建築の世界史──中川武教授最終講義のために

中川武教授最終講義・記念シンポジウム「世界建築史をめぐって」

柄谷行人(文芸批評・哲学)


本日は、中川武教授最終講義の場に招かれて光栄に思います。私は建築には多少の縁がありました。かつて『隠喩としての建築』という題の本を書いたし、また、1990年代に、ANYという建築家の国際会議に十年ほどかかわっていました。しかし、私が考えたのは、あくまで「隠喩としての建築」であって、現実の建築に関しては無知です。だから、今日のような場で話す資格も能力もありません。
にもかかわらず、ここに来たのはなぜか。ひとつには個人的な因縁です。私は『世界史の構造』(2010)という本を書き、そのあと、そこに書き足りなかったことを書くような仕事をしてきました。そのひとつが『帝国の構造』という本です。昨秋それを青土社から出版しました。その本を編集したのが贄川雪さんという人で、彼女は早稲田の大学院出身です。また、彼女は、中川さんの本『日本の古建築』を編集しています。それは、つい昨日刊行されたばかりです。私が中川教授の最終講義で何かを話すということを考えたのは、その贄川さんに依頼されたのが発端です。
ただ、私がそうすることを決断したのは、中川さんが考えていることと、私がやっていることに共通点があるということを感じたからです。その共通点は、広い意味で、マルクス主義、つまり、史的唯物論に基づいているということです。もちろん、私の場合には、『世界史の構造』は、それを批判するものです。例えば、マルクスが「生産様式」から社会構成体の歴史を見るのに対して、私は「交換様式」から見ます[図1]。

図1:交換様式の四つの形態

 B 略取と再分配
  (従属と保護)
 A 互酬
  (贈与と返礼)
 C 商品交換
  (貨幣と商品)
 D X


マルクスの場合、社会構成体の歴史を生産様式から見るということは、具体的には、誰が生産手段(土地)をもつかという観点から見るということです。生産手段が共有された原始共産社会から、支配階級が所有する状態に移行し、最後はまた、生産手段が共有される状態に向かう。その場合、国家や民族や宗教などは、このような下部構造に規定された、政治的・観念的上部構造だということになります[図2]。

図2:マルクスの史的唯物論
社会構成体の歴史的段階を生産様式(誰が生産手段を所有するか)から見る。

 1氏族社会
 2アジア的
 3古典古代的
 4封建的
 5資本制的
 6共産主義
 原始共産制
 王─共同体
 ポリス市民─奴隷
 領主─農奴
 資本家─賃労働者


しかし、このような考えでは、国家・民族・宗教などをうまく理解できないのです。マルクス主義運動はむしろ、そのために失敗してきました。その反省から、観念的上部構造の相対的自律性を強調するようになった。その結果、経済的下部構造を、否定しないまでも、事実上棚上げにするようになった。そして、近年ではまったく言及しなくなった。それはまた、マルクスが没却されるようになったということです。
それに対して、私は社会構成体の歴史を「交換様式」から見ます[図3]。もちろん複数の交換様式の接合として見るのですが。それは、経済的下部構造を否定することではありません。例えば、史的唯物論では、国家は政治的・観念的な上部構造だと見なされるけれども、そうではない。国家はある種の「交換」に基づいており、その意味で経済的なのです。もし交換が経済的なものだとするならば。

図3:交換様式から見た社会構成体の歴史的段階

 社会構成体  支配的な交換様式
 1 氏族社会
 2 アジア的
   古典古代的
   封建的
 3 資本制
 A
 B1
 B2
 B3
 C


通常、交換と呼ばれるのは、商品交換、貨幣による交換です。私はそれを交換様式Cと呼びます。その他に、贈与の互酬的交換もあります。これは交換様式Aです。しかし、それ以外にも交換がある。実は、国家も交換に基づいているのです。それは、服従すれば、保護を受けるというような交換です。また、国家は税金として強奪するが、公共事業・福祉など、なんらかのかたちで、それを再分配する。これは交換です。私はこのような交換を、交換様式Bと呼びます。
例えば、国家は暴力装置だといわれる。確かにそうですが、たんなる暴力では、征服・略奪はできても、長く統治することはできない。そのために、支配される側からの積極的・自発的な関与が必要です。それによって、暴力とは異なる「権力」が成立するわけです。したがって、権力は交換によって存在する。服従すれば、保護を受けるという交換によって。ホッブズは『レヴァイアサン』で、国家の源泉に、そのような「契約」(交換)を見出したのです。
ところで、社会構成体は、古来、異なる交換様式A・B・Cの接合体としてあります。どんな未開段階でも、この三つのモードがあるのです。実は、この三つの他に、Dがある。それはAの高次元での回復です。歴史的には、それはある段階、帝国ができるような時代に普遍宗教として出現しました[図4]。

