『日本の思想』としての新国立競技場コンペ
1. 世界に冠たる日本ゼネコンの技術力?
丸山眞男の『日本の思想』(1961)によれば、日本の思想というのは、学習した知識が雑多にあつめられているだけで、構造化もされておらず、学んでは忘れられるが、ときどき思い出として噴出するもののようだ。過去は思い出である。それは突如、復活する。前近代と近代はずるずると連続しており、それは思想の雑居や無限抱擁などとよばれる。2020年開催の東京オリンピックをめざしての新国立競技場コンペの顛末は、この思い出の噴出であった。たとえば村松貞次郎の「設計・施工一貫を押す」という主張(『現代建築をつくる人々』1963)は、すこし形をかえつつデザインビルド方式にもどり、復活した。すこしおくれて1974年から神代雄一郎がしかけた巨大建築論争は、イラク出身建築家による最優秀賞作品(当選案)のスパン400メートル近いキールアーチや、そのスケールがもたらす周辺環境破壊への批判にそのまま重なっている。はたまたそこで批判された林昌二が「その社会が建築をつくる」などと理路整然と反論したことなどは、今回の顛末のなかで、有識者審査委員のひとりが日本国民はオリンピックを選んだなどと、堂々と居直ったことまでも思い出させる。構造がない思想はいともかんたんに反転する。デザイン監修者と設計者のチームという建築家のブランド力を重視するような最初のコンペから、五社しかないスーパーゼネコンが建築家を選ぶ体制へという変化は、実質的に、思想の180度逆転である。しかもゼネコンやそれに代表される日本の技術力への過度の依存がなかったかどうか、疑問視される。当事者そのものも、その意識も理論も、50年前とほとんど変わっていない。今回目新しいのは、スポーツ産業や広告業界の発言力が強いことであり、それが旧来の建設産業の慣性力を攪乱している感はするが、全体としてはますます事態を混乱させるし、基本的にはつねに事態は混乱しているという日本の思想的風土を強化する方向に働いている。
そもそもこれは国家プロジェクトなのだろうか? JSCが施主であるかぎりにおいて、そうである。しかし基本的な与件を満たしているだろうか。たとえばそのシンボル性によって国家的統合を表現しうるかどうか。その公共事業としての投資効果により経済を活性化できるかどうか。そこで展開される機能によって、国をレベルアップできるかどうか。これらのどの基準も、今日、ゆらいでいる。20世紀的な国民国家はすでに完成されている。国家を表象する建築や景観もすでに整備されている。さらにインフラも十分整備されている。すでにオリンピックは効果的な投資対象ではない。国家というわがままな施主そのものが、すでに迷惑機関なのかもしれない。建設業界もまた、そんなものに頼らなくとも、経営はうまくゆく。建設需要はそのほかにも求められる。それでも新自由主義的な国際的都市間競争のなかで、東京にカンフル剤を投入する、それが国家プロジェクトなのであろうか。
近代オリンピックの側から考えると、19世紀的な自由主義経済のなかで発展した近代都市というものを前提に考えざるをえない。すなわち19世紀的近代都市はまず経済成長のためのイヴェントとして万国博覧会をなんども企画したが、そのためには都市内に、旧王領地などから転用した広大な空地が必要であった。それらは近代化のプロセスのなかで公園なり緑地となった。さらに19世紀後半において国民教育、国民皆兵、公衆衛生、体育などが普遍化された。それが貴族的ノブレス・オブリジュ思想により先導されて、近代オリンピックの誕生となる。経済成長をめざした博覧会戦略、国民教育の普遍化が並行し、それらが都市整備に反映されて、公園整備、スポーツ施設整備に具体化されてゆく。日本の法制度のなかでも、いわゆる都市公園施設のなかに体育施設が含まれるのは偶然ではない。素朴に考えて、陸上競技のようなものは公園で実施するに不都合なく、その施設は公園のさまざまな施設のひとつなのであった。それがオリンピックの発展にしたがい、国民間競争がグローバル資本戦略のようなものに近づくなかで、国家的モチベーションは低下していった。ある社会学者が調査したように、日本国民はおおまかにはオリンピックを支持しているとはいえ、政治とおなじく、無関心層は厚く、積極的支持はなし、まあ反対はしませんが、である。
