オリジナリティと表現の現在地
──東京オリンピック・エンブレム、TPP知的財産条項から考える
──東京オリンピック・エンブレム、TPP知的財産条項から考える
「オリジナリティ」という語には2つの意味がある。もともとoriginという語が意味したものは「起源」であり、それは単に「何かが発生する源」を意味する言葉であった。18世紀西洋でロマン主義思想が興隆すると、オリジナリティは「独創性」という新たな意味を獲得する。各々異なる個性をもつ個人を「起源として」生み出された各種表現は、必然的に「(他と類似しない)独創性=オリジナリティ」を持つものと考えられた。
このような二重のオリジナリティ概念はいつしか発生の順序が忘れられ転倒してゆく。すなわち「ある個人を起源として生まれた表現は、それゆえに独創的である(だろう)」という観念は、「独創的な表現は個人の個性に由来する」へとすりかわり、続いて「独創的ではない(派生的、類似的な)表現を行なう者は、その表現の起源たりえない」という観念へと進展するだろう。近代に至り独創性の美学は「よく似た表現」「派生表現」の存在を抑圧し、さらにはそれが(19世紀に西洋諸国で整備された著作権制度によって)経済的な表現の所有構造へと接続される。
その結果「独創的な表現(およびそこから生まれる経済的利益)は、それを生み出した者の占有物であるべき」というテーゼが近代の創作をめぐる社会制度にビルトインされることになる(ロラン・バルトの「作者の死」というスローガンに象徴されるポストモダン思想は、この点に関しては流行の思想以上の意義は持ちえなかった)。逆に言うならば「独創的ではない(派生的、類似的な)表現は、それを生み出した者の占有物ではない」ということになる。2つの「オリジナリティ」の順序を転倒させたこの観念の支配は通俗化し、文化産業の生み出す各種表現とその経済的帰属のありようをわれわれが判断する際の準拠枠として、いまでも機能している。その事態を改めて顕わにしたのが、2015年夏に勃発した東京オリンピック・エンブレムをめぐる騒動であったといえよう。
佐野研二郎氏をめぐる一連のオリンピック・エンブレム問題は最終的にエンブレムの撤回と再公募という結末に至った。エンブレム自体の「独創性の欠如」というよりも、新国立競技場問題など、迷走する東京オリンピック組織委員会の施策総体への不信感が事態を混乱させ、撤回へと追い込んだといえなくもないが、本件の経過はこんにちの文化的表現における「オリジナリティ」を考える際に重要な論点を投げかけるものである。
広告デザイン研究者の加島卓は、一連の騒動について注目すべき発言と考察を継続的に行なっている。彼のブログ(「凸と凹の間」http://d.hatena.ne.jp/oxyfunk/)で展開されている一連の議論では、表現の「独創性」により評価されるアートと、クライアントのメッセージを視覚的に実現し伝達することを旨とする広告デザインとの機能の違いに注意が促され、今回の騒動について「エンブレムは盗作かオリジナルか」というシンプルな枠組みで議論が進むことに危惧が示される。
加島によれば、グラフィック・デザインにおける模倣の指摘は近年になって出現したものではない。1964年東京オリンピックのロゴマークをデザインしたグラフィック・デザイン界の大御所、亀倉雄策でさえ、海外デザインから着想を得たデザインを多数発表し、模倣との非難を浴びることもしばしばあった。だが、クライアントのコンセプトを視覚的に表現するグラフィック・デザインの営みは、他の表現との差異を志向する独創的な「アート」であるというよりも、共有されたコードに基づいて行なわれる言語的コミュニケーションにより近いところに位置する。
グラフィック・デザインにおいて、人々に共有される視覚的コードの使用は、ときには「模倣」に近似するケースもあっただろう。そこで重要となるのがそのデザインの「コンセプト」であり、同じ視覚的デザインであっても異なるコンセプトに基づくならば別の表現として機能する、とするグラフィック・デザインの専門家倫理が「模倣」との非難を押さえ込んでいた。今回の騒動が示すのは、オリジナリティの転倒を内在化した「市民たち」による非難が、ネットコミュニケーションの拡大を背景にそのような「専門家の表現倫理」を凌駕しつつある事態を示している事態ではないだろうか。
