スペキュラティヴ・デザインが拓く思考
──設計プロセスから未来投機的ヴィジョンへ

水野大二郎(デザイン研究者、デザインリサーチャー)+筧康明(メディアアーティスト、インタラクティブメディア研究者)+連勇太朗(建築家、NPO法人モクチン企画代表理事)

革新的開発か漸進的改良か
──スペキュラティヴ・デザインと投資の生態系

──特にHCIなどの分野において、スペキュラティヴ・デザインをメソッドとして考えてみますと、アイディエーションとプレゼンテーションのための2種類があるように思います。アイディエーションのためというのは、これからなにを創造する(べき)かを考えるために、リアリティを持って未来を想像することを助ける道具・状況をつくりだすことです。プレゼンテーションのためというのは、新技術やものが生まれた時に、それがもたらす未来の可能性や問題について、時にフィクションを交えながらより具体的なストーリーで提示することです。この際、バイアスを持たずにピュアに議論を巻き起こすためのスペキュラティヴ・デザインというのはなかなか難しく、良くも悪くもデザイナーの意思や考えが少なからずデザインに反映されることになります。

水野──ロベルト・ベルガンティは『デザイン・ドリブン・イノベーション』(佐藤典司+岩谷昌樹+八重樫文訳、同朋館、2012)、そしてドナルド・ノーマンとの共著による論文で、イノベーションの方法をラディカル・イノベーション(急進的・革新的開発)とインクリメンタル・イノベーション(漸進的改良)の2つに分類しています。例えば、スマートフォンに「使いやすい携帯電話」というインクリメンタル・イノベーションではなく、「まったく新しい体験をもたらすデバイス」というラディカル・イノベーションが求められていたのであれば、スペキュラティヴ・デザインは有用だといえるでしょう。ただし、研究者のあいだでも一般化しているとはいい難いのが現状ですから、一般社会において今後どこまで受容されるかは課題ですね。

──一般へ向けたスペキュラティヴ・デザインの可能性として、いくつか考えられることがあります。現在、スタートアップとよばれる今までにないまったく新しいビジネスモデル、プロダクト、サービスを開発し短期間でスケールしていくという事業形態が、主に西海岸からはじまり、日本でも数年前から注目されています。私たちモクチン企画もそうしたコミュニティのなかで積極的に活動していますが、そこで気づいたことは、スタートアップ界隈で求められているのは「圧倒的なヴィジョン」の構築だということです。今までの常識では考えられないものや、あるいは直接的にユーザーのニーズを反映したものではないプロダクトやサービスを実現するためには、魅力的でわかりやすいヴィジョンを構築し、それを提示していくことでエンジニアや投資家を集めなければなりません。ヴィジョンが訴求力になるわけです。また、同時にヴィジョンやフィクションそのものがニーズからでは出てこない創作や開発を誘発する場合もあります。それはル・コルビュジエのような大きなヴィジョンではありませんが、小さなヴィジョンとでも言うべきもので、技術そのものが一点突破的に切り開く未来のあり方(フィクション)を示しています。市場との接点を考えた場合、もしかするとそうした新しい流れにスペキュラティヴ・デザインの応用可能性があるかもしれません。

水野──ちょうど2010年頃を境にして、日本ではサービス・デザインやUXデザイン(ユーザー・エクスペリエンス・デザイン)など、それまでのデザイン・パラダイムと異なる動きが注目されるようになりました。そのころキーワードとして登場したのが「共感」です。同じ頃に、共感を得ることで製品化の道を探るクラウド・ファンディングが日本でも一般化しました。「共感出資」や「共感投資」といった言葉は、物語性に依存しているともいえますよね。

──マーケットでの適応性で市場価値を判断されるのではなく、フィクションと小さなヴィジョンが重要視されるようになった要因は、投資の仕方がかなり多様になってきているからだとも考えられますね。ありうる現実をつくっていく投資の方法とスペキュラティヴ・デザインがうまく合致すれば、主戦場は展覧会だけでなく、ほかにも現われる可能性はあると思います。それだけではなく、ベンチャー・キャピタルのように投資の生態系も急激に進化していますし、その辺りとのマッチングにも可能性はあるのではないでしょうか。