そうしたなかで可能なモチベーションとして要請されて登場したのが、グローバル化対応という発想である。ある競技種目の団体が、ワールドカップを開催するために8万人収容のスタジアムを要望した。そのおかげでスケールが大きくなった。国立施設に圧力団体の要望が取り入れられた。とはいえ、それ以上の意味がある。世界標準という考え方である。グローバル化ということを経由して、新自由主義的なアイコン建築に連動することに注目すべきである。なにと連動するか。あえて造語すれば「ビルバオ・コンプレクス」である。20世紀的な近代都市は、基幹的な産業、とくに高度な製造業ぬきにしては成り立たない。しかし21世紀の過剰流動的な資本が支配する世界にあっては、投資と回収が計算できれば、そういう基幹産業は不可欠ではなく、文化と観光業でもじゅうぶん都市は繁栄する。これは第三次産業が大部分を占める都市においては顕著である。そこで《ビルバオ・グッゲンハイム》の成功に霊感を受けた人びとは、今回の最優秀賞作品が第2(第×の?)のゲーリー案にあるのではないか、と考えた。有識者審査委員のひとりも「建築家諸氏に告ぐ」のなかで、そう主張する。しかしそこには理路整然とした飛躍がある。東京がひいては日本全体が、グローバル化のなかで、経済パワーとして世界ランキングを下げていきそうなのは、そうであろう。しかし当選案がゲーリー案を彷彿とさせるからといって、他の案以上に、ビルバオ効果が期待できる、ということにはならない。そういう理論構築をコンペ報告書もしてない。そうではなく件の著者は、国難だ、国難だ、といいたて、それがほかでもない当選案が解決するという結論に導く。しかしそれは人を不安な気持ちにさせることでなされる空気の誘導にしかすぎなかった。
それにしてもコンペ報告書における審査の観点に「技術的チャレンジ」あるいはそれに類する表現が繰り返されていたことに注目したい。もちろん建築や工学全般はつねに技術革新をするものであり、つねに挑戦しているのだから、それを取り上げることは、とりあえずは妥当である。しかし21世紀の新しいはずの時代のなかで、ましてやおもてなしをテーマとする大会のなかで、それは前面に押し出すようなことであろうか。「技術的チャレンジ」は普遍的に妥当するからこそ、いま、ここのコンセプトとしてわざわざ強調されるのはなぜかと訝しむのである。端的にいうと、それは19世紀ならスローガンでありえたが、21世紀には古色蒼然として辛気くさくさえある。技術そのものや技術者たちをリスペクトすべきであるが、それを強調するコンペ審査員の意識の問題である。この意識の陳腐さのかげに、さまざまな問題がうごめいているように感じられる。
WEB上で公表されているコンペ報告書では、当選案(作品番号17)への審査員個人評が抄録されている。「デザインの斬新さ、未来志向、世界に対する情報発信、日本の実力を見せる技術的部分から見ても抜きん出ている」や、「技術的に解決あるいは調整しなければならない箇所はあるが、チャレンジするに値する造形で、オリンピックに必要なインパクトがある」とか、「メッセージ性と日本の技術、チャレンジ精神を世界に発信できる......」などであり、「チャレンジ」や、それに類する概念が繰り返されている。さらにそれは、この案が丹下健三の《代々木オリンピックプール》へのオマージュになっているという正当化の根拠にもなっているのは自明である。
この「チャレンジ」は文面だけみればとくに問題がないようである。しかし後日メディアがつたえた競技場をめぐるさまざまな問題は、このチャレンジのことであった。まだ前例のない開閉式膜構造の屋根であり、70メートル下の炎を感知するセンサーであり、地震時に振動するのでどう制御していいかわかならいスパン400メートルちかいキールアーチであり、それらを解決することである。技術では可能性と不可能性のあいだの、あるいは大胆と無茶のあいだの境界は、まさに時代によって移動するのだから、素人は本質的判断をすることはできない。そこで相対的判断をすると、もし審査員が大アーチを建設させ、どうだ、すごいだろ、と自慢する光景を想像してみれば、そのようなチャレンジ、そういう自負がどのていど文化的で知的なものであるかはわかるはずだ。
