独居と漂流──老人たちはどこに向かうのか

柿本昭人(同志社大学政策学部教授)

Ⅰ 土に返る前に

「お前は顔に汗を流してパンを得る 土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る」。創世記第3章19節である。アダムは神の命令に背き、罪をなし、その罰として創造前の無に戻された。人間の(homo)人間らしい(humanus)ところは、無力(humilitas)であることも含めて大地(humus)と結びついてきた。大地から(humi)生み出され、土へと返る(humo)。
家族や友人に囲まれた豊かな老後、趣味や旅行に費やされる余生、そうしたイメージが揺らぎ始めたのは、NHK『無縁社会〜"無縁死"〜3万2千人の衝撃』(2010年1月31日)がその嚆矢であったかもしれない。2013年からは毎年『老人漂流社会』の特集が放映されている。独居だけでなく、同居する「子供」は、蓄えが底をつき、住む場所を失う誘因とさえなる。

藤田孝典『下流老人──
一億総老後崩壊の衝撃』
(朝日新書、2015)
「年収400万円以下は下流化のリスクが高い(「一億総下流」の時代がやってくる)」ということで、藤田孝典『下流老人』★1がベストセラーとなったことも記憶に新しい。「かつて中流、いま漂流 転落は突然に訪れる」(『日本経済新聞』2015年12月30日付)の見出しは、この数年の関心の総括として秀逸である。
土に返る前の火葬場でも、最期の時の故人を取り巻く社会的関係が如実に反映される。嶋守さやか『孤独死の看取り』は、控室の扉の隙間から目撃した光景から、三つの様相があったことを伝えている。著者の祖母の火葬炉の前には、「生前の写真と大きなミカンが三つ、そしてマドレーヌが並べられていた」。その手前の火葬炉には写真もお供えもなく、名字のみを記した名札が張り付けられ、その奥の火葬炉は名札もないのに稼働していた。名札のみの火葬炉の扉が開き別室に骨が運ばれ「職員さんの手によって箒で桐の箱にざざざっと入れられた」。著者の伯母は「ここで働いている人も、公務員なんだよね」と言う。次に名札もなかった火葬炉の扉が開き、同じように別室に運ばれるが違っていたのは「お骨が、事務的に箒で段ボール箱へと流し込まれた」ところである。先ほどの伯母は「無縁さんだね、孤独死。そういう方、働いている施設にもたくさんいらっしゃるよ」と言ったが、著者はなぜ段ボール箱なのかを聞けずじまいだった。

嶋守さやか『孤独死の看取り』
(新評論、2015)
著者が段ボール箱に驚いたのは、「孤独死の現場の一つだと言われている東京の山谷地区」で三年間フィールドワークを行っていたが、「ホームレス宿所提供施設の入所者さんが幾人も亡くなられて」も、いつも「桐の箱に入れられて施設に戻ってきていた」からである。段ボールと桐の箱の境界は、「家族や身寄りがいるかどうか」「施設や生活保護等の制度やサービスを利用」していたかどうかにある★2
「骨だけは拾ってやるから」と言われて送り出されるのは、大抵勝ち目のない闘いの時である。桐の箱にしろ段ボール箱にしろ、もし箒で遺骨が段ボールに流し込まれたのでは「拾われた」とは言いがたい。顔に汗して糧を得る機会も失われ、孤独のうちに亡くなることは如何なる罪なのか。罪あるゆえに罰として、ゴミ同然に箒で掃き清められるのか。

