記録の政治と倫理の終わり

田中功起(アーティスト)

1−1)前提について

美術館建築をめぐる問いが近年、建物というハードではなく、企画や内容というソフトを扱う傾向に変化しているという。例えば市民参加型のワークショップを行ない、美術館建築・あり方を協働して考えるというものだ。この種の傾向は、ポスト・フォーディズム時代におけるサーヴィス産業(非物質的労働)への移行とパラレルで、コンテンポラリー・アートでは90年代に始まっている。ぼくは現在の建築の動向についてはくわしくないので、あくまでもアートをめぐる問題を手がかりに批評的なポイントを書いておきたい。

1−2)参加と記録①

ワークショップやディスカッションなど、イベントへの人びとの参加をベースにする、プロセス重視のプロジェクトにはひとつの大きなジレンマがある。それは、イベントへの参加者とその記録を二次的に見る観客という区分を生じさせてしまうことにある。イベントという活動的であった場は、記録によってある種の静的なもの、過去のものへと変換されプレゼンテーションされる。例えばワークショップの様子を記録した写真や映像、解説パネル等を使った展示をイメージしてもらえばいい。そこでは、過去に行なわれたディスカッションなどの様子が楽しげに展示され、それを見る観客は当日の参加者との距離をどうしても感じることになってしまう。
しかしここで問題なのは、実際の出来事とその記録の経験の差を埋めるような方法論を考えることではない。そもそも出来事への参加者とその記録を見る観客を同一の体験へと導くことはできない。考えるべきは、出来事とその記録との間に生じる経験の差によって何が本当に賭けられるべきか、ということである。
まずは、参加における倫理の問題に触れ、そのあとに記録によって生じる政治性を考えてみよう。

2−1)参加

アートと建築の大きな違いはクライアントがいることである、と誰かに言われたことがある。確かにそうかもしれない。しかし、「参加」をめぐる問題においては、それほどの違いはないと思われる。アートをめぐる「参加」を考えるとき、例えば特定の地域でのプロジェクトの依頼にはかならずクライアントが存在する。それは美術館やアートセンター(のキュレーター)、スポンサーである企業、あるいは行政機関の場合もあるだろう。問われるべきはそのクライアントに対して、アーティストがどのように振る舞うのか、ということである。クライアントがあらかじめ前提としているフレームをアーティストや建築家がどのように受け入れ、あるいはかわすのか、という点に批評的な立場はかかっている。企業イメージの向上や、行政機関と親和性の高い「市民参加」という考え方は、多くの問題を孕む。なぜなら「参加」はいつも倫理的に正しいものとして語られ、その地域社会がもつ問題が隠蔽される可能性があるからだ。そのプロジェクトが本来もっているはずの政治的なポテンシャルも、あるいはアーティストのもつ造形性も、企業や行政によるブランド・イメージのために捨像されてしまうからだ(クレア・ビショップによる「社会的転回」やジャック・ランシエールによる「倫理的転回」をめぐる議論を参照)。そしてここに、この特集の意味がある。
もちろん批評的、政治的建築というものは必要ない、という意見もあるかもしれない。しかしそもそも建築というものがひとつの場所を占拠し、その地域・土地の歴史にいやおうなく介入してしまうものだとすれば、いかなる建築も、その場の状況、その配置を乱すという意味では政治的だろう。だからこそ建築は市民との協働において建ち上げられるべきものとしての議論が必要とされているのかもしれない。

2−2)倫理

ひとりのアーティストによる専制的なアイデアによって、ひとつのプロジェクトが行なわれるのではなく、参加者との協働のもとにプロセスが進行すると聞けば、それは倫理的に正しいものとして響く。これは公共建築、もしくはこれからの美術館建築のプロセスのなかで、その建物のデザインだけではなく、状況や関係など、目に見えない人びとのつながりを設計するべきだ、という議論につながる。例えば市民参加を伴って建築を共に考えるべきだ。建築家の独裁的で、アーティスティックなデザインではなく、民主的なデザインを考えよう、というように。これはとても聞こえがいい。しかし、それは企業や行政が発する当たり障りのないスローガンのようにも聞こえる。ここに倫理的な正しさが先行し、内容が伴わない可能性が生まれる。

2−3)暴力

ぼくは「参加」というものは、民主的である前に、両義的なものだと理解している。ぼくたちのすべてがかならずしも「参加」に積極的であるとかかぎらないからだ。つまり「参加」を単に善きこととして措定することは、参加への同調圧力を増し、ある種の暴力として働くことにもなるだろう。誰がその建物を使い、誰がそれを必要とし、それが誰のためのもので、倫理的な正しさの前に何が隠されているのか、を見極める必要があると思う。

