総合地上学へ向けて──ランドスケール、キャラクター、生態学的視点からのアプローチへ

石川初(慶應義塾大学大学院教授)×日埜直彦(建築家)

街のキャラクター、都市の生態系を捉える

石川──「東京の自画像を描く」という言葉にはほっとします。「こんなんじゃダメだ、何とかしろ」ではなくて「ちょっと座っていままで考えたことを持ち寄ってみようよ」というニュアンスを感じます。わかりやすいし、気軽にみんなを呼べる気がします。東京は気軽に語れない後ろめたさというか、難しさがあって、歴史や経済や政策や自然や、いろいろなことに通じていないと役に立つことを言えないというか、それはまあ都市が様々な事情の複合である所以なわけですけれども、「自画像を描く」というテーマであれば、いろんな立場やスケールで参加できます。全員が鳥瞰的視点で語らなくてもよくて、むしろ自分の切実な立ち位置をもっていて、それを地図のどこに位置づけるか。それをどう読み取れるか。ということです。

日埜──オランダの建築家のフェリックス・クラウスさんとこのところ東京のあちこちを散歩しています。フェリックスさんはいわば社会派の建築家であり、ヨーロッパの市民社会のリベラルな気風の中でどう建築をつくるか深く考えていらっしゃいます。彼と話していると、いわゆる都市論のどこかトップダウン型の議論とはぜんぜん違う、とてもボトムアップでフラットな視線があるのを感じるんですね。外国人がエキゾチックに東京を見るというのとはかなり違っていて、渋谷や池袋ではなく、普通の郊外住宅地などを歩きます。観光的な視点ではなく、生活とともにある都市の成り立ちを見るのが嬉しいということなんでしょう。私は独立して事務所を構えた頃、暇さえあれば東京を歩いていました。やはり都心というよりは郊外のごく普通の住宅地で、カメラを持ってひたすら歩いていた。そんな経験からフェリックスさんの反応しそうなものがなんとなくわかるわけです。
来年オランダで刊行される都市論集 'Beslissende momenten in de modern stedenbouw'(Decisive moments in modern urbanism)に、東京を論じた論考を寄稿しているのですが、そのタイトルを「二つのアーバニズム」としました。 石川さんには既にお読みいただきましたが、いわゆるトップダウンの都市へのアプローチに対して、たぶんボトムアップの都市へのアプローチとでも言えるようなものがあって、そのぶつかり合いの中で東京が見えてくる、ということです。前者がいわゆる都市論・都市史の領域だとしたら、後者はフェリックスさんの視線に共振する部分と言えるでしょうか。「上から」と「下から」という構図で見る着想は日本近代史ではわりと定着しているものですが、これは都市論においても同様に考えられるだろうと思っているわけです。国家の首都としての東京と、市井の市民が実際住む都市としての東京の、二つのアーバニズムが緊張関係を持ってきたわけです。関東大震災の復興計画において、当時の市民の代表たる東京市議会が政府の計画に対抗して大幅に縮小させるということが起こりますが、例えばそういう局面にその緊張関係が露呈してくる。
都市論、というのはどうしてもこれまで計画者の視点で語られがちだった。東京においても、江戸東京論を別とすれば、事実上都市計画史がベースになっている。だから先の例で言えば復興計画が縮小されたのは残念だった、となるわけだけど、でも現状から考えてそう単純には言えないはずです。だからそれとは違う語り口を組み立てたいし、そこでごく普通の都市生活の積み重ねとしての東京が見えてくるはずです。