水野──その考え方は面白いですね。そのうえで、もうひとつ重要かなと感じていることがあります。私がRCAの博士課程に在籍していた時に、アンソニー・ダンから「デザインは人間の生活に肯定的に寄与するものである、という前提を考えなおすべきだ」と言われました。場合によってはネガティヴにもなりえるし、ネガティヴな未来を想像することでポジティヴな未来の築き方を逆説的に考える機会を与えることも可能です。現代美術ではポジティヴ、ネガティヴ、上品、下劣なものが等しく扱われる領域がある一方、デザインの領域は「良い」ものばかりで、「人をやさしく殺す道具」のような多義的な作品はあまり出てこない。そうした意味では、デザインをもっと多様にしていくための方法としてのスペキュラティヴ・デザインが、展覧会や美術館という機能を持った近代的な場でも、あるいは路上のように無防備で経済が発生しづらい場所でも提案されることが重要であると思います。そのような射程も残しておきたいところです。

──スペキュラティヴ・デザインが提示するものが必ずしもヴィジョンに限らないということが、まさにいま水野さんがおっしゃった感覚を示していると思います。例えば、SF等で描かれる未来像が、技術者を刺激し、それがそのまま次の科学技術の達成目標になるということがしばしばあります。スペキュラティヴ・デザインを通して想像されたポジティヴな未来像がヴィジョン形成にそのまま接続されるならば、それでもよいのですが、スペキュラティヴ・デザインで描かれる未来はそのまま望ましい未来である必要はありません。ネガティヴな側面を含めた可能性を提示することで未来に対してのリアリティを獲得し、新しいヴィジョンを考える、あるいは既存のヴィジョンを疑うためのきっかけや、研究開発等におけるネクストステップに対して新しい方向性を提示する装置としてのデザインも重要です。

水野──『スペキュラティヴ・デザイン』の31頁には、PPPP図と呼ばれる図が載っています[fig.13]。未来学者のスチュアート・キャンディによって制作されたもので、現在と潜在的未来を「Probable(起こりそう)」「Plausible(起こってもおかしくない)」「Possible(起こりうる)」「Preferable(望ましい)」の4つのPで示しています。未来はポジティヴにもネガティヴにもなりうるものですが、その振り幅をより大きく豊かにしていくことがスペキュラティヴ・デザインの目指すべきところです。その土壌を整えていかなければ、スペキュラティヴ・デザインは、本当の意味で浸透していかないのかもしれません。

fig.13──PPPP図
引用出典=アンソニー・ダン&フィオナ・レイビー『スペキュラティヴ・デザイン』

スペキュラティヴ・デザインの教育への汎用可能性

──私が美術館で展示されることで完結してしまうデザインに限界を感じるのは、それが閉鎖的なコミュニティのためだけのものになってしまう恐れがあるからです。美術館へ足を運ぶ人とは、展示内容に関係するコミュニティに属した人、あるいは関心を持つ人です。美術館という場がうまく機能しているかぎり、展覧会で展示されるスペキュラティヴ・デザインが一定の役割を果たすであろうことは十分に理解できます。問題は、展覧会ないし美術館のコミュニティが限られたディシプリンで管理されてしまうとデザインが力を失ってしまうことだと思います。スペキュラティヴ・デザインのための展示、あるいはヴィジョナリーなデザイナーを守るフィールドとして機能してしまうとつまらないものになってしまうと思います。

水野──それはおっしゃるとおりですね。美術館という特殊な領域、ある文脈に守られることでしか成立していないデザイナーはたしかにいます。多くの人々に考えるきっかけを与えるはずの展覧会という場が、市場やビジネスモデルを考えないデザイナーを守るための特殊な場に変容してしまうことがあれば、たしかに問題です。

──それを避けるために、スペキュラティヴ・デザインをデザイン分野に限ったものにするのではなく、不特定多数がいる領域で起こりうるものとして、教育の場面でも発展していく可能性はあるでしょうか。例えば教育学の領域で生まれたクリティカル・シンキングやIDEOなどによって注目されたデザイン思考は、どの分野にも使える思考方法として広まりつつあります。スペキュラティヴ・デザインも同じように思考の姿勢としてあるのであれば、RCAのような専門性の高い大学で教えるだけでなく、一般的に共有していくことはできるでしょうか?

