フランク・ゲーリーという多様体
──われわれはその空間になにを見ているのか

浅子佳英(建築家、インテリアデザイナー)+門脇耕三(建築家、明治大学専任講師)

《ルイ・ヴィトン財団》と《ゲーリー自邸》──断片的な論理をつなぎとめる

《ルイ・ヴィトン財団》(2014)(撮影=門脇耕三)

個人的なアイデアのあふれるゲーリーがいて、もう一方にそれを実現する過程で試行錯誤するゲーリーがいる。そして両者は不可分で、時には後者が発想の源泉だったりする。だからこそインテリアのように枠組みの決まってしまっている仕事ではあまり力を発揮できないのかもしれません。
ところで門脇さんは最新作である《ルイ・ヴィトン財団》をご覧になったんですよね。

門脇──オープンしたばかりの頃に行ったのですが、基本的な構成としてはハコがあり、そこに力強い骨組みを持ったスキンを被せることによって、シーンをバランスさせながら設計していくという手法が、ひとつの方法論と化したことを感じました。だから何か新しい発見があったというわけではないのですが、外部空間とのつながり方は非常に魅力的でした。展示室自体は閉じているのですが、テラスからラ・デファンスが見えたり、地下空間から公園の緑が見えたりと、動線部分を往復する過程の眺めが効いていました。

《ルイ・ヴィトン財団》から新市街ラ・デファンスを眺める(撮影=門脇耕三)

浅子──この対談の初めのほうで、グルーエンとの共通点を挙げましたが、もうひとりショッピングセンターの設計者として著名なジョン・ジャーディにもゲーリーは通じているかもしれません。今のお話を聞いていると《ルイ・ヴィトン財団》では、必要な機能を内部に納めながら動線上で外部と内部をつなげていく手法を採っているようですが、同じようなことをジャーディもショッピングセンターで試みていました。

門脇──ゲーリーのオリジナリティは、やはりエレメントのコンポジションにあります。巨大なプロジェクトでも常にその感覚は研ぎ澄まされていて、空間の大きな見どころとなっています。《ルイ・ヴィトン財団》でも非常に奇妙なディテールが随所に散りばめられていて、例えば柱が水盤の境界上に浮いていて、意味が定まらない位置付けを獲得していたりする。そういうところを見て建築家は喜ぶわけですが、それは《自邸》からずっと続いているゲーリーの大きな魅力です。《自邸》は、建物としての完成度も使われている技術も決して高くはないのですが、読み込む要素の多い建築で、だからこそ僕は惹かれ続けているのだろうと思います。

《ルイ・ヴィトン財団》、柱が水盤の境界線上に落ちている(撮影=門脇耕三)

浅子──あの建築にはどこまで本気なのか、完成したのかどうかもわからないようなところがあって、その「わからなさ」が秀逸ですよね。

門脇──ブロック型とスキン型がこの時点ですでに見て取れますが、実大スケールで検討しながら設計しているため、自身のアーティスティックな作風を最大限に発揮できている。一方で施主は自らの妻で、予算や工事期間など、リアルな問題に頭を悩ませながら設計したのだろうと想像します。あのプロジェクトではアーティストとしての自分と、ものづくりのプロセスを含めた建築家としての自分を統合しながら設計しているはずです。

浅子──ゲーリーが《自邸》で成し遂げたことはひとつやふたつではなく、たくさんの実験がここで行なわれたように思えます。決して「枕元にF. L. ライトが立った」というようなひらめき型の設計ではありません。それ以前のプロジェクトでも、元の壁紙を部分的に残しその他の部分を剥がすことで壁紙を絵画のように見せていて、新しいつくり方を模索していることがすでに見て取れます。どこを新しくしたのかよくわからない意味が宙吊りになったような設計は、思いつきではなくさまざまな検討を経て実現化しているはずです。

門脇──《自邸》には、プラスターの下地としてアメリカでは一般的な、木摺り下地が露出している部分がありますが、アメリカの在来構法である木摺り下地を表現として読み替えてしまう手つきは、批判的地域主義的でもあります。《ビルバオ・グッゲンハイム美術館》では、その表現が軽鉄スタッド下地へ転換しているわけですから、その土地のつくり方を踏襲しているという点でも批判的地域主義的です。ケネス・フランプトンはゲーリーの建築を評価していなかったようですが。