そうした相対的判断も素人の繰り言だとしよう。しかし今回の問題は、そのチャレンジをめぐって設計者と建設者とのあいだの断層、断絶が露見してしまったということである。たしかにチャレンジはなされる。しかし正確にいえば今回、設計者が施工者に、技術を所有するゼネコンにそのチャレンジを命じるという構図が浮上してしまった。ところが報道(『文藝春秋』2015年9月号「新国立競技場 遅すぎた白紙撤回」)が伝えるところによれば、ゼネコンは、建設費高騰や技術的不可能性というかたちで危機を表明し、JSCをスルーして、政府の中枢にもの申した。政府は、文科省もJSCも管理能力なしと判断して、白紙撤回と判断したということのようである。これが、チャレンジがもたらした次の問題である。設計と施工、あるいは建築家と請負家というのは、それこそ西洋ルネサンス以来、意図的に、利害が対立するように制度設計されている。だから建築家と請負家とのあいだで葛藤がおきるというのは、課題を顕在化させるためであって、本来は良いことである。ただその主旨のためにも、今回も、その対立の構図を描かねばならない。
表現も過剰ではあるが「ゼネコン過剰依存」とすると、全体はうまく描ける。世界に冠たる技術大国、その中核にあるゼネコン、という認識がそこそこ妥当だとしよう。すると巨大アーチ構造もなんとかなるだろう。それが審査委員会の判断であった。であれば建築家たちの、これによって日本の技術力はさらにアップするであろう、という判断も、同じ方向性である。その気持ちが報告書における「チャレンジ」「日本の技術」といった連呼になってあらわれる。しかしこうした構図は、競技場白紙撤回と安保法案とが同時期に論じられたこともあって、奇妙な連想を呼ぶ。つまりこの期待が過剰になればなるほど現場から遊離して、前線の状況を把握せず成果のみをもとめる大本営と、その前線で苦労する現地人員というそれこそ70年以上前の構図に、図式的には相似になってしまう。つまり国内の指示者と下請者という構図のなかで、自分は指図する立場にいると自明視しているひとびとが、「わたしは指図する、施工者なんとかしろ」という認識であることを示している。設計と施工を分離するのは、指揮と現場という関係において、どちらかが暴走すればもういっぽうが抑制するという関係におくことが目的なのであって、おなじ構図のシステムである。今回、暴走したのはどちらのほうであろうか。見ようによっては今回にかぎっては、建築家とゼネコンとの闘いは、前者の優勢にはじまり、持久戦の結果、後者の勝利(というより消極的不敗)に終わったかのようである。
JSCなどの施主のプロジェクトマネジメント能力があまりに貧相であったので、自由な建築家たちは理想的施主の立場へと勇み足的に自己同定してしまった、というようにも見える。建築家たちが、世界に冠たる日本ゼネコンと持ち上げるのなら、巨大キールアーチは無理という彼らの判断をも、尊重するのがスジである。いやそんなことはない、オールジャパンでやれ、気合いでできる、というのなら、彼らの専門的判断を信じないということにもなる。審査委員長の最後の捨て台詞はそのように聞こえる。ゼネコンがなんとかしてくれると建築家たちが考えるとする。すると大胆構造は無理だという彼らの専門的な判断も尊重しなければならない。であるならその延長で、デザインビルドも正当化されるのだろうか。しかし理論的には、デザインビルドは近代的な建築家の職能理念には反する。だからあくまで建築家がリーダーシップをとるのが道理である。どうどう巡りである。
このようなデッドロックに日本の建築家はのりあげてしまった。そしてその先に見えたのは、結局、丸山眞男が「思い出」の「噴出」と書いたような状況である。50年前とおおきく異なっているはずなのに、設計施工、巨大建築、そして国や都市のあるべき姿、それにかんする議論は五里霧中である。あまつさえ、公共事業削減の時期をのりこえて、建設業界とくに大手は、業績もよく、強力な存在になっている。このような時流を反映して、建築家と施工家という構図における理想と現実がふたたび食い違ってきた、というのが結果論的にいえる。いまや古くさいマルクス流にいうと、下部構造が上部構造を支配するようになった。大きな構図が反転したのである。いや構図そのものは同じかもしれない。その私たちの意識への投影のされかたが、反転したのである。それはイデオロギーの反転と連動しているかもしれない。
2. イデオロギーの反転