Ⅱ 忘却されるhostis―hospes―hospitum

敵意すら抱いている外部の者(hostis)を応接する者は相互に混じり合い、ついには主人も客人も一つの言葉hospesに同居する。応接の場はhospitumと呼ばれ、行き倒れの巡礼が救護され、身寄りのない者や貧窮の者が施しを受け、病気の者が担ぎ込まれる場となっていった。後には、そうした場に収容される者が多いほど、場の創設者の人徳は高く、寛大な精神に溢れ、養うだけの財力を持つ者として称賛されることになる。
17世紀、われわれが病院(hospital)と呼び習わしているものは、ヨーロッパでは慈善の場であり同時に監禁の場であった。中世の「癩病」に関する共同体からの排除と応接に代わって、慈善と監禁の対象となったのはあらゆる種類の「怠惰」であり、共同体の「外」へと放逐されはしないが、「癩者」と同じく罪人として、慈善と監禁の場での強制労働を課せられた★3。また、この慈善と監禁を正当化するために、倫理的な価値づけが追加され、善い囚われ人と悪い囚われ人という分割が行われた。収監後の態度によって、前者では償いを意味し、後者では懲罰を意味した。改悛あるいは懲罰が治療と同居し、病院は道徳的な強制を実行する場になった★4
ところが、18世紀になると人口という富の発見によって、病院は経済上の失敗であるとする反省が出てくる。農業であれ、工業であれ、富を生み出すのは人間の労働であり、病院は富である人口の一部を最初から天引きしているという認識である。病院にいる者たちを社会に引き戻し、生産活動に従事させよという要求が出てくる。彼らを生産のサイクルに投入することが近隣諸国との経済競争に勝利する方策となった★5
とはいえ、病院にいる者すべてが、権利の回復を受けたわけではない。権利の回復を受けたのは「貧乏人」たちであった。新たな働き手を必要とした工業が、職もなく彷徨い歩いていた彼らを人口の一部として呼び戻した。それと同時に、伝統的な慈善事業とともに貧民救済に保障をもたらしてきた応接のあり方、財団の制度が批判を受ける。生産に振り向けられるべき国家の資金を減じ、貧民救済に投じられた資金は回収されず、産業の発展を妨げるというのがその理由であった★6
ここでまた、新たな分割がなされた。貧乏人は「健康な貧乏人」と「病気の貧乏人」とに分割された。労働可能である健康な貧乏人は生産に対する貢献の要素として評価されるが、労働不能である病気の貧乏人は消費しか行わない厄介なお荷物とされる。新たな問題が生じるのは、ここである。病院のなかに混在していた貧困と病気の分離である★7。自己の労働によって生活の糧を手に入れることのできる健康な貧乏人を監禁することは、健康な貧乏人が有する力の「理性的発展」を妨害するスキャンダルであり、「効果的な唯一の救済形式は、自由である」。これに対して、病気の貧乏人が有する力の「理性的発展」を妨げているのは貧困ではなく、病気である。病気の貧乏人から病気が除去されれば健康な貧乏人となり、自己の労働によって生活の糧を手に入れられる★8。病院が行き倒れの巡礼者の受け入れ先でもなく、設立者の財力を見せびらかす慈善施設でもなく、われわれが思い浮かべる治療の場としての病院へと移行していくのは、このことがあったからである。
19世紀になると、病院は社会への包摂の前段としての規律・訓練の場と、排除としての監禁の場の両方を兼ね備えることになる。規律・訓練の過程は、治療可能な病人を選別可能にし、同時に治療不可能な病人を析出可能にする★9。このモデルは兵営や学校だけでなく、社会全体にも規律・訓練を課すことによって、脱落する者を「病人」として再訓育するために「病院」に収監し、先ほどの篩い分けの過程を反復した。
20世紀の終わりに向かって高まった福祉国家批判とは、生産の場の移動による、反復される篩い分けと再訓育の費用対効果への疑念であった。ジョック・ヤング『後期近代の眩暈』の刊行は2007年であるが、その描写はますます明瞭な姿を取り始めている。先進国における製造業は自動化と現地化によって衰退の一途をたどる。先進国では、その仕組みを作りだす専門職エリートの側と仕組みを作る側の日常を支える外注不可能な「非熟練労働」の側とに労働が二分される★10。先進国の製造業に従事する者やルーティンワークに従事するホワイトカラーの維持は、規律・訓練のコストに見合わない。「外注」で事足りる。先進国のかつての中間層は消費者としても最早期待されない。その「外注」先こそ新しい巨大な中間層、ボリュームゾーンとして期待される。連結決算で業績が好調であろうが、内部留保が積み上がろうが、投資の向かう先は「外注」先の地域や国である。
「非熟練労働」の側は、自由な働き方の選択の名の下に、経済的な自立を望むべくもない低賃金での過剰労働を課せられ、場所から場所へと漂流を強制される。この仕組みを作った側、仕組みを実行させる者は、コストを抑制し、収益を向上させたとして株価は上昇し、ますます豊かになっていく。この状況は、オスカー・ワイルド『幸福な王子』(1888)への21世紀からの返答のように見える。精根尽きるまで働いても、賃金が低すぎて病気の子供の喉の渇きを癒やすオレンジ一つ買うことができないお針子がツバメに転生するも、疲れが癒えないまま朦朧として女王や市長や市会議員、鋳物工場の監督に宝石や金箔を届けているようなものである。他人の食事を用意し、他人の子供の世話をし、他人のオフィスを掃除し、ツバメのように働く鉛の心臓の持ち主たちに、天国の庭での永遠の幸福はもたらされるのか。