浅子──たしかにそうですね。《自邸》は、もともとアメリカの伝統的なバルーン構法でつくられた中産階級向けの建物です。いわゆる郊外住宅の普通の住宅で、一般の人からしてもあこがれの対象ではないし、とりわけ建築家からは忌み嫌われるようなタイプの建物です。ゲーリーが購入した当時すでに築60年ほどが経過していて、建てられた当時の意味は希薄になりつつあった。それに対してゲーリーは、今自分たちの目の前にあるのだから、好き嫌いの判断を下すのではなく半分愛しながら半分変えていくような独特の方法を取ります。近年の長坂常さんの設計したリノベーション作品を見ていると、この頃のゲーリーがやっていたことがようやく日本でも実現できるようになったなと感じます。また、青木淳さんがメゾン・マルタン・マルジェラ恵比寿店に対して語った、目の前にあるものの意味を見ず、ただ見ること、具体的には白く塗るという行為によって意味を剥奪すること、すでになにかが存在している状況でなにかを行なう「リノベーション」というコンセプトの先駆けとも言えるでしょう。

《ゲーリー自邸》模型(「建築家フランク・ゲーリー展 "I Have an Idea"」より)

門脇──それ自体は歴史的な価値を持たない建物が、ずっとそこにあるがために正統性を帯びてくる。既存の建物で性能は充分に満たされているし、予算も少ないので(笑)、切り貼りして批判的に解釈しなおす。施工もアメリカ的なD.I.Y.の基盤をうまく利用してホームセンターで資材を購入し、職人に直接指示を出してつくってもらう。こうした方法はようやく日本でも始まってきました。

浅子──そう聞くとまさに今の日本の状況と同じですね。《自邸》では、元の建物が見慣れたものであるだけでなく、使っている部材もホームセンターで手に入るありふれたものだけを使っています。しかしそれによってまったく異なるものが生みだされている。そこがおもしろかったし、その部分でも現在の日本に通じるところがあるのでしょうね。

門脇──完全に信頼に足りうるわけではないストックを使って、なんとか環境を現代的な要求に適合させていく場面においては、これまでのような論理的一貫性を求めるのではなく、バラバラの論理を共存させたり、すでにある論理を読み替えて再解釈することが必要になります。それはとても現代的な主題だと思いますね。《自邸》では、バルーンフレーム構法を再解釈したり、そこに軸組構法的なものを付け足したり、まったく異なる素材をぶつけてみたりと、そこに一貫したルールは見られません。その代わりに断片的な論理があり、それらのコンポジションの問題としてそれぞれの場所に配列していく。

浅子──完全に違うルールを新しくつくるのではない、というわけですね。当時のアメリカは、ベトナム戦争後の決して明るい時代ではありませんでしたし、だからこそゲーリーの設計がリアリティを持って受け入れられたのでしょう。そう考えると、日本は社会状況も当時のアメリカに近づいているのかもしれません。 ゲーリー自身は、元の中産階級向けの住宅に住むような人間ではないという意識があったからこそ、改装したのだと思います。しかし、まったく変えてしまうわけでもなく部分的に変えて住んでいたことが重要だとはいえないでしょうか。ある意味では、この元になった住宅は当時の社会状況そのものだとも受け取れるわけです。それを完全に否定してしまうのではなく、新しく足しながらものをつくるという姿勢に僕は非常に共感します。

多様な捉え方からゲーリーを再考する

建築家フランク・ゲーリー展 "I Have an Idea"」会場の様子

門脇──その後ゲーリーは《自邸》での試みや経験を、さらに現代的なテクノロジーとも統合していくわけですが、日本はどうなるのでしょうか。

浅子──ゲーリーから学びつつ、さらにデヴェロップさせていくことを考えていきたいですよね。

門脇──彼は《ビルバオ・グッゲンハイム美術館》でも古い街並みを否定するのではなくて、むしろ対比的なあり方で称揚するという手法を採っています。BIMは建築を高度にインテグレートするツールだと捉えられがちですが、むしろ構造力学や環境工学などの異なる論理に根ざした雑多な技術や、互いに意思疎通しようとしない職人たちをかろうじてつなぎとめるためのツールだと解釈することもできて、ゲーリーは後者の可能性を正しく追求していると思います。

浅子──ゲーリーは、BIMについて語る時に、コンピューターの痕跡を消さなければならないと言っています。そこからシステムは最終的には消えていなければならないと考えていることがうかがえますよね。

門脇──そのとおりで、マスターモデルが矛盾なく可視化されるのではなく、むしろそこに寄りかかったバラバラなものたちのキャラクターが際立って見えてくる、そういう世界をゲーリーは目指しているのだと感じます。これは首尾一貫した価値観によって建築の構成要素を統制するのではなく、自立した論理や人格がなんとか一緒にいられる状態を探るための方法で、それこそが「都市に人間性を発露させる」ために必要だとも思うわけです。