ふたたび丸山真男の『日本の思想』から引用すると、それはあらゆる思想なるものを無秩序に飲み込んでしまう思想的雑居であり、その無限抱擁である。それと対照的なのが、理論的によく構築され普遍性のあるマルクス主義とキリスト教という、近代日本が直面した大文字の思想である。しかも近代日本人は、理論は理論であり、そもそも現実と乖離している異次元のものとして処遇するものだという適切な距離感をもちえなかったので、逆に大文字の理論を物神崇拝してしまうという欠陥をもっていた。この欠陥ゆえに彼らは、時局の大変化とともにたびたび、理論から現実感へ、外来思想から生活実感へ、ジャンプしてしまう。それが転向である。転向とは、左から右への極ジャンプであるにとどまらず、それは大文字の思想から実感のわく無限抱擁の世界へといっきに跳躍することでもあった。だから『日本の思想』とは、むしろ日本ではいかに思想が成立しないかの説明である。ただ丸山の緒論は、見ようによっては、西洋中心主義的であり、日本後進説であり、いわゆる上から目線、いわゆる進歩的知識人風でもあった。それゆえ彼は1960年代後半にはむしろ批判された。しかしいまとなっては、それ以降の60年間という一巡する時代における全体の構図を、むしろよく描き出すものとなった。『日経アーキテクチュア』WEB版上での当選案と良識派の闘いにかんする記事は、とくに違和感なく読めるものであったが、いくつかの認識は共有しつつ、個人批判ではなくあくまで思想批判として、本論なりの方向で展開したい。まずコンペ審査の有識者委員たちはいずれも高名な人びとであり、彼らの思想もこれまでに十分表明されているので、思想のチャートを作成することは容易である。するとこういうことがわかる。前段で述べたように、50年前と風景は似ているのだが、反転しているのである。どう反転しているかは比較的容易に説明できるが、この反転がなにを意味しているかはじっくり考えてみなければならない。つまりかつてモダンを代表していた建築家が今回は環境と文脈を守ろうという保全派の立場をとるようになる。逆にかつて、歴史的文脈を尊重しようと主張していた人びとが、どうみても容積過多な開発を推進する側になる。おたがいに役割を交換しているのである。それは左から右へ、右から左への転向が双方向的におこった、あるいはラディカルとコンサーバティブのあいだで同じことがおこった、ということである。
1960年代から 2010年代
モダン → 開発主義
×
保全派 → 文脈主義
たとえば高名なモダン建築家は、近代の立場であることを自認し、過去にはメタボリズム運動にも参加していたし、ゴルジ構造体、群造形などといった純理論も展開していた。彼がのちに展開した、経験主義的で段階的な設計手法、東京都市論、「奥の思想」などは、モダンという狭い枠組みにこだわるものではなかったが、矛盾を避けた平明な理論化は精神においてモダンであった。しかし当選案にたいしては反対派の理論的支柱となった。場所の歴史的意味、都市建築としてのボリューム、環境への配慮、経費の問題、などを理由にして反対した。私見によれば、建築的イデオロギー以前に、彼自身に内在する市民的な良識において一貫しているのは確かである。とはいえ建築論の構図においては、モダンから保守的なものへの転向がなされたといえる。あるいは本人にとっては一貫した主張が、転向として投影されるような、まさに背景としての建築の構図があったというべきであろう。
これにたいし審査委員長であった、かつて闘う建築家とも呼ばれた人物は、ミニマリズム、ラディカルの旗手であったが、近代町屋、RC壁の都市的文脈への融合という作風からは、むしろ保守ラディカルであり、個と民の立場からの建築家であった。今回のコンペは、大規模な国立施設という課題の性質からして、かつての用語を使うならば体制側の立場に立つことを職務として与えられただけのことは自明である。それにしても日本の技術、ゼネコンの優秀さ、それらを前面におしだしての大胆、ダイナミック、シンボリックな価値の強調という、それこそ「わかりやすい」価値の強調は、一転して、けれんみのない開発主義の立場に転向したというように見える。ここでも内的な変化はそれほどでもなく、陰画が大きく変わったことで、見かけもそうなったと考えられる。
ひとりの審査員は批判的地域主義の建築家とでも呼ぶべき人物であり、構法と空間の一致した清廉な建築をつくっていた。他のなにかを批判するのではなく、実作のなかに根源への回帰と、文脈との対話を求めた、どちらかというと保守ラディカルであった。その意味では70年代の保全派、歴史派の立場に近かったような印象を与える。その彼が今回のコンペの審査をみずから代表して、時局を鑑みてこの案を飲むのだ、震災復興、グローバル化、都市間競争、日本の国際的地位の相対的低下という状況から、都心の環境破壊もやむを得ないのだ、という大号令をかけるのは、国家的あるいはほとんど大本営的な立場への転向というものであろう。新自由主義経済における東京の退潮をこの造形で挽回するというビルバオ・コンプレクスの発想を堂々と展開するのは、むしろ語るに落ちたというものであろう。さらに反対派の強固な意見を再び傾聴し、主張を緩めるのは、本質的に内在する良心の証しとして認められる。それにしても構図は再反転したのである。