Ⅲ 難破船に乗り合わせた者として

ジョック・ヤング『排除型社会──
後期近代における犯罪・雇用・差異』
(洛北出版、2007)
ジョック・ヤングは『排除型社会』のなかで後期近代の有り様を難破船に喩えていた。羅針盤も効かず、流されるままの船から停泊していた港を振り返ってみると、既に崩壊してしまったように見える。船員達は慣れ親しんだ港に戻りたいと叫び、セイレーンの声がそれが叶うかのように囁こうとも、できはしない★11
「取り戻す」というセイレーンの声は、取り戻される未来の前に、取り戻されるべき過去が実在したかのような錯覚を引き起こす。藤田の『下流老人』にもそれは散見される。かつては濃密な地縁・血縁によるセーフティネットが機能していたが、核家族化の進行と経済的困窮によって孤立する高齢者が増大すると言う。それゆえ、頼りとする特別養護老人ホームの建設が追いつかない★12。だが特別養護老人ホームの設置が謳われたのは1963年の「老人福祉法」の制定に遡る。常時の介護を必要とするが在宅ではそれが叶わない65歳以上の高齢者を対象とするものの、実際の受け入れ施設は精神病院であった。ところが、1984年の宇都宮病院事件は国際的な批判にも晒され、「滞留患者の退院」を打ち出さざるを得なくなった。その一方で社会の側では「触法精神障害者」に関する法への不信と行政の怠慢への非難が渦巻いていた。2003年に出された『2015年の高齢者介護』では、推計250万人を越える「痴呆性高齢者」の介護が高齢者介護の最重要課題として設定された。1980年代初めの「老人処理工場的な精神病院」(『朝日新聞』1981年3月7日付)という新聞記事の表現には、患者家族が選択した「安易な入院」に対する道徳的非難が込められていたが、ここでもまた、美風や伝統ということで想像上の家族が介護の最適な場所として設定された。2004年の「痴呆に替わる用語に関する検討会」で出された「認知症」という性急な用語変更の提案は、翌年1月の国会に提出予定であった「介護保険関連改正法」の提出に合わせて用語変更を盛り込もうとしたためである★13
敵意すら抱いている外部の者同士が主人にもなれば客人ともなって、応接の場をなし得るなら、ジョック・ヤングもそうであったように、リチャード・セネットが過小評価していた「他者への関心の薄い社会the 'lightly engaged' society of strangers」★14が開く「仮想世界」でのネットワークに期待したい★15。シェアリングエコノミーが加速するなかで、個人宅宿泊を仲介する「エアビーアンドビー」や有料のライドシェアを仲介する「ウーバー」も短期的には仕組みを作った者に最大の利得をもたらす。サービスの提供者が増大すれば、提供価格は下がっていく。短期的な追加収入の増大と見合わなくなれば、将来のサービス利用に向けた「貯蓄型」のサービス提供のあり方も出てくるだろう。ツバメのように働く鉛の心臓の持ち主の労働も労働によって返済される日が来るかもしれない。オックスフォード大学のフレイとオズボーンが2013年にまとめた論文では、アメリカの雇用の47%が自動化される結果となり、702職種についてコンピューターに奪われにくい順位づけが行われ、その結果が付表で明らかにされている。ロボットのコストが下がり、技術的な可能性が高まると、この10年間で拡大してきた低賃金のサービス業はロボットによって代替されてしまうのである。食事の準備、健康管理、クリーニング、そして老人介護もである★16
そうであるなら、資力の乏しい者同士は、経済的に無価値となってしまうスキルや労働力を先に土に返る者に無料で与え、自分の番が回ってきたら後の者から無料で受け取ることもできよう。場所から場所へ、仕事から仕事へと漂流しながら、地縁や血縁の網の目からこぼれ落ちた独居する見知らぬ無縁の者同士がコンピューターのネットワークによるマッチングを媒介にして創り得る社会的紐帯とは、こういうものではなかろうか。



