して、普通に行なうと回顧的になってしまう作品を魅力的な空間のなかで展示しています。
こうした潮流のもとには、青木淳さんが「現代美術への視点──連続と侵犯」展(国立近代美術館、2003)で発表した「u-bis」があると思います。彼は作家のひとりとして参加しながらも、展示空間を区切る仮設の壁のなかに隙間を挿入し、美術館空間のなかにバグをつくるような、展覧会の別の見方を提示していました。
青木淳事務所の出身であるトラフが会場構成を手がけた川崎市民ミュージアムでの「横山裕一」展(2010)も空間がうまく構成されていましたね。マンガは二次元なので静かな展示になってしまいがちなのですが、彼らは会場をぐるっと回る楕円形のテーブルの上に横山裕一さんの原画を並べ、動的な展示空間をつくっていました。トラフは建築の作品こそ少ないものの、会場構成やプロダクトで活躍しています。「3.11以後の建築」展でも展示台には、トラフと石巻工房のコラボレーションであるAAスツールを用いました。
こうした会場構成の新しい流れは、建築家の持っている職能の発揮の仕方としてはとてもおもしろい試みですし、特に近代の──第二世代美術館で展示されてきたような──作品の展示として新鮮な見方を与えてくれます。これは今後展開しうる可能性のひとつでしょう。同じ企画展の巡回でも展示構成のつくりが違えばガラッと違って見えますからね。

村田──観客は作品単体を見ているわけではなく、作品が空間に収まった状態を見ているので、空間の在り方や作品の配置の影響力は大きいですよね。既存の作品に新しい見方、新しい物語を提示するという意味で、建築家による会場構成も空間のキュレーションということができそうですね。
第三世代を経て今後の美術館建築はどうなるのかというこの対談のお題とも関連しますが、この先は新築の美術館を建てることがますます難しくなっていくと思うので、そうなるとむしろ第一世代から第三世代までの既存の美術館をリノベーションするというかたちの美術館が目立ってくるように思います。あるいはすでに美術館のある敷地に新たに分館を建て、場合によっては通路などでつなぐ。そうすることで既存の美術館と新世代の美術館とが合体した新しいコンセプトの美術館をつくる。こうしたケースでは、既存の建物や、美術館の活動が既にそこにあるので、建築家がゼロからコンセプトをつくるのではなく、美術館が置かれている環境やコンテクストを考慮しながら新しい美術館をつくっていくことになります。ですから、必然的に展示方法や運営、ワークショップにも建築家が関わることになってくるのかもしれません。
ヨーロッパでも最近はリノベーションばかりです。ノーマン・フォスターの大英博物館ミレニアムコートが典型的ですが、第一世代美術館の中庭にガラス屋根を架けて美術館の面積を増やす手法があちこちで行なわれていますね。

五十嵐──フォスター以前にも、もともとリノベーションが多いヨーロッパではカルロ・スカルパのようにリノベーションや会場構成を多く手がけ、後にそこで得た方法を展開して、デザインを行なう建築家がいました。カステル・ヴェッキオ美術館はその最たるものです。
第一世代の様式建築、倉庫やモダニズム建築を展示空間へ変えるリノベーションは世界中で行なわれていますし、ある程度方法も確立されつつありますが、ポストモダン建築に手を入れなければいけない時代もそう遠くありません。
芸術監督を務めた「あいちトリエンナーレ2013」では、青木淳さんと杉戸洋さんに名古屋市美術館での展示(「赤と青の線」)をお願いしたのですが、あれは黒川紀章設計のポストモダン建築である名古屋市美術館のリノベーションの試みでした。くせのあるポストモダン建築のリノベーションができるとすれば、青木淳さんしかいないだろうと思って、彼に依頼しました。あの試みでは、元の空間が持っている性質をリスペクトしながら動線を変え、名古屋市美術館の違った側面を見せるということが行なわれました。もちろん普段の動線ではないので、鑑賞者は裏口から入りますが、しかしじつは、設計当時のスケッチを見ると、あまり見られていない北側がデザインのキーになっています。普段は南側の美術館のファサードだけを見て、そのまま同じ出入口から出るので、訪れた人からは建築として認識されていなかったこれまでの状況を変え、建築の全体像が見られるような構成になっていました。新しく何かをつくったりしなくても、ものの見方を変えるだけで、誰も知らなかった姿を浮かび上がらせるリノベーションになっています。
その展示を気に入ってくれた名古屋市美術館のキュレーターが「あいちトリエンナーレ」直後の「ハイレッド・センター──『直接行動』の軌跡」展でも青木さんたちの空間への介入を残した展示をしていました。