もうひとりの審査員はいわば土地論者であった。彼もまたかつては保守ラディカルと呼べる立場であり、近代建築的幾何学にたいし装飾を、開発にたいして保存と保全を主張した。彼はそれを土地史、ゲニウス・ロキというキーワードで理論化した。そうして歴史性や文脈を尊重するべきと訴えていた。しかしこのコンペにおいてはむしろ、アイコン建築を採用して都市を活性化する開発派へと転向したようである。
このように今回のコンペの、あえていうと不気味さは、左と右が、革新と保守が、おたがいに入れ替わったことにある。あるひとりが主義主張を変えたのなら、その是非はともかくも、驚きはしない。しかし複数の人びとが、まったく左右対称に座席を交換したさまは、遠望としても奇怪である。
しかしこうした反転はまさに図式的におこったことであり、図式である以上、個人を超越した建築思想全般のことである。したがってここでは個人批判は無益である。「ゲニウス・ロキ」をサンプルとして、理論とその図式を点検してみよう。この古代ローマで生まれ、18世紀イギリスの庭園理論を経由して、20世紀の現象学やひいては日本にも伝えられたこの概念は、開発にたいする保存、建築のスクラップアンドビルドにたいする歴史性と文脈性の主張であった。ゲニウス・ロキは、丸山が主張する「日本の思想」のありとあらゆる特徴、固有信仰、無限抱擁、原型、体系的理論の拒否、実感信仰、規範意識にまで自己を高めぬ自然状態への密着、が含まれていた。しかもゲニウス・ロキはきわめて正当で堅実のように見えて、それを主張しつづけることが、ある転倒をもたらす。それは理論と主張者の相互依存関係である。すなわち都市も土地もきわめて具体的で不動のものであるので、理論を超えて身体性のレベルで、主張者と関連づけられるようになる。つまり主張者はこの都市にながく住みつづけ、知識としても体験としても、密接にかかわっている。このような意識が生まれると、まさに理論ではなく身体的に、主張者と土地は深い関係があるものとされ、その主張者の意見はなにか特権的なものとみなされるようになる。理論が身体を経由して特権化するわけである。この特権性が、転向さえも正当化する。都市と一体化した私があえて主張するのだから、ここは保存だ、ここは開発だ、というように。
こうした論理は丸山眞男にもどって、「自然(じねん)と作為(さくい)」という図式を彼から借りることで、よりよく位置づけられる。この図式において、丸山は国学を批判し、本居宣長や小林秀雄を論断した。柄谷行人はそれをさらに精緻なものにして反復している感がある。ただ初期の丸山にもどると、この二項図式はむしろもっとシンプルであった。作為であること、つまり現実は構築されたものであるからこそ、構築しなおすことができる。そこに民主主義の可能性を見いだせる。反対に自然とは、伝統的な共同体のような、実感のわくふるさとのように感じられながら、あるがままの現実肯定となり、変えられないものとして人間を支配する。党派を超えて考えれば、自然により作為を批判することも、作為により自然を批判することも、どちらにも正当性はある。しかしいま、ここにおいては、どうか。
自然と作為は普遍的構図であるからさまざまなものに適用できる。たとえば近代建築の黎明期において、19世紀的折衷主義はある過去の様式を選択するという作為であったのにたいし、現代の技術や社会的要求に率直に応えていこうとするモダニストたちはむしろ自然であった。すると、微妙な判断ではあるが、スパン370メートルのキールアーチの目的が、純粋な構造的合理性のためだけなら自然であるが、技術力誇示のためだけなら作為である。ゲニウス・ロキは土地に潜在的に内在する可能性という意味では自然であるし、それにたいしモダニズムは、さまざまな作家的表現をその土地の上に実現するという点では作為そのものである。しかし作為の典型例である建築がある土地の上に建設され、そして存続しつづけ、あるいは取り壊されると、その作為はやがて歴史的文脈の一部になり、自然(じねん)化する。するとそこで作為と自然の反転がおこってしまう。ゲニウス・ロキはもともと、土地の自然を強調して、作為的な近代を批判したのであるが、身体を経由して特権化すると、こんどは作為となる。そして新国立競技場における思想的問題とは、自然がその対局の作為とむすびついてしまったことある。これが反転として現象する。