2−4)民主的な合意

一方で、参加者とアーティストは、真に民主的な合意形成のプロセスを踏むことはできるのだろうか──参加者の位置と状況を組織するアーティストの位置を平等にすることは可能だろうか。これはかなり難しい問いである。なぜならその状況を制作したアーティストは、その参加者と同じ場所には原理的に立つことができない。ぼくはそれを方法論的に回避するために、自分にないスキルを持つ参加者を集めることで、参加者が迷ったときにどの方向に進めば良いのかをアーティストが指示できない状況を作った(例えば同一のスキルを持った複数の人びとの協働作業を組織した。一台のピアノを複数人で同時に弾くこと、ひとつの陶器を複数の陶芸家で共に作ることなど)。このとき、人びとはアーティストの組織した状況に参加しているのだけれども、アーティストは進行において無知であるから参加者同士はその状況下で平等の立場におかれる。つまり先導者がいないなかで、参加者同士が問題を民主的に解決するしかない状況が生まれている。ここには副産物として、さらにアーティストによるコントロール不能な場が生じる。なぜなら状況の決定権が参加者に委譲されているかぎり、進行はオープンになる。それでもここには真に民主的な状況が生じているわけではない、と言うこともできる。コントロール不能な状況でさえもアーティストの意図の範囲内での出来事であるからだ。
市民参加を伴った公共建築をめぐるプロセスが、仮に民主的なプロセスを踏んで進行しているように見えたとしても同型の問題がある。もちろん建築家は参加者の判断にすべてを任せてコントロール不能な状況を生じさせるわけにはいかない。限定的な自由が参加者には与えられていて、その範囲のなかでワークショップは進むだろう。参加型建築制作のプロセスは、どのような方法論をとるにせよ、建築家の主導のもとに進んでしまう。「協働」の名のもとにある倫理的な正しさは、だから本来、徹底することができない。

2−5)参加の可能性

自由の範囲が限定された民主的な合意形成のプロセスを持つ「参加」に、いったいどんな可能性があるのだろうか。それは倫理的な正しさを前提としないときに生じる。関係性の壊れるような場、失敗と「決裂(rupture)」が生じる空間の制作においてであると思う。
これはひとつの提案でもある。これからありえるだろう美術館建築のプロセスの中で、その地域における美術館という存在の(不)必要さが議論され、美術館を建てることそのものが白紙になったとする。はたしてこれはプロジェクトとしては失敗だろうか。あるいは地元の作家たちの対立関係が明るみに出て、その板挟みに建てられる美術館の学芸員たちが巻き込まれ、建築家も含めて、だれのための美術館が必要かという議論が深められたとする。それははたして避けるべき事態だろうか。そもそもその美術館建設計画自体が問題含みだったとして、建設依頼を受けているからと、地域の問題に無関心に計画を進めていいのだろうか。ソフト面での建築制作に足を踏み込むかぎりこの問題は逃れられない。その場所に不必要な建築を建てること、あるいはその計画を延命させること、この問題に取り組むことにこそ倫理は前提にされるべきではないだろうか。
「参加」は学びの場である、とぼくは思っている。決裂や壊れによってだけ学びの場が生まれるわけではない。しかし、状況が不確かであればあるほど、ぼくたちは自分で考えようとするだろう。ぼくはそこに「参加」の可能性があるように思う。

開館20周年記念トークセッション「ARTISTS' GUILD:生活者としてのアーティストたち」
(東京都現代美術館での準備風景、2015)


3−1)参加者と観客

地域の問題が明るみに出たにしても、あるいは不和が生じたとしても、それでも美術館という場が生じたとする(それはかならずしも「建物」の形態をとらないかもしれない)。「参加」の可能性が開示され、真に成功したとして、それでも「参加」には先に書いたような決定的な欠陥がある。それはワークショップ/イベントへの参加者とその記録を見る観客に、二分してしまうことだ。現場に参加した人たちは、先に書いたような「決裂」に巻き込まれたとして、非日常的な空間の中でそれはとても刺激的なものだったかもしれない。しかしその記録を見る観客ははたしてその場に参加した人々に比べて、刺激的だろうか。

3−2)記録

記録の扱いが問題である。記録は、たいてい二次的なものとして扱われる。例えば建築(家)の展覧会をイメージする。そこには主に建築モデル、解説のテキスト、記録写真あるいは映像などが実際の建築に対しての補足資料として展示されているだろう。資材のサンプルもインスタレーションされるかもしれない。しかしそれらは実際の建築を経験したときに比べてどうだろうか。空間的な経験、敷地のコンテクストはどうしても含むことができないだろう。この問題を解消するために、建築の記録ではなく、建築家がインスタレーションを行なう場合もある。今度はそれが「展示のための展示」、コンセプトの理解のためのディスプレイか、素材等を駆使した美的デモンストレーションのいずれかに陥ってしまうだろう。ここに出来事の経験をプライマリーなものとして扱い、その記録を「二次的なもの」として扱うのと同型の錯誤がある。