図4:近代の社会構成体(資本=ネーション=国家)

 B 国家  A ネーション
 C 資本  D X


このような異なる交換様式の接合は、そのなかでどれが優勢的であるかによって違ってきます。Aが優勢な未開段階では、BやCの要素はあるけれども、目立たない。近代では、交換様式Cが支配的になりますが、そのとき、他のモードは消えるのではなく、変容します。例えば、封建社会にあった共同体は、近代では、ネーション(想像の共同体)になる。つまり、資本制経済の段階では、社会構成体は、「資本=ネーション=国家」という接合体になります。このとき、国家やネーションを観念的上部構造と見なすのでは、肝腎なことが理解できない。だから、失敗したし、また、放棄されてしまったのです。
私の考えはマルクス主義の枠組を否定するものですが、ある意味では、経済的下部構造から世界史を見るというマルクスの考えを、蘇生させるものです。例えば、『世界史の構造』という本は、英語版では「生産様式から交換様式へ」というサブタイトルがついていて、主題がもっとはっきりしています。昨年の四月、アメリカの批評家・マルクス主義者のフレドリック・ジェームソンが、この本のために、二日間の会議を開催してくれました。その冒頭のスピーチで、彼はこういうことをいった。カラタニが提起した交換様式という視点は、逆に、この間人々が捨ててしまった生産様式という概念を想い起させるものだ、と。
実は、私は最近、中川さんの講演を読んだとき、ジェームソンがいったことを思い出したのです。昔日本の歴史学者は、講座派マルクス主義者が中心で、「アジア的生産様式」、「総体的隷従制」、というような議論を盛んにしていましたが、1980年代から変わってしまった。例えば、網野善彦の史学が優位に立った。ただ、網野さん当人は、講座派の内在的批判として、流通過程や観念的上部構造の自立性をいったのであって、別に生産様式を否定したわけではありません。ただ、そうことが忘れられています。そのような一般的傾向のなかで、建築史に関して、「生産様式」をいう中川さんの論考を見て、驚くとともに、共感を覚えたのです。

                  *

以上は前置きで、これから建築について話そうと思います。といっても、それは建築の歴史を、交換様式から見るというような話になりますが。建築は、大別すれば、二種類あります。ひとつは住居、もうひとつは、モニュメント。例えば、王宮、神殿・寺院、国家的建築などをモニュメントと呼ぶことにします。他にふさわしい言葉があれば、それでもいいのですが。
現在でも、この二つの建築の区別があります。それはまた、建築家の位階というか、社会的ランクにも関連します。一般に、モニュメントをつくるほうが偉い建築家だと見なされます。彼らも最初は、住居を建てるのです。そして、偉くなるとモニュメントを建てる。むろん、二十世紀には、そのような位階を否定しようとした人たちがいました。ウィリアム・モリス、その影響を受けたバウハウスなどです。アートからクラフトへ。芸術家から職人へ。それは、建築の領域では、モニュメントより住居を重視するということになります。
日本では、そのような運動を開始したのが石山修武のような人たちです。彼はその志を貫いたけど、そういう人は少ない。例えば、安藤忠雄も最初は、「住吉の長屋」などをつくっていたが、モニュメントに移行しました。ちなみに、中川さんは、石山さんと大学で同窓でした。また、原広司さんは、主として、住居というか、住居の「集落」に関して研究され、また、それに基づいてモニュメントをデザインされてきたと思います。

                  *

まず、モニュメントの建築についていうと、これは国家の発生とともに出現したということは疑いありません。つまり、権力と富の集中ともに、出現した。モニュメントとしての建築、神殿、王宮などは、権力と富を象徴するものです。つまり、支配階級の力と富を誇示するものである。ゆえに、それはより大きく、高い建築を目指す。
しかし、先にいったように、国家は交換に根ざしています。権力は被支配者の自発的な服従に根ざしている。だから、モニュメントは、むしろ、被支配者の自発的な服従を促すようなものでなければならない。その意味で、モニュメントは、神殿から始まるといってもいいでしょう。より大きい、より高い、そして尖鋭な建築がつくられるのは、そのためです。
例えば、中川さんが研究されたエジプトのピラミッドがそうです。これは墓ではありません。最初は墓だったのですが、それは段々、人々が仰ぎ見るような、巨大な建築となった。それは王権そのものを示すようになります。しかし、ピラミッドはたんに専制国家の権威を示すものではありません。経済学者のケインズが指摘したことですが、ピラミッドは、失業者対策の公共事業でもあった。
また、ピラミッド建設のためには、高度な労働組織が必要です。それは、軍事的な組織に基づいている。また、そのような組織は、潅漑工事において不可欠であった。例えば、ナイル河は毎年、洪水で氾濫しますが、そのあとすぐに、土地を再区劃しなければならない。そのための技術、数学的な計算が必要である。ピラミッドの建設は、そのような知識・技術の集積によって可能となった。その意味で、ピラミッドに、エジプトの国家・文明が集約されているといえます。
そして、それが周辺部に伝わった。例えば、ギリシアがそのひとつです。イオニアのターレスは、エジプトで土木技師として働いて、それから三角関数を考えたといわれます。だから、ギリシアの自然哲学・数学の起源は、エジプトにあるのです。