さらに先に述べた特権的な主張者でいえば、身体とは一種の自然なのであるから、ここで理論(作為)と自然が偶有的に密着する。この論理構成においてこの結びつきは論理的なものではない。身体的なのである。それは自然=東京的なものを代理代表する具体的個体としての論者をくくりあげて、その論者の発言力を強化するものとして作用するのである。すなわち自然は、身体を経由して反転し、作為となる。そうした新国立競技場建設の延長線上に構想されているという外苑地区の全面的再開発は、近代批判派がアクセルを踏み、近代派がブレーキをかけるという、これまた反転の構図となりつつある。おなじように、職能の問題を、中世的で職人的なルーツである請負者と、近代的な学知にもとづく建築家という古典的図式に還元すると、請負家と建築家は、前近代と近代、実感と理論、そして自然と作為、を代理代表しているといえる。そして今現在としては、この構図が反転して、むしろゼネコンが作為の側にまわっているのである。
3. コンペ最優秀賞作品(当選案)の数奇な運命
当選案はコンペで選ばれたのだから、その特性をもっと語られてしかるべきであった。審査報告書のなかの説明も、大胆、ダイナミック、シンボリックという官僚的言説に始終しており、およそ建築界の言説ではない。わかりやすそうで、わからなかった。挑戦的と評されても、施工者に難儀をかぶせることだけが挑戦的というような結果になっている。既存インフラをもオーバーラップする大胆な造形は、東京という都市組織との関連で考えると明らかである。既存都市はグリッドプランではなく、細やかな、錯綜した、密度濃い都市組織からなりたっている。原案は、その編み目の一部が肥大し、立体化し、その下に大きな内部空間を抱え込むようなものとなっている。そのペデストリアンは、景観を楽しめるだけでなく、都市の延長にある。水平と垂直しかなかった都市の空間組織が、ある部分で、こんもりと盛り上がり、活力に満ちたこぶを形成する。そこに見慣れた平板に映る既存都市の、その既存組織の一部が異化し、変容し、立体化しつつ、肥大化し、シームレスに異次元に突入してゆく。そういう意味で都市を変容させる建築であった。
しかしキールアーチが「日本の技術力」の象徴であるという短絡が生じた時点で、そういう原理は根本的に断ち切られてしまった。なぜなら提案された大構造物は、建築でいえば古典主義的な完結性をもっており、周囲の文脈からみずから隔絶する。対話することも、連続することも、やめてしまう。壮大なアーチは、空間を背後からそっと支えるというより、それ自身の論理によってその存在を主張する。1960年代のメガストラクチュアのようなものになってしまう。21世紀の建築と思われたものが、みずからモーフィングしてゆき、ハイパーストラクチュアの自己主張という1960年代に回帰してゆく。それはスケールの問題でもある。アーチが小規模で、せいぜいローマのパンテオンほどであったら、構造体は都市組織のなかにあって、自己主張しつつも、既存の都市組織を攪乱しつつも、そのことによってむしろ広がりのある都市組織のなかの特徴ある特異点として、対比的な存在感を示し、全体と個との弁証法を美学化できたであろう。
改定案が亀といわれたのは、その形態のことではない。都市組織の変容というテーマが無視され、自閉してしまったからである。堅い甲羅のなかに自らを閉じ込めることで、ダイナミックな都市との連動をみずから放棄してしまった。対話というヒューマンな次元ではない。連動、共振というきわめてダイナミックな、新しいヴィジョンをもたらしうる次元が、放棄された。耐震性の不安や建設の問題とはダミーである。その言い方において、それ自身は真実なのではあるが、賛成派にとっても反対派にとっても、問題のすりかえであり、都市と建築のことがらが力学に還元されてしまった。
イラク出身のこの建築家が香港ビクトリア・ピークのコンペをもって登場したとき、脱構築とポストモダンの旗手のように見えたし、リベスキンドやゲーリーにつづく次の世代と思われた。ただ彼女は理論家というよりはパフォーマーであり、ラディカルが成り立たない時代の疑似ラディカル、ラディカルの追憶であり、むしろ基本的にはなりたたないことがむしろ保険と安心感となってラディカルを演じることができる、そのようなラディカルであった。かつての表現主義が技術不足のために妄想で終わったのを代償するように、むしろ疑似ラディカルが技術に裏打ちされた、しかしベタなラディカル造形を展開する危険性もあろう。それが新自由主義経済の時代にふさわしいといえば、それまでである。
