長谷川豪『カンバセーションズ──ヨーロッパ建築家と考える現在と歴史』2015年、東京
- Hans Ulrich Obrist (ed.): Olafur Eliasson.
The Conversations Series No. 13,
Walther Konig, 2008
- Thomas Weaver (ed.):
AA Files Conversations,
Architectural Association, 2013.
- Rem Koolhaas, Hans Ulrich Obrist,
Kayoko Ota, James Westcott (eds.):
Project Japan. Metabolism Talks,
Taschen, 2011.
- Marc Angélil, Jørg Himmelreich (eds.):
Architecture Dialogues,
Braun, 2011
- メンドリシオ建築アカデミー長谷川豪スタジオ・2013年秋学期の最終講評会。ゲストに坂本一成氏(右から3人目)とロラン・シュタルダー氏(左)が招かれた。写真=樋口貴彦
丹下健三の初期の建築物や、篠原一男のプロジェクト、あるいはもっと最近では、アトリエ・ワンの革新的なリサーチに見られるような、遅くとも近代期に見られる日本建築の歴史的連続性を高く評価するようになったヨーロッパでは、この前提は思いがけないものとして感じられるかもしれない。そこにはおそらく、この本の出版に対してわれわれが抱く可能性のあるただひとつの批判が存在する。長谷川が前提とするものはあっという間に翻るかもしれず、その結果、その視点から見て長谷川がヨーロッパの同僚の仕事に表われていると主張する歴史的関心は、ヨーロッパにおける歴史意識ということではなくむしろ、ヨーロッパのモダニスト論議における、歴史の放棄に対する遅れた反応を証明するものとなるのであろうということだ。
一見すると、インタビューを受ける建築家の異種混交的な人選に驚かされる。というのも、彼らは3つの異なる世代の建築家たちであり、それぞれの職業的な実績も多様で、かつ4つの異なる国の出身者であるからだ(彼らのうち3人はスイス出身)。前書きで長谷川が彼の根本的な狙いについて述べなかったのは、現代建築の根底となる部分を探りたいからに他ならないからであるが、この本がすでに確立された「仲間内」ネットワークで行なわれた議論の結果であるという疑念が生じる可能性もある。著者-編集者が、人選は自分が行なったと簡潔に述べることで、それが繰り返し正当化されるからますますそう感じられる。さらに、建築的実践の基本として歴史にアプローチするための、おそらく義務的な前提が、その範囲を極めて広げるものとなっている。シザとはモダニスト建築のテーマについて議論し、ヴァレリオ・オルジャティとは「なにも参照しない(non-referential)」独自の建築を追求し、メルクリとは「西洋の建物文化」の全体的な考えについて意見を交わし、ラカトンとヴァッサルとは、さまざまなコンテクストや時間軸を重ね合わせ、フラマーとはレファレンスを取り扱う際の「カニバリズム」という概念について語り、ゲールスとファン・セーヴェレンとは自分の見解にどこか古典的な普遍性を持たせようとする願望について話し合っている。しかしまさに、対話を並べていくなかで、それら解答群の間に深い溝が広がり、一人ひとりの個人的な立場の裏にある共通の質問、つまり、とりわけヘルマン・ムテジウスやマルセル・ブロイヤーによってモダニズムの初期から語り尽くされた「われわれはどこに立っているのか」というテーマを際立たせるのである。
壮大なモダン(Modern)の物語の終わりを告げるポストモダニズム以降、深まる絶望感とともに発せられたこの質問が本書の赤い糸であり、さまざまなインタビューをひとつに結びつけるものである。シザは、現代建築におけるモダンと新しさの役割、または建築と政治の関係や建築と自然の関係など、根本的な問題について考察している。オルジャティは、空間、構造、および物質性といった基本的な考えから派生した、デザインに関する合理的理論のなかの、参照性を超えた自身の建築に基礎を置き、マヤ文明の遺跡建築に対する彼なりの解釈からインスピレーションを得ている。メルクリはそれとは対照的に、自分自身を施工者として、さらにヨーロッパの建物文化を自身の建築的実践における文脈上の枠組みとしてとらえている。ラカトン&ヴァッサルにとって実践における必要条件は、最善の意味で経済性であると考えている。すなわち、建築資源と空間の可能性を健全に取り扱うことなのだ。さらにゲールス&ファン・セーヴェレンは自分たちの仕事を一貫して正当化する一方で、フラマーは自身の伝記的かつ現象学的な経験から建築を生みだしている。
インタビュイーである建築家それぞれの見解についての質問とそれに対する回答がどれだけ多岐にわたろうとも、建築の自律性と建築の方法を定義することの重要性について、重ねられた会話によって共通する理解が浮き彫りになる。しかし、そのような共通認識にもかかわらず、2つの対立する見解が見えてくる。作品を完成に導くことができる物語の必要性について、シザ、オルジャティ、メルクリ、ラカトン&ヴァッサルはそれぞれのインタビューのなかで触れている。それに反するのは、そのような物語や要求を信用しない代わりに、個々のプロジェクトに関してつねに新鮮な評価または正当性を求める、若い建築家のいい意味でのポストモダンな姿勢である。
後者の見解を集約するうえで、インタビューに勝る文書形式は存在しない。マニフェストの独断性や論考の限定的な議論、あるいは理論の批判的な次元とは対照的に、インタビュー集はシチュエーションごとの流動的かつ主観的な状況の積み重ねによって再評価され、たびたび議論の対象となることで見解が確実なものとなっていく。この建築的な姿勢は新たな視点を開くだけではなく、同時に議論の即時性および主観性のため、個人性が恣意性のなかに陥るリスクを伴っている。とはいえ、長谷川豪は『カンバセーションズ──ヨーロッパ建築家と考える現在と歴史』のなかで、そのような危険性をうまく排除し、建築の基盤に関する彼の問いを掘り下げる完璧なかたちを見つけたのだ。さらに、このインタビュー集は、現代ヨーロッパ建築の数ある見解から読者が選択して学べるだけでなく、長谷川豪本人の思想や創造的実践についての優れた紹介文でもある。
[英訳:ジル・デントン、和訳:牧尾晴喜((株)フレーズクレーズ)]
- 『長谷川豪 カンバセーションズ──ヨーロッパ建築家と考える現在と歴史』2015年、東京
- Go Hasegawa: Conversations with European Architects, Tokyo, 2015