浅子──今日の展示には、ゲーリーがアイデアの元にしているキーワードが書かれてありましたが、そのなかの「ひと」という項目では男、女、子どもに加えて障害者や老人も併記されていました。これは、ゲーリーが人をモジュロールのような平均的なものとして定義するのではなく、自分とは価値観も形態も異なる存在として考えていることが如実にわかる部分だと思いました。「多様な価値観」と一口にいっても、建築家にとってはやはりバラバラの人間がある時間と場所の中でいかにして共存することができるのかを考えるのが重要でしょう。
ただ、異なる人間を共存させるべく建てられた《自邸》ですが、子供が増えゲーリーをとりまく環境が変わったため、何度か改修しています。改修後の写真を見ていると、当時の粗さは随分と消えてしまっていて、僕自身は改修前の状態が好きです。ゲーリー本人も、今ある住宅は前のものと同じぐらい快適だが、前ほどのシャープさはなくなってしまったと語っています(ミルドレッド・フリードマン『フランク・O.ゲーリー──アーキテクチュア+プロセス』繁昌朗+山口祐一郎訳、鹿島出版会、2008)。これほどの住宅でも、成人した大人が複数住むには難しいという問題を露呈している気がして、後味の悪さが残っています。実は現在、ゲーリーは新しく自邸を設計しているらしく、その模型をみると分棟型で子どもの部屋は別棟なんですね。異なる人間が一緒に住むには結局ある程度の距離が必要なのでしょうか。

門脇──異なるモノどうしのコンポジションを求めれば、それを決定する強い人間が要請されてしまう。もしかすると、ゲーリー本人ではなく違う建築家が改修していれば、異なる人格が同じ空間でせめぎ合うことになるわけですから、その問題は起きなかったのかもしれません。しかしいずれにせよ、結局は「強い人間」に頼ることになってしまうわけで、だからこそシステムによって人間性を埋没させていくことを主張する建築家もいるのでしょう。また、ゲーリーのマスターモデルは、マスター・アーキテクトが決定した「正しい」インフラであるからこそ成立している。一方で、モノとモノが押し合いへし合いしながら、マスターモデルが自律的に生成されていく手法を追い求めている人たちもいるわけですよね。
ゲーリーを批判的に乗り越えるためには、やはり各人が解釈していくことが必要なのだと思います。今日浅子さんと話してきたことは、ゲーリーからすればまったく的外れなのかもしれない。しかしそうした多様な捉え方を可能とする余地を与えてくれるゲーリーこそ、まさしく乗り越えるべき存在であって、そのようにして建築は、新しく展開していくのだと思います。

浅子──たしかに今日話したことは専門家からするとほとんどが誤読なのかもしれませんが(笑)、とても有意義でした。
ぼく自身自宅のリノベーションをしたこともあり、ここ数年はずっとゲーリーのことが気になっていました。ただ、そのうえで最後にあえてまったく逆のことを言うと、自分も含め昨今のゲーリーへの関心は、コールハースの影響から逃れるために用意されたものではないか。今日話してみて、その思いはますます強くなりました。それは政治からの撤退でもあります。そして再開発やタワーマンションの乱立に建築家の名前はなく、現実もそういう流れで動いている。
どこかでそのふたつが重なるような建築をつくれないか。それが、今後10年ほどの課題になるような気がしています。


[2015年10月16日、21_21 DESIGN SIGHT近くのカフェにて]



★1──実現可能性を事前に探ること
★2──間取りなどを簡素化して示した図面

(特記のない写真は撮影=編集部)




浅子佳英(あさこ・よしひで)
1972年生まれ。建築家・デザイナー、タカバンスタジオ所属。国士舘大学非常勤講師。主な建築作品=《gray》(2014)。主な著書・共著=『これからの「カッコよさ」の話をしよう』(宇野常寛、門脇耕三と共著、角川書店、2015)、『思想地図β vol.1』(コンテクチュアズ、2010)ほか。web site=http://yoshihideasaco.com/

門脇耕三(かどわき・こうぞう)
1977年生まれ。2001年東京都立大学大学院工学研究科修士課程修了。2012年より明治大学専任講師。主な建築作品=《つつじヶ丘の家》(長坂常/スキーマ建築計画+明治大学 構法計画研究室)。主な著書・共著書=『シェアの思想/または愛と制度と空間の関係』(編集協力、LIXIL出版、2015)、『PLANETS vol.9 東京2020 オルタナティブ・オリンピック・プロジェクト』(共著、PLANETS、2015)ほか。web site=http://www.kkad.org/


201511

特集 フランク・ゲーリーを再考する──ポスト・モダン? ポスト・ポスト・モダン?


"I Have an Idea"──新しい建築の言語を探すために
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フランク・ゲーリー、纏う建築
「建築家 フランク・ゲーリー展」を観て──不敵な精神とささやかなものへの愛情
「必要」と「象徴」の一体性
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