石川──上からのアーバニズムと下からのアーバニズムの拮抗があり、その相克史として見るという視点は膝を打ちました。エコロジーの比喩として捉えることもできるし、人為と自然の関係の読み取り方にも通じて、とてもわかりやすい。
アーバニズムの上下の拮抗は様々な規模やスケールで見出すことができると思います。都市の有り様や歴史にも、住宅地の発生や推移にも、庭仕事にも、「上から」と「下から」の関係は見いだせるしそのように記述できます。都市の話をするとき、私たちはつい都市の輪郭を探してしまいますが、それは最初からあるわけじゃなくて、ある規模である状況が生まれたときに、私たちはそれを都市と呼んでしまうのだと思います。つまり、何かが群をなす固有のスケールがいくつもあり、そのうち捉えやすい、見つけやすいものに「都市」とか「地域」とか「集落」などと名前がついているのだと。

日埜──そう、結局のところある場所には「キャラクター」があるということなのでしょう。ただ見るだけではなかなかその正体はわからないけど、その原因を歴史を遡って考えてみたり、地形を見ていったり、あるいはそこでの生活のリアリティを見ていくことで、それが何なのかわかってきます。都市は、地形、土地の使い方、街路、建物、住民の生活などの組み合わせ、つまりアレンジメントによってできていますが、そういう意味では建築もスケールがちょっと小さくなりはするけど、材料、気候、技術、生活のさまざまな部分のアレンジメントであり、どちらの場合もその組み合わせによって空間の質、キャラクターが成り立っていると言うことも出来る。
例えば住宅地は、インフラ、物流、経済、労働に依存しています。そのような関係の絡み合いが住宅地を成り立たせていて、そこに独特のキャラクターが生み出され、さらにそうしたキャラクターとが複雑にパッチワークされたものとして都市全体を見ることができるんじゃないでしょうか。
独立するにあたって大阪から東京に移ってきて、わりとすぐに東京ってのは大阪とはかなり違う街だと気が付きました。大阪はフラットな街ですが、東京は起伏豊かな地形があります。市街地の成り立ち、成熟の仕方もまるで違って、大阪よりも東京のほうがずいぶん複雑多様です。その頃たまたま写真を撮るのに凝っていて、これぞ東京っていう写真が撮れないかな、と思いはじめました。当時、写真ブログが盛り上がっていて、人の写真を見て面白そうだと現地に行ってみる、そんなことで歩きはじめたわけです。やはり歩くというのはたいしたことで、よくある東京の「下町/山の手論」や「江戸東京論」とはぜんぜん違うリアリティが実感されてくる。いろいろモヤモヤと考えつつ最初に東京について書いてみたのは2007年の『10+1』の誌面で★1、さらに調べ物などコツコツ続けて、現時点で言えるのはここまでかなというところを今回オランダの本に向けてまとめてみた格好です。
いずれにせよ、トップダウンで出来た場所の代表のような団地ですら、ボトムアップの部分がないかと言えばそんなことはありません。建造物が出来たから場所のキャラクターが完成するというものでもなく、そのように計画された必然において、またその後それがどのように変容したかによって、今見えるそのキャラクターは成り立っている。

石川──たとえば団地の敷地の中に入り込んでいくと、住民が営む濃密なガーデニングの連なるランドスケープがあって、あれはキャラクターですね。

日埜──運営側や住民の組織が誘導しているのかもしれませんが、どうもあちらこちらで同時多発的に起きている独特のものがありますね。面白いものです。

石川──庭仕事は場所のチューニングですよね。動かしようのない環境条件と、庭主が意図するイメージとがあって、それはたいてい折り合わない。既存の土壌や気候や植生と、庭主の介入の拮抗が、次第に落とし所を見つけて最適化されて、いわば動的平衡状態が生まれたときに、それが「落ち着いた庭」という状態です。これはまさに日埜さんのおっしゃった東京のあり方に重なると思います。周囲の環境に同調しようとする「生えてくるもの」や「育ってしまうもの」という「下から」の生態と、用途や意匠のために庭園を構想する「上から」の生態。

