戦争の変容と建築/都市
空間に遍在するドローン
メゾンエルメスで開催されているローラン・グラッソの「ソレイユ・ノワール」展において展覧会タイトルと同名の興味深い映像作品が紹介されていた。噴火口の空撮に始まり、ポンペイの遺跡に迷い込み、やがて人気のない死の都市をさまよう犬の後を追いかけていく。最初はヘリコプターの映像かと思いきや、どんどん廃墟に近づき、ついには柱のあいだを通り抜け、地上すれすれの場所に近づいたと思うと、今度は一気に上昇する。通常のカメラでは撮影不可能な映像だ。かといってCGを使ったわけでもない。あまり画面が安定しており、当初は気づかなかったが、ドローンが捉えた世界だった。いずれ劇場の映画でも多く使われるようになると思われるが、これだけ印象的なシークエンスが撮影できるのかと感銘を受けた。それは吹きすさぶ風に乗って、魂がさすらうかのようである。いや、空間にあまねく視点が存在しうる神のまなざしなのかもしれない。
かつて神の視線は空から見下ろす俯瞰的なものだったが、これだけ自由に空間を動きまわる映像を突きつけられると、これが新しい神の視線なのではないかと思う。なるほど、押井守が2003年に発表した「東京スキャナー」が、これとよく似た作品だった。非人間的な謎の物体が東京を縦横無尽に走査する。むろん、これはヘリコプターによる空撮の映像を巧みに編集・加工してつくられたものだが、無人偵察機をイメージしたものだろう。実はこの作品は、神の怒りに触れて滅びた街、旧約聖書のソドムとゴモラをモチーフとしていた。見ることは撃つことである。以前、筆者はこの作品に対してこう評した。「透徹した冷たい眼が都市にまなざしを向ける。それはテロリストのまなざしのようでもあり、管理者のまなざしのようでもある。だが、首謀者としての人間も排除するだろう。......絶対的な監視は、究極の抑止であり、絶対的な攻撃の可能性でもある」(「澄みわたる東京の青い空によぎる不穏な黒い影」『映画的建築/建築的映画』春秋社、2009)。
9.11の同時多発テロを受けて刊行した拙著『戦争と建築』(晶文社、2003)において、筆者は他者からの攻撃という観点から都市の歴史を論じた。古代・中世は壁によって都市を防御したが、ルネサンスの時代に火薬が発明され、大砲による迎撃の弾道を幾何学的に分析した理想都市が構想される。だが、近代に飛行機が登場すると、今度は空から爆弾を落とすことが可能になり、壁による防御は完全に無効化し、不燃化、建物疎開、防空壕、カモフラージュなど、防空都市の計画が練られるようになった。また空から俯瞰する近代的な視点が獲得され、戦争絵画においても、それが新しい構図として使われる。しかし、いまやドローンによって無人機が小型化し、空から攻撃するだけでなく、路上にも接近することができ、建物の隙間や内部にも侵入可能になってきた。実際、すでにアメリカ軍はドローンを活用し、自国の兵士を危険にさらすことなく、敵とみなした人物をピンポイントで殺害している。すなわち、あらゆる空間が無人機の戦場となりうる時代を迎えた。
冷戦時代は、都市をまるごと壊滅させる究極の破壊兵器である核爆弾によって、東西の緊張関係が保たれていた。しかし、イデオロギー対立の体制が崩れてからは、内戦やテロなどが世界各地で勃発し、従来の戦争とは異なる暴力が蔓延化している。そしてコンピュータとインターネットの普及により、情報の戦闘という側面も重要性が増した。遠隔地で操縦できるドローンは、現実空間におけるビデオ・ゲームのようであり、スパイを使わずに、国家が個人を攻撃する。もはや戦争という概念そのものが変容してしまった。仮想敵国においては、人間よりも小さく、また高い所からもアクセスできるドローンの侵入口を防ぐ建築が工夫されているのだろうか?