3−3)追体験

イベントへの参加を経験せず、「二次的」に扱われている記録を見るしかない観客にとって、現場での出来事は追体験できないものと思われる。あるいは記録を通してなんとか想像的に追体験するしかないものと感じられる。
そもそもぼくたちはどうして、その「参加の出来事」を追体験しなければならないと思うのだろう。おそらくそれは「出来事の記録」が不十分であると感じるからではないだろうか。反対に十分な記録というものがあれば、ぼくたちはそれを距離のある「記録」とはとらえず、そのまま「出来事」として経験するはずだ。しかし、そんな「記録」は現実的に可能だろうか。おそらく技術が今後発達したにしてもそれは無理である。技術の問題ではない。なぜなら出来事の経験とは、参加者にとってもそもそも断片的で不十分なものであるからだ。あなたが何かしらの出来事に巻き込まれたとして、その場での状況を十全に経験し、記憶していると言えるだろうか。言葉で記述しようとするととたんに難しく感じるだろう。現場に居合わせた参加者でさえもその場での経験は十分に享受できていない。かえって現場にいたものたちほど、それぞれの位置から、その出来事を断片的に経験しているだろう。出来事の俯瞰的な視点があったとして、それは後から再構成されたフィクションである。だから「記録」の不十分さは、むしろ反対に、断片化されてしまうぼくたちの経験の仕方を十分にとらえていると言えないだろうか。「記録」を通して十分に経験できないという状態は、むしろ出来事の経験に即している。だからすでになくなってしまったものを改めて「追体験」する必要はなく、断片化されてしまった「記録」をこそ経験すればいい、ということになる。

3−4)造形される記録

そうした記録の精度を上げるために、記録の設計、記録の造形を考えることができる。出来事のすべてを記録しようとすることではなく、断片化されてしまうことを承知したうえで、その断片の細部を徹底的に記録するための設計を考える。そもそも記録とは、ひとつの位置を占めることで、他の位置をとらえ損ねる行為である。例えば映像記録をするとき、カメラのポジションをどこにするのかを決めなければならない。カメラが複数台にあるにしても、その出来事をとらえるには死角がかならずある。カメラを据え置く場所の決定は、カメラを据え置けない場所の決定でもある。そしてこれはどのような記録を行なうのかの設計に関わってくる。それでも少なくともひとつの視点は設計することができるだろう。

3−5)距離の記録

では、「記録」のもつ、「出来事」への距離はどのようにとらえられるだろうか。出来事に参加できなかった/しなかった観客に対して、記録はどのように機能するのだろうか。
ぼくは、記録一般を見るときに感じる、その記録を現在見ている自分の場所とその記録に記録されている場所の時空間的な距離を否定的に思わない。「記録」はそのとき、現在の自分の位置と記録のなかの場所の切断面に位置する。「記録」を見る感覚は、「出来事」との距離を感覚することだ。それは互いの位置関係が再配置されることを経験することである。ランシエールにとっては、政治とは党派政治を意味するのではなく、いかに配分された感覚を共有する人びとの集まりが対立し、合意しつつ、位置を占めるのかということが問題にされる。例えばひとつのテーブルについて議論を始めるとき、議論の内容によってその場の流れや対立は現われるが、同時に、誰が自分の向かいにいて、誰が隣に座り、あるいはそれは丸いテーブルなのか、矩形のテーブルなのか、などによっても参加者の感覚は左右し、議論を決定づけられる。仮に席替えがあり、人びとの配置が変化すれば、流れは変わるかもしれない。この意味において、距離の感覚は政治的な経験である。「記録」を通して距離を感覚することは、ぼくたちの感性が再配置されることでもある。記録はそのように機能する。

4)参加と記録②

「参加」の可能性が「決裂」にあったのだとすれば、ここにも同型の可能性がある。つまり、「記録」という切断も「決裂」を観客に感覚させる。「決裂」は不安定さ、不確かさを生むだろう。そして参加と記録を通して、観客は二重の不確かさに覆われる。「出来事への参加」内部で生じている不確かさと、距離を持った「記録」を見るという不確かさ。二重の不確かさを持つプロジェクトはそれゆえに観客に考えつづけることを促すだろう。「参加」の設計と「記録」の設計が同時に求められる。現実の社会状況に巻き込まれ、ときにプロジェクトそのものの撤退を意味する場合があるのだとしても。




田中功起(たなか・こおき)
1975年生まれ。アーティスト、ARTISTS' GUILD、基礎芸術。主な著書に『Precarious Practice』(Hatje Cantz、2015)、『必然的にばらばらなものが生まれてくる』(武蔵野美術大学出版局、2014)、『質問する その1(2009-2013)』(ART iT、2013)、『Abstract Speaking - Sharing Uncertainty and Collective Acts』(NERO Magazine、 国際交流基金、2013)などがある。


201506

特集 「収蔵・展示・教育」から「アーカイヴ・インスタレーション・ワークショップ」へ
──美術館と建築家の新しい位相


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