ゲーリーやリベスキンドには、近代都市という脱構築すべき対象があった。この建築家は新自由主義経済的な状況という突き抜けたものがあった。21世紀初頭の東京はそれらとは違う状況にある。新国立競技場もまた日本の都市と建築における独特の文脈にある。すなわち日本の思想全般がそうであるように、保守があって革新があるようで、じつは革新ができたのであわてて保守ができた、という逆構築である。ここでも丸山眞男が指摘するように、保守というのは雑多な思想が雑居する融通無碍な空間であったにすぎず、そこにマルクス主義という構築にして革新が登場した。そこでしっかりした保守が必要となり、組み立てがはじまった。保守があって革新が生まれるのではなく、革新が登場したのであわてて保守が構築される。ゲニウス・ロキはその最たるものであった。しかしその論理の内部で、再び、保守と革新、自然と作為が反転するようなものであった。この悪い場所に女性建築家は迷い込み、自身が反転してしまう。すなわち脱構築のはずであったが、大スパンアーチの構築としてみなされる。脱構築は構築に反転する。挑発的にせよ都市的文脈を操作するはずが、非文脈の、孤立したものに改訂される。キールアーチ課題へと還元されるや、それは技術的偉大という典型的にしてある意味で平板な20世紀的なものとなった。彼女のポストモダン的なものは霧消した。
ここで、そもそも20世紀建築とはなんであったかを、回顧的に反省してみてもいい。それは壮大と矮小の矛盾的同時存在であった。20世紀初頭にはやった表現を借用して、多即一、大即小、などと戯れ言を述べてもいいかもしれない。つまり、ひとつは誇大妄想的なメガロマニア。つまりいわゆる先進国の帝国主義的な都心広場整備。もうひとつはコンパクトで効率的なものの大量の氾濫。つまり郊外住宅地や団地に大量に供給される住宅。こうした矛盾する両極端をもとめたのが20世紀建築というものであった。両者はときに混同される。超高層は階高数メートルという単位空間の反復にすぎない。すなわちこれはコンパクトな効率性の蝟集である。高さ一キロにちかづこうとも、それは偉大でも壮大でもない。コールハースのように、全体のシルエットを操作して、スケールの大きさを表現しようと工夫する建築家もいる。しかしそれらがアイコン建築というように位置づけられるように、見かけ上のことにすぎない。
換言すれば近代建築はそのいわゆる機能主義という教条のすぐとなりに、アナクロニックな欲望を内在させていた。それが古代ローマ的な壮大をもとめるプロジェクトができる原因となる。近代オリンピックなどもその一翼を担うものなのであった。かつて東京は、いわゆる先進国によく追随し、近代都市形成のなかで広大な空地を確保するなどして、近代オリンピック開催がなんとか可能な都市を整備していった。しかしそれでも神宮内苑のシンボリックな価値はともかく、その外苑が規模としてはオリンピックに十分ではないことは、すでに戦前から指摘されていた。この事実は、あくまで結果論ではあるが、同時代の西洋都市におけるようなあくどいまでのアナクロニズムには達していなかったということを物語っている。しかしそれは、限界であるとどうじに、美点であるとさえ思える。
そしてコンペでは、21世紀の新自由主義経済という状況のなかで、20世紀的な国家主導型で国難を乗り越えよう、などという檄が元審査委員から発せられる。20世紀都市はきわめて効率的な細密さと、妄想的次元の壮大さを両立すべきものである。東京はそのレベルには到達していない。であるならかつての磯崎新の福岡オリンピック案は、テンポラリーな蜃気楼海上都市の提案として、日本におけるオリンピックのあり方におけるきわめて論理的な案ということになる。海上都市は東京の代替として構想されてきたという歴史的文脈でも、オーソドックスである。さらにそれは既存の都市構造を変えないし、未来に負債を残すこともないのである。そこまでいわないにしても、近代都市と近代オリンピックの平行関係はあらためてスタディされてもいいと思える。そうすればオリンピックのあり方そのものを再考できるであろうし、彼女が迷い込んだ場所の悪さを理論的に究明できるであろう。それは反対運動以上に、採択の理由そのものが、原案の可能性を殺してしまった理不尽な迷路であった。
- Arata Isozaki & Associates
4. 粒子論、流体論、そして非常時