*外国語文献のうち、邦訳のあるものは出来るだけ利用させていただいたが、訳文の一部を変更したものがある。責任はすべて筆者にある。
★1──藤田孝典『下流老人──一億総老後崩壊の衝撃』(朝日新書、2015、110頁)。
★2──嶋守さやか『孤独死の看取り──脱力★ファンタスティポ系 社会学シリーズ②』(新評論、2015)25-27頁。釜ヶ崎の三角公園での慰霊祭に集う人々は「あの世に旅立った人たちに祈りを捧げ、『ふるさと』の歌声を響かせる」(同書、195頁)ことで「骨を拾う」とも言えよう。
★3──Foucault, Michel. Histoire de la folie á l'âge classique, Paris, 1972, p. 64, 84.〔ミシェル・フーコー『狂気の歴史──古典主義時代における』(田村俶訳、新潮社、1975)72、90頁〕
★4──Ibid., p.73, 101.〔同上、80, 108頁〕
★5──Ibid., p.430.〔同上、431頁〕
★6──Ibid., p.431.〔同上、432頁〕
★7──Ibid., p.432-433.〔同上、433頁〕
★8──Roscher, Gustav. Grossstadtpolizei: Ein praktisches Handbuch der deutschen Polizei, Hamburg, 1912, S. 1-2, 19-31. Foucault, op. cit., p.432.〔フーコー前掲書、433頁〕
★9──Foucault, Michel. Surveiller et punir: Naissance de la prison, Paris, 1975, pp.200-201.〔ミシェル・フーコー『監獄の誕生──監視と処罰』(田村俶訳、新潮社、1977) 200-202頁〕
★10──Young, Jock: The Vertigo of Late Modernity, London, 2007, p. 85, 94, 98-99.〔ジョック・ヤング『後期近代の眩暈──排除から過剰包摂へ』(木下ちがや+中村好孝+丸山真央訳、青土社、2008) 164, 181, 189-190頁〕
★11──Young, Jock. The Exclusive Society: Social Exclusion, Crime and Difference in Late Modernity, London, 1999, p.193.〔ジョック・ヤング『排除型社会──後期近代における犯罪・雇用・差異』(青木秀男+伊藤泰郎+岸政彦+村澤真保呂訳、洛北出版、2007) 488-489頁〕
★12──藤田前掲書、80頁。
★13──拙稿「誰が「生きている」のか──痴呆・認知症・心神喪失」〔『分別される生命──20世紀社会の医療戦略』所収(川越修・鈴木晃仁編著、法政大学出版局、2008) 279-283頁〕
★14──Young(2007), op. cit., p.176.〔ジョック・ヤング(2008)前掲書、331頁〕
★15──Ibid., pp.187-188.〔同上、352-353頁〕
★16──Carl Benedikt Frey and Michael A. Osborne. "The Future of Employment: How Susceptible Are Jobs to Computerisation?" September 17, 2013, p. 22, 65, 68, 69. [http://www.oxfordmartin.ox.ac.uk/downloads/academic/The_Future_of_Employment.pdf]


柿本昭人(かきもとあきひと)
1961年生まれ。同志社大学政策学部教授。社会思想史。著書に『アウシュヴィッツの〈回教徒〉──現代社会とナチズムの反復』『健康と病のエピステーメー』他。


201601

特集 2016年の建築・都市を読むためのキーワード


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