石川氏

日埜──生き生きした庭と、生き生きした商店街はたぶん似ています。東京でもシャッター商店街は多いですが、戸越銀座商店街と駒込の霜降銀座商店街はちょっと例外的に元気がある。人が沢山歩いてるし、個人経営のお店が軒を連ねて、そこそこうまくいっている。その理由は結局、その周辺の住宅地に細い路地が多く、車が入りづらいので、住民が車を持っていないか、車を持っていても自宅の近くには置いていないので、日常の細々した買い物を自転車でするからです。別に昔ながらのお店が残っているわけでもなく、現代のニーズであるマッサージ屋やコンビニなどが適当に新陳代謝して、商店街で買い物をするというライフスタイルが一種の動的平衡のなかでちゃんと生きている。それは、商店街と住宅地の相互依存であり、モノとアクティビティが絡み合う生態系みたいなものと言えるでしょう。

石川──ああ、かつて荏原中延に住んでいたことがありましたが、単車の駐車場を借りるのが本当に大変でした。

日埜──中延や戸越あたりは、関東大震災前後に目黒川周辺に出来た電気・機械工場で働くブルーカラーの人たちが住み始めて一気に住宅地化したエリアです。当時は自動車は普及していませんでしたから、住宅地の成り立ちがもともと自動車を置くことを前提としていないため、今でも自宅に駐車場をつくるのが難しい。アクセスの良い駐車場もほとんどありません。となると、日常的に車を使うのは億劫になる。その場に行って、物理的な都市の成り立ちを見て、住民の具体的な行動を見れば、こういうことはよくわかります。同じようなエリアが東京の南北に別れて相当広く広がっています。こういう具体的な街区構造とライフスタイルによる生態系がこのエリアのキャラクターをなしている。当然ながら、例えば世田谷区には世田谷区の、江東区には江東区の生態系があるのです。商店街の活性化はどこでも言われていることですけど、結局こういう生態系が伴わないと難しい。
すこし視点を変えると、建築家が住宅をひとつ設計する際に、どういう場所に対してつくっているのか、ということとこの話は繋がります。住宅地というタイポロジーを積極的に意識する建築家は最近増えてきているけど、結局自分がやっていることは何なのかということを確かめ客体化するなら、キャラクターのトポグラフィーみたいなこの視点に行き着くように思います。場所を考えるビジョンですね。

石川──なるほど。それってヴィジョンというより、アティチュード(態度)という言い方が相応しいですね。目に見えているのはつねに異なるスケールの徴候であるというセンスを失わないことが重要で、つまり今見えているものはより大きなスケールに由来していて、かつもっと小さなスケールの積み重ねでもあるわけです。
坪庭が求められたときに、いきなり坪庭を構想して作るのではなく、その施設のある地域の植生を把握するところから始めると、自分が向き合っている場所の位置づけがわかります。そうすると安心して自分にゴーサインが出せます。向き合っているもののスケールを自覚するということは、必ずしもメカニズムの把握ということではなく、マッピングで良いのではないかと思います。

日埜──都市にせよ、庭にせよ、自律しているのではなく、内にも外にも相互依存のネットワークがあるということですね。それは生態系の分野での議論と似ています。自然だけではなく、人工物にも関係性があり、さらにライフスタイルのような無形のものもからみ合っています。それは世界そのものの濃密さで、まるごとはとても扱いきれないようなものなのだけれど、それぞれの専門分野というのはそれをある程度扱いやすくするヴィジョン、あるいは手法を持っている。そこにもう少し踏み込めるんじゃないかということなのかもしれません。
ともあれ、このある組み合わせ、あるアレンジメントが特有のキャラクターを生成するという考え方がずっと気になっているんです。ジル・ドゥルーズという哲学者がいますけど、個体化とか此性(これせい)という言葉でその事を言っています。「ある夕方にある通りを叫びながら誰かが走ってくる」とか、「ある丘に木が生えていてそこに女の子が座り木漏れ日が落ちる」とか、そういうのは既にそれ全体が一つのキャラクターとなっているんだ、というようなことを彼は言います。ある組み合わせがなにか決定的に像を結び、それはすぐに瓦解してしまう不安定なものかもしれないけどたしかにそこにある。建築やランドスケープの場合は多少持続的なものであることを目指すことになるでしょうが。
そういう意味で戸越銀座には際立ったキャラクターがあります。そして東京という都市はそういう部分部分がバラバラにあるのではなく、それぞれのキャラクターが互いに結び付けられて東京のキャラクターになっている。そのときに視点が定まらないと安易にカオスだと言ってしまうのですが、もっとゴツゴツした異質性が固まったもの自体をきっちり見定めたいわけです。それぞれの場所にいわば自画像があり、だけどそれが集まって東京の自画像になる、そんなイメージですね。

