ウォーフェアからウェルフェアへ──戦中と戦後、空間と言説

八束はじめ(建築家・建築批評家)×青井哲人(明治大学准教授・建築史)

戦中期の地政学的想像力と言説空間


──言説空間の話に戻りますと、たとえば、宮内嘉久は前川國男を支持していました。丹下健三の戦争責任については批判していますが、前川國男についてはある種無頓着だったように思います。

青井──細かい事情はともかく、構図としては戦後の若い世代の左翼が前川を担いだということになるでしょうね。戦後まもなくの頃の言説空間の構図についてはまた後で話題にするとして、戦前派の共産党系というか公式的なマルクス主義の線に、戦後しばらくして違和感や失望を感じる若い世代の左派がいます。宮内さんや平良敬一さんのように。前川國男は彼らのような若い世代の左派に支持されたといえるでしょう。前川の政治的傾向そのものというより、前川は事務所の運営が民主的だとか、技術への姿勢が真摯だとか、何ごとにも矜持を通す感じが彼らの支持につながったんじゃないでしょうか。

八束──丹下健三との比較で前川國男を持ち上げるという原型をつくったのは浜口隆一です。浜口は丹下の同級生ですが、戦後は「ヒューマニズムの建築」を言い出す人です。奥さんの浜口ミホは前川事務所にいましたが、隆一も一時期籍を置いていて前川さんが面倒を見ていたということもありますし、「ヒューマニズムの建築」はやはり丹下さんの志向とは違っています。ですから、前川vs丹下の図式を最初につくったのは浜口ですが、それに宮内嘉久や平良敬一がどう関係しているかはよく知りませんが、調べたら簡単に出てくるような気がする。 戦後は誰もが「ヒューマニズム」とか「民主主義」の建築を標榜しなければいけない時代であり、その中で、社会主義リアリズム路線とモダニズム路線の論争がありました。前者の代表が西山夘三で、後者の代表が丹下健三です。しかし、社会主義リアリズムはやはり表現的にあまりにオールドファッションだとして敬遠されたところがあり(ちなみに僕は、社会主義リアリズムは、少なくともロシアに関する限りはもう一度見直す必要があるような気はしているんですが)、他の誰かを探している中で、前川國男が担がれたのだと思います。たとえば坂倉準三だともっと右翼に近いというか、ストレートにル・コルビュジエのファシスト的な体質を受け継いでいる部分がありましたから。

青井──坂倉は企業資本との緊密な関係を築くあたり、ル・コルビュジエを受け継ぐところがありますね。

八束──前川も鮎川義介とくっついていたわけなので、微妙なところですが、戦後にはあまりそういう匂いはしない。発想というか社会とのスタンスの取り方が坂倉と前川では違っていたような気はします。

青井──ちょっと戻って、戦中期の言説空間について話をしなければなりませんね。僕は大前提として、地政学的な想像力の変動が大きいと思っています。それは日本内地の向こうにおぼろげにいくつかの植民地が見えているといった同心円状の捉え方から、一体的な帝国=大東亜共栄圏と、それに対峙する他の圏域とを一望するような、地球的な想像力がリアルになる、というようなことです。戦局が進展するにつれ、国民もダイナミックな世界地図を共有していきますから、それを踏まえた言説や思考でないと説得力を持たなくなります。建築分野の言説もそうで、若い頃に調べて書いたことがありますが、まず北方の満州が立ち上がり、ついで南方がぐいぐい広がっていくので、日本人の想像力は南北に大きな極をもつかたちで拡大します。建築論もそれに対応して組み立て直されますが、そのひとつに熱帯建築論があり、これは今の環境工学の前身になる計画原論の研究ですね。

八束──設備や機械があまり発達してなかったことも、戦前の建築には環境工学がないことと関係していますね。だから建築で、つまり今の言葉で言えばパッシブに対応する必要があった。大東亜共栄圏の建築は画一的な強制同化ではなくて、リージョナリズムですから。