村田──今のお話を伺っていて、クリスト&ジャンヌ=クロードの「梱包」シリーズを思い出しました。かつて五十嵐さんが、建っているときは誰も気づいていなかった建物が取り壊されると急に存在感を増すことがあることをおっしゃっていましたが、クリストらの「梱包」シリーズは白い布で覆うことによって、普段は意識できない巨大な建物の形や輪郭を見る側に認識させますよね。「赤と青の動線」はそれよりも少ない操作で、見慣れた建築を認識させることに成功しているのかもしれませんね。

五十嵐──そのとおりだと思います。建築を勉強した人でなければ、一般に美術館を訪れる人は、まじまじと美術館の建築を見ることはないでしょう。また、建築家が設計時に試行錯誤した箇所が、普通の美術館体験で気づく場所にないことも往々にしてあります。近年の建築でそれを感じたのは日建設計のホキ美術館です。建築の関係者であれば、30m飛び出したキャンチレバーの建物として認識しているのですが、じつはあのキャンチレバーは入口とは反対側にあるので、美術館を訪れてもまったく気づかないまま展示を見てそのまま出てしまうことができるんです(笑)。来館者たちは、宙に浮いた場所を歩いているのですが、作品の鑑賞に集中しているとその部分が浮いていることになかなか気づきません。美術館の一部が飛び出た特異な印象とは裏腹に、前情報なしに訪れると非常に穏やかな美術館としか感じられないんです。

ホキ美術館(撮影=五十嵐太郎)

村田──確かに、多くの美術館が外を意識的に回らなければ気づかないデザインをもっていますよね。建物の外観は町と接合する部分なので町並みに対する影響は大きく、同時にひとつの記号でもあるので、モニュメント的に見えることは町にとっても重要なことだと思います。考えてみれば、美術館というのは、外観の表皮のような部分と、来館者の経験する内部空間という2つの側面がありますね。そして両者が来館者の意識のなかではつながっていないことが多いと思います。そういう意味では、はじめのほうで五十嵐さんが言及された金沢21世紀美術館の建物は、内と外がつながっている印象をどこからでも与えますね。通り抜けもできるし、内部での展示空間体験と外部の空間体験がシームレスにつながっているという点でもユニークです。

作品の収蔵から情報のアーカイヴへ

五十嵐──外観の問題もそうですが、展示以外の美術館の役割は一般的にあまり認識されていないような気がします。どうしても流行りを展示することが注目されてしまいますが、作品を継続的にコレクションする機能はあまり着目されませんね。

村田──そうですね、敷地面積を考えれば、展示スペースだけでなく収蔵スペースもかなりの面積をとっていますから、そのこと自体に本当は美術館の社会的意味があるはずですよね。美術館も、そうした展示の背後にあるものを今後はもっと見えるかたちで来館者に積極的に提示してはどうかと思います。例えば横尾忠則現代美術館では、美術館のアーカイヴルームをガラス張りにして来館者に見せていますが、美術館で働くスタッフの仕事や、美術館のコレクションの存在を伝えるよい方法だと思います。

五十嵐──日本ではあまり知られていませんが、美術館には教育・普及活動を行なうエデュケーターという職業がありますね。あいちトリエンナーレで教育・普及をお願いした菊池宏子さんは、自分の役割は美術館と地域との社会的な関係性をつくる職業であり、むしろコミュニティ・デザイナーなのだとおっしゃっていました。来館者数や地域に還元しているかどうかで美術館が評価される現代において、美術館の仕事をきちんと伝えるエデュケーターが、今後求められていくのではないでしょうか。
最後に、美術館がこれまで行なってきた「収蔵」と今後広がっていくであろう「アーカイヴ」の違いについて少し考えてみたいと思います。建築の場合、ポンピドゥ・センターなどの美術館が興味をもって収蔵するのは、アート作品としての模型やドローイングで、それ自体が作品としての価値を持つという判断の上に成り立っています。しかし、それ自体は美的な価値を持っていなくても、建築を理解するうえで必要な図面や模型、スケッチが数多くありますよね。国立近現代建築資料館がミュージアムではなくアーカイヴであると明示している理由のひとつは、美術館のコレクション選考基準からは外れてしまうけれど、資料価値の高い図面や模型の保存をきちんと行なっていくためのものでしょう。