メディア情報によれば仕切り直しコンペはデザインビルド方式による二案に集約されるそうである。その建築家たちの氏名はまだ非公開だが、おおっぴらに周知されている。しかしここでも個人名をあげつらうのは本論の目的ではない。最初のコンペの当選案が、時代遅れの巨大趣味であると曲解されて、市民運動というより、いまや隠然たる力をもった巨大施工者の好みによって葬り去られたのを遠くで観察していると不安ではある。しかし第二コンペに参加する建築家たちは、方法論もしっかりしており、かつクレバーでスマートであるという印象である。ひとりは粒子論の建築家である。彼は、「10宅論」「負ける建築」などといったコンセプトにより、郊外住宅地というコンパクトで能率的なものの大量生産にたいしても、巨大な構築にたいしても、批判をつづけてきた。その方法論は、建築を砕き、粒子化することである。巨大すぎた当選案のあとに登場するにふさわしく、市民にも、ゼネコンにも受け入れられやすい。それは巧妙な妥協やすりあわせという卑近なレベルにとどまる危険性はないであろう。イメージとしては、群魚がひとつの大魚に見えるような、そのようなプロジェクト展開をしてくれれば、彼らしくあり、かつ、これまでの経緯をふまえた建設的なものとなるであろう。
もうひとりは流体の建築家である。彼は、消費社会という海に漂うとか、風の変容とか、流体のメタファーで建築を語ってきた。それはたんなる言葉遊びではなかった。《せんだいメディアテーク》において、海中の藻のような網状の複合柱をつくったとき、そのイメージはより直裁に具現化されるものとなった。以降、さまざまな実現のなかで、たとえばある図書館では、正規グリッドが見えない磁場や電場などにより歪められたような造形が反復された。水の中の魚は、水の一部である、という考え方がある。水の事情を斟酌して、魚も変容する。この流体の建築家は、都市の文脈や、施設に課されたミッション、市民の要求などが溶け合ったひとつの海のなかで、美しい魚を設計するであろう。
そして粒子論にせよ流体論にせよ、ひところの複雑系にかんする議論にあるように、古典的な機械論と有機体論との矛盾をうまく調節してくれる期待がもてる。都市のなかで具体的なひとつの建築を設計する、その営みのなかで矛盾を克服できることが期待される。デモニッシュな比喩をいえば、20世紀的総力戦の果てに代替兵器、代替燃料、代替食料などさまざまが動員されたように、粒子も流体も、きわめてオーソドクスな究極的代替物なのかもしれない。そう考えると、ここではじめて旧《代々木オリンピックプール》と、白紙撤回された旧当選案とのリンクが浮上する。「東京計画1960」が下敷きになって代々木があるのは明らかだ。都市の構造づけという方向性が貫通しているのである。都市構造を目指すパーツとしてのプロジェクトであった。旧当選案は、錯綜する都市組織を強調しようとしながら、孤立する構造であると誤って強調され、内部矛盾をひきおこした。構造概念にたいする態度が曖昧であったことが原因である。それを含め、顛末全体が過渡期的であった。この矛盾が建築界のさまざまな反転をもたらしたのだ。そして、かりに粒子案か流体案が選ばれれば、構造と現象を二元論として区別するのではない、ポストモダンの最良の部分をいかした最後の大プロジェクトといったものになりうる。しかしそれにしても、具体案を手にしていない現時点(2015年10月5日)では、どう期待していいかもわからない。
そこで冒頭に回帰するかたちで論の体裁をととのえるとすれば、今は「非常時」なのかという問いとなる。戦前、時局の急展開のなかで、左翼思想家は弾圧され、思想統制がはじまった。そのとき小林秀雄は、それは非常時だから、混乱、逆転はあるのだと言い放った。それを丸山は批判して非常時について語ったのだ。今回のコンペで、震災、経済状況、安保までもが連動して語られると、全体としては非常時なのかという問いを発したくもなる。とりわけ元審査委員が、それら全般を国難として表明し、だから当選案を支持しろということを建築家諸氏に告げたとき、言外にあったのはこの非常時という概念なのである。もちろん個人批判ではない。潜在的にあったこの概念を顕在化させた貢献が、その指摘にはあった。諸イデオロギーが反転し、外国人建築家が悪い場所に迷い込み、建築家と施工者の力関係が逆転するのは、この時局のせいであろうか。しかし時局のせいで思想が混乱することが現象としてはあるにしても、人間がみずから混乱した思想をもつことで非常時をつくっていることも認めなければならない。そもそもその反省にたって『日本の思想』は書かれたのだ。おおきな構図は、半世紀以上たっても、さほど変わっていない。