日埜氏

石川──その態度には実際に住んでいる人へのリスペクトを感じます。

日埜──そうありたいし、そうでなくては面白くないと思います。

石川──キャラクターもさまざまなスケールであらわれるものだと思います。でも定量化できないために、カジュアルなものとして捉えられ、脇に追いやられてきたのかもしれないですね。ただ、私たちがそれこそ「自画像を描く」ために都市での日々の生活を見つめなおしてみると、キャラクターはなかなか切実です。たとえばどこに住むかを検討している人は、まさしくそういったキャラクターを見ていると思います。

日埜──たとえば「中央線沿線」などもまさしくそれですね。それは東横線とも京急線とも違い、住んでいる人は言われなくたって、そういうことを意識していますよね。沿線ごとに独特の雰囲気があって、それは他とは違う。さまざまなスケールのキャラクターがオーバーラップしていて、階層的にそれが整理されていくというよりは、「タグ付け」のように重層的に、雲のようにあるんじゃないかとイメージしています。「都内23区」や住所などは、整理するにはわかりやすいヒエラルキーですが、実際はそんなふうに切れていない。生態系のイメージはそういうオーバーラップした空間像を許容してくれますね。

石川──園芸に勤しむように都市に参加したいですよね。

日埜──育てる、愛でる、というようなアティチュードですね。建築は粒度が大きいので一発のインパクトが結構強いですが、リノベーションなんかはもう少し粒度の小さい仕事なのかもしれない。単に身の丈に合っているということではなく、同時多発的に行うこともでき、また社会的な関係も生まれる。このところリノベーションに社会の関心が向いているというのは、現代のそういう状況と対応しているのかもしれないですね。

石川──アーキテクチャは「お膳立て」ですよね。建築のスキルというか、空間をどうお膳立てするかを物質のレベルで知っている人が重要だと思います。そういう係の人がいないと話だけで終わってしまいます。

日埜──モノに落とすことで初めて見えてくる可能性がありますからね。建築家はそういうスキルを持っていますが、でも例えばより良い庭のつくり方などは知らないからランドスケープの人が持っているスキルが要る。都市計画家はより大きなスケールで場所のキャラクターを考えているでしょう。それぞれが場所に定着するキャラクターを考え、ジャッジをしていけるはずです。気候に合わない木が結局うまく育たないように、場所と密実な関係を生むフックを持ったものを丁寧に見つけていかないと立ち枯れてしまう。

石川──樹木の生育についていえば、気候に合う木を探すためのチェックリストというか、押さえなくてはいけない手続きは共通しています。ただ、ある地域で使われる手続きが他の地域で有効かどうかはわかりません。例えばアメリカで発達したサイトアナリシスの手法はそのままでは日本で使えません。でも逆に、他の地域で通用しないサイトアナリシスであれば、それはより繊細にもとの対象地域にアプローチしているということになります。

日埜──同じ素材でも中華料理とフランス料理で仕上がる皿がまったく違うように、その場所をデコードするための固有のアプローチがあるというようなことでしょうか。その違いについてのリテラシーを持つためにも、自画像をシェアすることにポジティブな可能性があるんじゃないでしょうか。ある枝と枝で相互の理解が得られなくても、少なくとも大本の幹まで戻れば話ができるといったように。


201508

特集 都市学への思考


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