青井──そうですね。熱帯では通風の確保とか、気積を大きくする必要があることなどの議論がされます。要するに日本人が熱帯にどう適応できるかです。一方、たとえば吉阪隆正は北方へ行って、「北支蒙彊に於ける住居の地理学的考察」(1940)を書いています。今風にいえばヴァナキュラー建築研究ですが、これが戦後の地域主義につながっていきます。どうもフランスのポール・ヴィダル・ドゥ・ラ・ブラーシュの人文地理学理論を参照したようなのですが、生態学的な自然環境と人間の営みとしての住居との対応関係を類型学的に見ています。それから、板垣鷹穂はいわゆる地政学ですね。カール・ハウスホーファーなどを下敷きにして、国家がどういう領域をどういう指導理念でどうデザインしていくかを考えることによって、国土計画・都市計画から記念建造物の表現までを類型学的に見直す。世界史の哲学に似たところがあります。
浜口隆一や丹下健三の新しい美学的な議論も、こういった議論の拡がりを踏まえたうえで読む必要があると思います。彼らは、近代の美学・美術史の太い潮流をなす、ドイツ・オーストリア系の理論を学んで、大きくいえば西欧近代の超克という戦時期の言説空間の方向に沿った建築論を組み立てます。日本の建築の美学的指導理念は西欧のような「物体構築的」なものではなく、「行為的・空間的」あるいは「環境秩序的」「環境構成的」な芸術意欲に基づくものであるべきだ、という議論です。それは西洋文明の向こうをはって、日本的あるいは東洋的な、自然と一体化された環境秩序を目指すのだという議論ですが、「環境」というキーワードの頻出とか、文化類型論的な議論の仕方なども、彼らに限らず時代的な特徴ですね。

八束──大東亜諸学については、文学、文化人類学、地理学などの研究は相当進んでいます。イデオロギー的な話を括弧に入れておくと、現在の状況に近い部分があります。つまり、グローバリズムは世界帝国主義の発露であって、民衆の立場に立つ左翼はリージョナリズム路線だという了解がなんとなくありますが、その元は大東亜共栄圏にありますから、単純な善悪は言えません。
吉阪隆正についても、早稲田ではその件は触れてはいけないということになっているみたい(笑)。吉阪の著作集にはその住居調査のレポートが入っていますが、前書きに「当時の軍国主義とは関係ない」という但し書きがあります。でも、そんなはずがありません(笑)。吉阪に侵略主義的な意図があったかどうかとは別の話ですけどね。吉阪はアルピニストでしたから、今西錦司が戦後京都で出していたそういう系統の雑誌に登場していますが、今西もその門下だった梅棹忠夫(彼も日本未来学会会員ですね)なども戦中は内蒙古へ行っています。吉阪の住居調査ととても近い。ですから、戦後の梅棹さんの『文明の生態史観』とか江上波夫の「騎馬民族説」などにも繋がりますが、極東をどう文化史的・地理学的に位置づけるかという話は当時沢山あります。今西さんの本を読むと、「当時の日本人が北京へ来て日本風の住み方をしているのは馬鹿らしい、地にあった住み方をしなきゃダメでしょ」と書いていて、完全にリージョナリズムですが、まさに30年後に平良敬一さんが言ってそうなセリフですね。結局戦後のリージョナリズムは、モダニスト左翼が追い詰められた末に頼った最後の拠点なのです。資本やグローバリズムに対抗するのがリージョナリズム、ヴァナキュラーであり、自分は民衆の側に立つという主張です。これは東日本大震災の復興でもあまり変わっていませんね。結局、大東亜リージョナリズムの再現だと思いますけど。

青井──大局的にはそうした位置づけができるかもしれませんが、それで整理してしまってよいのかどうか⋯⋯。

八束──それだけで切ってしまうのも、吉阪隆正は侵略の片棒を担いだというような批判も同様に不毛です。ですが、この反復構造を見ないで抵抗のリージョナリズム(フランプトンの批判的リージョナリズムも同じですが)をいうのは、どうかなぁと思うんですよ。


201603

特集 建築史の中の戦争


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