村田──美術館に限らず、ミュージアムでは物理的なモノや作品を蒐集するという意識が強いためにコレクションという言葉を使いますが、アーカイヴという言い方だと、よりモノの情報的な側面が強調されますね。また、どういうかたちで後から活用されるかはわからないけれど、とにかく資源として集めておく、というニュアンスも出てきます。しかし、一方では、言い方を変えただけというケースが多いのも気になります。本当は「アーカイヴの思想」とは何かをきちんと吟味する必要があるんだと思います。
アーカイヴと記憶の問題も気になります。日本でも3.11以降、ミュージアムとアーカイヴと国家や地域の記憶とがどんな関係にあるのか考えるようになってきたと思いますが、ヨーロッパでは例えばホロコーストの問題などに関連してすでに長い議論があります。ベルリン・ユダヤ博物館やホロコースト記念碑の地下にある情報センターでは、発信されるメッセージが国家的な語りや「大きな物語」にならないように意識されています。展示はむしろ個人の記憶の集積として構成されていて、ホロコーストに直面した一人ひとりのユダヤ人たちの個人的で「小さな物語」がひたすら並べられている。その意図は非常によくわかるんですが、一方で、来館者の立場に立ってみると、掴みどころがなく戸惑ってしまうところもあります。アーカイヴと展示の関係について考えさせられます。

ベルリン・ユダヤ博物館(撮影=村田麻里子)

9.11メモリアル・ミュージアム
(撮影=五十嵐太郎)
五十嵐──ニューヨークの9.11メモリアル・ミュージアムでも、膨大な個人の記憶の蓄積を展示していますよね。なかでも2001年9月11日に録音された関係者の交信、留守番電話、救急の電話の膨大な音声記録を活用した展示のプログラムは、当時の緊迫感が切実に伝わってきました。
近年注目されるオーラル・ヒストリーは、本人の記憶には誤りがあるものなので、他の資料と照らし合わせてチェックしないと、必ずしも正確な資料ではないかもしれません。しかし、9.11メモリアルの音声記録や、例えば太平洋戦争で東京が空襲を受けた人の肉声を聞くと、たとえ事実関係が曖昧になった箇所があっても、その経験を直接抱え込んだ1人の人間の発話から、なまなましい現場が立ち上がってくるのを感じます。そうした個人の記憶には可能性があるように思います。

村田──オーラル・ヒストリーはアーカイヴとしてはそれこそ膨大な量になって大変な側面がありますが、9.11の音声記録の事例は興味深いですね。これまで視覚的な情報ばかりだったミュージアムに音声が持ち込まれるということだし、なによりも、今後のミュージアムにはそのようなライブ感のようなものも求められていくかもしれませんね。今の音楽業界では、録音や再生のクオリティが上がって、いつでもどこでも良質の音楽を聴けるようになってしまったからこそ、かえってライブ演奏が求められるようになっているのだそうです。美術館でも同じことが起きているのではないでしょうか。それが一方では、その場、その瞬間にしか存在しないという意味でのサイトスペシフィックな展示や、ワークショップなど一回性の体験を求めることにつながり、もう一方では、空間に足を運んでこそ感じられる質感やマテリアリティを求めていくということにつながっていくのでしょうね。新しい美術館の空間の在り方について今後も見守っていきたいですね。



★1──「ARCHITECT TOKYO 2009」(青山|目黒、ギャラリー小柳、TARO NASU、タカ・イシイギャラリー、小山登美夫ギャラリー、hiromiyoshii)、「ARCHITECT JAPAN 2009──ARCHITECT 2.0」(EYE OF GYRE)


201506

特集 「収蔵・展示・教育」から「アーカイヴ・インスタレーション・ワークショップ」へ
──美術館と建築家の新しい位相


第三世代美術館のその先へ
生の形式としての建築展示
記録の政治と倫理の終わり
制度としての美術館と破壊者としてのアーカイヴの可能性
アーカイヴの経験と美術館
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