必ずしもまったき独創性を必要としない表現も含めて、あらゆる表現を「転倒したオリジナリティ」の論理へと帰属させること。なんらかの表現の類似性を「誰かが」発見しさえすれば、その表現の独創性=占有の正当性は破綻する、とみなすこと。オリンピック・エンブレム騒動が顕わにするのは(その決着の妥当性はともかく)、表現の帰属と占有、模倣と共有コードの間に設けられてきた専門家集団による区別が無化され、「一般市民」の持つ転倒したオリジナリティ観念に基づく検証と非難から、すべての表現が逃れがたくなっている現状である。「パクリ」非難とはすなわち、すべての類似表現や派生表現を、文化表現の経済的な所有への侵害へと即座に回収してしまう「転倒したオリジナリティ」観念の直截な表出にほかならない。
オリジナリティと表現の経済的関係について、2015年のもうひとつの重要トピックとして挙げるべきは10月のTPP交渉大筋妥結であろう。最終盤で知的財産にかかる交渉が難航し、結局日本政府は著作権分野において、導入に抵抗してきた「著作権保護期間の70年への延長」「非親告罪化」「法定賠償制度の導入」の3点セットを受け入れざるをえなかった。とりわけ著作権侵害の非親告罪化の導入は表現をめぐる日本社会の法的環境を大きく変える可能性がある。コミケの二次創作などを念頭に、著作権侵害の非親告罪化について政府は一定の留保をつけたものの、表現の「オリジナリティ」の如何を公権力が判断し介入する端緒が開かれたことの意味は重大だ★1。
転倒したオリジナリティの論理は、ますます複雑化する表現の現実を置き去りにしつつ社会に浸透していく。リツイートやコピペでつながるネット空間では派生的な表現・類似した表現が溢れてゆく一方で、「独創性」は経済原理の中核として神格化されるばかりである。われわれはこの矛盾の前に戸惑い、立ちすくむばかりだ。
転倒したオリジナリティの観念と表現の現実の乖離は、われわれを期せずして「独創性からの逃走」へと追い込んでいく。苛烈なまでに「独創性」が要求される一方で、われわれの社会はますます「紋切型」へと落ち込んでいく。表現の類似を見出すや否や即座に「パクリ」と論難するわれわれの振る舞いこそが「紋切型」ではなかったか。いま、「オリジナリティ」を考えるために必要なのはそこへの疑念である。
このような二重のオリジナリティ概念はいつしか発生の順序が忘れられ転倒してゆく。すなわち「ある個人を起源として生まれた表現は、それゆえに独創的である(だろう)」という観念は、「独創的な表現は個人の個性に由来する」へとすりかわり、続いて「独創的ではない(派生的、類似的な)表現を行なう者は、その表現の起源たりえない」という観念へと進展するだろう。近代に至り独創性の美学は「よく似た表現」「派生表現」の存在を抑圧し、さらにはそれが(19世紀に西洋諸国で整備された著作権制度によって)経済的な表現の所有構造へと接続される。
その結果「独創的な表現(およびそこから生まれる経済的利益)は、それを生み出した者の占有物であるべき」というテーゼが近代の創作をめぐる社会制度にビルトインされることになる(ロラン・バルトの「作者の死」というスローガンに象徴されるポストモダン思想は、この点に関しては流行の思想以上の意義は持ちえなかった)。逆に言うならば「独創的ではない(派生的、類似的な)表現は、それを生み出した者の占有物ではない」ということになる。2つの「オリジナリティ」の順序を転倒させたこの観念の支配は通俗化し、文化産業の生み出す各種表現とその経済的帰属のありようをわれわれが判断する際の準拠枠として、いまでも機能している。その事態を改めて顕わにしたのが、2015年夏に勃発した東京オリンピック・エンブレムをめぐる騒動であったといえよう。
佐野研二郎氏をめぐる一連のオリンピック・エンブレム問題は最終的にエンブレムの撤回と再公募という結末に至った。エンブレム自体の「独創性の欠如」というよりも、新国立競技場問題など、迷走する東京オリンピック組織委員会の施策総体への不信感が事態を混乱させ、撤回へと追い込んだといえなくもないが、本件の経過はこんにちの文化的表現における「オリジナリティ」を考える際に重要な論点を投げかけるものである。
- 撤回されたオリンピック・エンブレム(引用出典=http://www.japandesign.ne.jp)
広告デザイン研究者の加島卓は、一連の騒動について注目すべき発言と考察を継続的に行なっている。彼のブログ(「凸と凹の間」http://d.hatena.ne.jp/oxyfunk/)で展開されている一連の議論では、表現の「独創性」により評価されるアートと、クライアントのメッセージを視覚的に実現し伝達することを旨とする広告デザインとの機能の違いに注意が促され、今回の騒動について「エンブレムは盗作かオリジナルか」というシンプルな枠組みで議論が進むことに危惧が示される。