                  *

建築史という観点から見ると、モニュメントのほうが目立ちます。また、それは他国・他の文明に継承されていく。しかし、住居に関しては、事情が異なります。住居建築は、多くは自然環境に規定されているので、他の場所には適合しないし、広がることはすくない。住居には、狩猟採集遊動民のテントのようなものもふくまれます。住居の建築は、モニュメントのように保存されないし、歴史的に記録されることもない。それはいつもあったし、いまもあるのですが、人がほとんど気づかない。だから、それを調べるのは、歴史学というより、人類学のような仕事になります。例えば、集落として残っている住居の調査など。
歴史はそもそも、国家・王朝の歴史として書かれてきた。だから、建築の歴史というと、モニュメントの歴史だけになってしまいがちです。また、たんに形式的に様式などの変遷を見ることになる。しかし、世界史は、国家だけの歴史ではない。社会構成体の歴史なのです。同様に、建築の世界史を見るためには、モニュメントだけではなく、住居の歴史を見る必要があります。つまり、両方を見る必要があるのです。
逆にいうと、モニュメントと住居の両方を見るためには、建築史を社会構成体の歴史において見ることが必要です。交換様式からいうと、モニュメントの建築が示すのは、交換様式Bの次元です。一方、住居の建築が示すのは、交換様式Aですね。だから、建築史を見るためには、建築だけでなく、世界史を見ることが必要です。中川さんは、そういうことを志向してこられたのではないか、と私は思った。いま日ここに来て話す気になったのは、そのためです。

                  *

社会構成体の世界史的段階を見る場合、ひとつ、重要なことをいっておきたい。マルクスの史的唯物論では、生産様式の観点から、原始共産制、アジア的専制国家、古典古代(ギリシア・ローマ)、封建制(ゲルマン)、資本主義社会、というような歴史的段階が区分されています。[図2]。しかし、これは、実は、ヘーゲルの歴史哲学に基づくものです。さらに、ヘーゲルの場合、世界史は東から西に向かって発展するという図式になります。
もちろん、マックス・ウェーバーのように、「周辺革命」、つまり、周辺において新たな発展が生じるという見方をした人がいます。しかし、やはり、周辺は西のほうにある。だから、結局、東から西への発展ということになります。このような考えでは、わからないことが多い。例えば、日本のことがわからない。なぜ日本にヨーロッパに類似した封建制があったのか、そして、資本主義的発展がありえたのか。
そこで、私は周辺と亜周辺を区別します。そして、帝国の中心、周辺、亜周辺、圏外という構造を見るわけです。なお、このような構造は、世界帝国の構造であって、近代世界システムの構造とは違います[図5]。