恐怖にとりつかれた都市
2015年は大きく世界状勢が変化した。日本でも新しい安保体制が成立したが、パリでは、1月7日のシャルリー・エブド襲撃事件と11月13日の同時多発テロが発生している。特に後者は、普段からセキュリティが厳重な大使館や空港ではなく、市民が生活を楽しむレストランやホールなどのソフト・ターゲットが狙われたことが衝撃を与えた。劇場では89名が殺されたように、人が集まる文化施設は、テロリストにとって効果的な殺戮の場所に変貌する。少なくとも9.11では、グローバル経済のシンボルである世界貿易センター、アメリカの国防の要となるペンタゴン、そしておそらく政治の中心であるホワイトハウスのように、象徴的な場所が標的に選ばれたが、パリの同時多発テロで攻撃されたのは、有名な飲食店や文化施設ではない。必ずしも外国人が集中する観光地でもない。日常生活の延長にある普通の場所だった。とすれば、特定の施設の警備を強化しても意味がなくなる。ましてや実行犯が、逃走径路を必要としない自爆覚悟ならば、予防するのはきわめて困難だろう。あらゆる場所の一般市民が潜在的なテロの脅威にさらされるのだ。
なお、2015年のテロが起きた直後、2001年のときとのブッシュ大統領と同様、フランスもこれを戦争だとみなしている。テロの首謀者はイスラム国だとされているが、言うまでもなく、この組織はいわゆる「国」ではない。果たして国家間ではない暴力は戦争と呼べるのだろうか? しかも戦争の前線がなく、本来の戦争であれば、バックアップにあたる通常の都市が、戦争の舞台だとみなされているのだ。
女優のスーザン・サランドンは、「2001年9月11日からこのかた、われわれの感情と恐怖心はすべて人質にとられている」と述べたという。テロはわれわれの意識を変えてしまった。日本では1995年の地下鉄サリン事件を経験し、他者への不寛容が強くなり、セキュリティへの関心が高くなった。拙著『過防備都市』(中央公論新社、2004)で論じたように、データ的には犯罪の認知件数は減っているにもかかわらず、監視カメラの増加、ホームレスの排除、市民の警察化、ゲーテッド・コミュニティなどの現象が進行し、それらがかえって体感治安の悪化を招いている。また犯罪を誘発しやすい環境を変える防犯対策が注目され、壊れた窓を放置すると、やがて犯罪が増えるという「破れ窓」理論が話題になった。もっとも、科学警察研究所の原田豊によれば、この言葉の初出はアカデミックな論文ではなく、一般誌の読み物であり、データ上でも意外に実効性はない。むしろ、現場に詳しい警察が具体的な情報を持ち寄って、犯罪状勢地図を投影しながら対策を立てるコムスタット(CompStat=Computer Statistics)会議のほうが有効だという。
哲学者ジャン・ボードリヤールの『パワー・インフェルノ──グローバル・パワーとテロリズム』(塚原史訳、NTT出版、2003)は、デジタル化された経済のパワーを体現するツインタワーが、9.11の自殺攻撃により、あたかも自壊するような最期を遂げたことで、全能性が消滅することの象徴を示したという。そして引き起こされた新しい世界戦争を「アメリカの幻影とイスラムの幻影をつうじて、勝ち誇ったグローバリゼーションが自らと格闘している場面なのだ」と指摘する。国家対国家の戦争ならば、互いの軍隊が出動するが、国家という枠組に基づかないテロの組織に対しては非対称の戦闘になるだろう。「リベラルなグローバリゼーションが自由とはまったく逆の形態をとって実現されようとしている。警察の支配と全面的管理のグローバリゼーション、セキュリティという名の恐怖政治だ」。その結果、セキュリティの恐怖政治が全面化する。が、それはテロリズムの真の勝利にほかならないという。
日常生活を維持する建築
建築の起源に遡ると、そもそもは厳しい気候や外敵から守るべく、人間を包むシェルターだった。一方で建築は動くものではないから、他者を攻撃する武器にはなりえない。ポール・ヴィリリオは『パニック都市──メトロポリティクスとテロリズム』(竹内孝宏訳、平凡社、2007)において、こう論じている。かつて塔は見張りのために建設された。その後、望遠鏡が発明され、やがてテレビになり、衛星からの監視に向かう。あるいは、高さを志向し、気球や飛行機が高所監視の手段となり、最終的に視線の源は宇宙にまで届く。いずれにしろ、建築というテクノロジーは、破壊や侵入の対象でこそあれ、戦争の前線からはとっくに取り残されている。
防御だけを考えれば、ヘンに目立つアイコン建築は、やはりテロの対象になりやすいかもしれない。そうした有名なランドマークのほうが、メディアの報道によって拡散しやすいからだ。テロは戦争と違い、破壊そのものの規模は極小的だが、むしろ情報が広く知られることで、恐怖のイメージを増殖させることが重要である。逆に言えば、報道されなければ、テロの意味がない。実際、物理的な攻撃ではないが、少なくとも日本では、ザハ・ハディドのような建築は、メディアから叩かれやすい。その結果、嫌われない「日本らしさ」のデザインが仕切り直しのコンペで提出された。いわばステルス化である。
自然災害への備えは、地域の特質や反復性によって、ある程度、建築の対策を立てることができるだろう。だが、意志をもって実行される人為的な攻撃を想定して、すべての建築を強化するのはおよそ不可能だ。閉じることは簡単だが、絶対安全な空間を実現するのは難しい。とすれば、結局、建築にできることは、例えば、人と人をつなぐこと、多様な価値観を許容する空間をつくることではないか。むろん、慰霊や追悼のための施設をつくり、人々の記憶に残していくこともできるだろう。日常生活を維持する建築は、テロへの抵抗になるだろう。恐怖と憎悪をまき散らし、非日常的な状態をつくることこそが、テロの目的だからだ。