加島によれば、グラフィック・デザインにおける模倣の指摘は近年になって出現したものではない。1964年東京オリンピックのロゴマークをデザインしたグラフィック・デザイン界の大御所、亀倉雄策でさえ、海外デザインから着想を得たデザインを多数発表し、模倣との非難を浴びることもしばしばあった。だが、クライアントのコンセプトを視覚的に表現するグラフィック・デザインの営みは、他の表現との差異を志向する独創的な「アート」であるというよりも、共有されたコードに基づいて行なわれる言語的コミュニケーションにより近いところに位置する。
グラフィック・デザインにおいて、人々に共有される視覚的コードの使用は、ときには「模倣」に近似するケースもあっただろう。そこで重要となるのがそのデザインの「コンセプト」であり、同じ視覚的デザインであっても異なるコンセプトに基づくならば別の表現として機能する、とするグラフィック・デザインの専門家倫理が「模倣」との非難を押さえ込んでいた。今回の騒動が示すのは、オリジナリティの転倒を内在化した「市民たち」による非難が、ネットコミュニケーションの拡大を背景にそのような「専門家の表現倫理」を凌駕しつつある事態を示している事態ではないだろうか。
今回の事態は次のような複雑さを明らかにしてくれたようにも思う。ひとつには、デザインを視覚的な水準で評価するのか、それともコンセプトとの対応で評価するのかという問題系があること。2つには、その評価を専門家で行なうのか、それとも市民参加で行なうのかという問題系があること。今回の「パクリ探し」は視覚的な水準での評価が市民参加によって行われたものであり、原作者による反論はコンセプトとの対応が専門家によって評価されたものである。このような複雑さが見えにくいまま、[8月]28日の会見では「専門家の判断」と「一般国民の理解」と表現されたのではないだろうか。
加島卓「2015-09-07 エンブレム問題への見解のまとめ」 (http://d.hatena.ne.jp/oxyfunk/20150907)
必ずしもまったき独創性を必要としない表現も含めて、あらゆる表現を「転倒したオリジナリティ」の論理へと帰属させること。なんらかの表現の類似性を「誰かが」発見しさえすれば、その表現の独創性=占有の正当性は破綻する、とみなすこと。オリンピック・エンブレム騒動が顕わにするのは(その決着の妥当性はともかく)、表現の帰属と占有、模倣と共有コードの間に設けられてきた専門家集団による区別が無化され、「一般市民」の持つ転倒したオリジナリティ観念に基づく検証と非難から、すべての表現が逃れがたくなっている現状である。「パクリ」非難とはすなわち、すべての類似表現や派生表現を、文化表現の経済的な所有への侵害へと即座に回収してしまう「転倒したオリジナリティ」観念の直截な表出にほかならない。
オリジナリティと表現の経済的関係について、2015年のもうひとつの重要トピックとして挙げるべきは10月のTPP交渉大筋妥結であろう。最終盤で知的財産にかかる交渉が難航し、結局日本政府は著作権分野において、導入に抵抗してきた「著作権保護期間の70年への延長」「非親告罪化」「法定賠償制度の導入」の3点セットを受け入れざるをえなかった。とりわけ著作権侵害の非親告罪化の導入は表現をめぐる日本社会の法的環境を大きく変える可能性がある。コミケの二次創作などを念頭に、著作権侵害の非親告罪化について政府は一定の留保をつけたものの、表現の「オリジナリティ」の如何を公権力が判断し介入する端緒が開かれたことの意味は重大だ★1。
転倒したオリジナリティの論理は、ますます複雑化する表現の現実を置き去りにしつつ社会に浸透していく。リツイートやコピペでつながるネット空間では派生的な表現・類似した表現が溢れてゆく一方で、「独創性」は経済原理の中核として神格化されるばかりである。われわれはこの矛盾の前に戸惑い、立ちすくむばかりだ。
- 武田砂鉄『紋切型社会
──言葉で固まる現代を解きほぐす』
(朝日出版社、2015)
フレーズ。キーワード。スローガン。自分で選び抜いたと信じ込んでいる言葉、そのほとんどが前々から用意されていた言葉ではないか。紋切型の言葉が連呼され、物事がたちまち処理され、消費されていく。そんな言葉が溢れる背景には各々の紋切型の思考があり、その眼前には紋切型の社会がある。
武田砂鉄『紋切型社会』(4-5頁)
転倒したオリジナリティの観念と表現の現実の乖離は、われわれを期せずして「独創性からの逃走」へと追い込んでいく。苛烈なまでに「独創性」が要求される一方で、われわれの社会はますます「紋切型」へと落ち込んでいく。表現の類似を見出すや否や即座に「パクリ」と論難するわれわれの振る舞いこそが「紋切型」ではなかったか。いま、「オリジナリティ」を考えるために必要なのはそこへの疑念である。