図5:世界システムの変化

 世界システム  支配的な交換様式
 1 ミニ世界システム
 2 世界=帝国
 3 世界=経済(近代世界システム)
 4 X(世界共和国)
 A
 B
 C
 D


近代世界システムでは、ウォーラーステインがいうように、中核、半周辺、周辺という構造となります。例えば、中国やインドはかつて中心でしたが、近代システムでは周辺に位置するようになった。また、近代以後は、「圏外」もなくなります。世界中隅々まで、交換様式C(資本主義)に包摂されてしまうからです。
だから、つぎのような区別が必要です。第一に、世界=帝国と、世界=経済(近代世界システム)を区別すること。例えば、近代以後、もはや帝国はありえません。帝国主義があるだけです。ネーション=ステートが帝国のように拡大すると、帝国主義になるのです。
第二に、世界=帝国は、東アジアにも西アジアにもあった、そして、それらはほぼ同時的に成立した、ということです。東アジアは、中国とインド、そして、西アジアは、エジプトとメソポタミアです。東と西は互いにほとんど関係なく、形成された。
第三に、世界=帝国の構造、中核、周辺、亜周辺、圏外という構造を区別することが必要です。そのなかでも重要なのは、周辺と亜周辺という区別です。周辺では中心の文明が全面的に取り入れられ内面化されますが、亜周辺では選択的に取り入れられるだけです。したがって、そこから独自の発展が生まれる。例えば、東アジアでは、コリアやベトナムは世界帝国の周辺であり、日本は亜周辺です。一方、モンゴルや満州族、ウィグル・チベットなどは周辺に位置しますが、周辺的とはいえません。彼らは遊牧民であり、中心の文化(例えば、漢字)を受け入れなかった。さらに、隋唐・元・清の時代には、征服王朝として中心となっています。
中川さんの研究のなかで、面白いと思ったのは、ベトナムのフエにある王宮の考察です。ベトナムはコリアと同様に、周辺的であるといえます。ベトナムは中国の帝国に支配され、それと長く戦って独立したのですが、逆に、独立したあとは、中心の文化を全面的に取り入れた。例えば、ベトナムにもコリアにも科挙の制度が確立された。つまり、官僚制国家が形成された。それが日本と異なるところです。日本はそのころから、逆に、武士政権、鎌倉幕府の時代になったのです。したがって、日本社会の特徴の多くは、亜周辺ということから来ていると考えられます。
西アジアに関しても同じことがいえます。帝国を築いたのは、周辺にいた遊牧民です。彼らはたえず、新たに侵入する。メソポタミアでは、帝国は、アッシリアもバビロニアもペルシアも、そのようにして形成された。それに比べると、ギリシアやイスラエルは、エジプト・メソポタミアの「亜周辺」であったといえます。つまり、中心のシステムを選択的に取り入れる。そして独自の発展を遂げたのですが、帝国にはならなかった。アテネはデロス同盟をつくって拡大したけれども、それは帝国ではなく、帝国主義的でしかなかったのです。
ギリシア文明を帝国に広げたのは、遊牧民国家マケドニアのアレクサンダー大王です。その場合、彼はヘレニズム(ギリシア主義)というより、ペルシア・エジプトの帝国を受けついだのです。一方、ローマは最初ギリシアと同様でしたが、ペルシア帝国、アレクサンダーの帝国を受けついで、帝国をつくった。その間、ヨーロッパ(ゲルマン)社会はずっと圏外にありましたが、ローマ帝国やイスラム帝国ができた時点では、亜周辺の位置に立った。さらに、そのなかでも、特に亜周辺的なのがイギリスです。そして、ここに、産業資本主義が始まったわけです。
要するに、世界史はたんに線的な段階的発展としてではなく、中心・周辺・亜周辺という構造から見るべきです。さらにいうと、社会構成体の世界史は、交換様式A・B・Cだけではなく、Dという要素を入れて見なければならない。Dは、Aの高次元での回復です。つまり、世界史には、根本的に、過去の回帰、反復が存在するのです。このことは、建築史に関しても妥当するのではないか、と思います。私は、中川教授が今日話される「夢の世界建築史」に、そのような諸要素を見出します。それを参考にして、これから考えて見たいと思います。最終講義、ありがとうございます。

本講義は2015年3月21日早稲田大学大隈記念講堂にて開催された中川武教授最終講義・記念シンポジウムの採録です。当日行なわれた、原広司[世界集落の発見]、中川武[夢の世界建築史]講義は近日掲載予定です。

当日のプログラムは以下のとおり。
名称:中川武教授最終講義・記念シンポジウム「世界建築史をめぐって」
日時:2015年3月21日(土)13:00─17:40(開場12:30)
司会:中谷礼仁早稲田大学教授
内容:
 第1部
 13:00-13:30 世界建築史イントロダクション
 13:30-13:35 開催主旨(早稲田大学教授・中谷礼仁)
 13:35-14:35 記念講演「世界集落の発見」(東京大学名誉教授・原広司)
 14:35-16:05 最終講義「夢の世界建築史」(早稲田大学教授・中川武)

 第2部
 16:20-17:40 シンポジウム「世界建築史をめぐって」柄谷行人、原広司、中川武

からたに・こうじん
文芸批評・哲学
1941年兵庫県生まれ。著書に『漱石詩論』(群像新人文学賞)『マルクスその可能性の中心』(亀井勝一郎賞)『坂口安吾と中上健次』(伊藤整文学賞)『日本近代文学の起源』『探究I・II』『隠喩としての建築』『トランスクリティーク』『ネーションと美学』『歴史と反復』『世界史の構造』『帝国の構造』など多数。


201507

特集 長谷川豪『カンバセーションズ』
──歴史のなかの現代建築


歴史のなかの現代建築
歴史を耕し、未来をつくるためにできること
長谷川豪『カンバセーションズ──ヨーロッパ建築家と考える現在と歴史』2015年、東京
建築の新しい自律性に向けて
このエントリーをはてなブックマークに追加
ページTOPヘ戻る