水野──スペキュラティヴ・デザインがRCAで生まれた背景には、イギリス独特の土壌があります。イギリスでは、美術大学が炭鉱のカナリアのように機能してきました。つまり社会に問題が起きた時、いちはやく気づきラディカルに批判する場として美術大学があったのです。しかしもはや、美術大学のみが実験の場ではありません。20世紀型ではなく21世紀型の教育を考えられる場が、近年町なかでつくられはじめている市民が自由に使える制作工房なのかもしれない。そういう場所でバイオハッカーのようなまったく新しい活動家が生まれ、社会を揺るがせる状況になれば素晴らしいと思います。しかし、スペキュレーションとは日常生活と未来のギャップを想像力で埋めていく作業で、誰もが行なえるわけではありません。そのための訓練としてスペキュラティヴ・デザインの教育が機能する可能性も十分に考えられると思います。

──なるほど、スペキュラティヴ・デザインにはある程度専門的なスキルが必要とされ、誰もができる思考ではないですね。一般化していく思考というよりは、デザイナーの新しい姿を提示するものだとみたほうがよさそうですね。

水野──誰もができる思考でないとしても、それを通じた作品は多くの人に届く可能性を持っています。この20年の技術の進化についていけなくなった人はたくさんいますが、一方では最先端の技術を追い続けている人もおり、そのギャップはますます大きくなっています。このような状況を踏まえると、スペキュラティヴにものを考え、プロトタイプをデザインすることで、市場にすぐ出回るわけではないけれどわかりやすく機能を伝え、共感を得ていく方法は、新たな技術が一般化していく時に必要とされる方法ではないでしょうか。それは連さんがおっしゃったように教育の現場でも応用可能性があり、例えば、最新の科学をわかりやすく伝えるサイエンス・コミュニケーターのような職能がもっと広く一般に浸透していく必要があるかもしれません。

──先ほども言いましたが、先日RCAも訪れ、スペキュラティヴ・デザインを学ぶ学生と交流してきました。個々で進められているプロジェクトは、独創的な視点でスペキュラティヴ・デザインを体現していて感銘を受けました。その一方で、扱う対象やテーマはプロジェクトごとに違えども、問題を浮き彫りにするためのアプローチや手段は共通するものがあるように感じました。アンソニー・ダンの考える、明確なスペキュラティヴ・デザインの教育方法論やメソッドはあるのでしょうか?

水野──RCAでは修士過程の学生に対する明確な教育方法論は、少なくとも僕がいた時はありませんでした。クリティカル・デザインからスペキュラティヴ・デザインへと変化してはいますが、アンソニー・ダン本人は両者ともメソッドではなく態度を示す概念だと言っています。ただ、彼の周りに集まった才能から、手法的なものを探ることは可能です。例えば、書籍の共著者でありパートナーでもあるフィオナ・レイビーは建築を学び、一時日本でも設計事務所に勤めていた方です。そのため、『スペキュラティヴ・デザイン』ではアーキグラムやスーパースタジオといった建築の活動が含まれ、彼らが用いていた手法が取り入れられています。また、ノーム・トーランは映像制作に長けたデザイナーで、アンソニー・ダンのドキュメンタリーめいた映像の多くを撮影しました。スペキュラティヴ・デザインのプレゼンテーションとして、映像が一般化したのは彼の功績が大きい。私は2001年前後からRCAでのスペキュラティヴ・デザインの動向を見てきましたが、「スペキュラティヴ・デザイン」というキーワードのもとにいろいろな人が集まり、技術の進化に伴い人が抱える未来への懸念に対して、多角的にアイデアを提出する場として発展を遂げたとみています。ですから、明確に体系化した教育方法論やはないと思います。

ウィキッド・プロブレム(意地悪な問題)への非線形的アプローチ

──メソッド化は難しいというお話でしたが、『スペキュラティヴ・デザイン』を読むと、1人ないしはチームで、プロジェクトの「問題」がどこにあるのかを探求するプロセスが示されているように思います。建築系のまちづくりの分野では70年代以降、市民参加型ワークショップの可能性を追求してきました。フィールドワークからみんなの感想をKJ法で洗い出し、課題と可能性のある場所をグルーピング、マッピングし、新しい解決策をブレイン・ストーミングから募る......、こうしたワークショップの派生系がとにかくたくさん生まれました。いまではそれをみんなが当たり前のように使っていますが、現在では頭打ち状態にあるようにも感じます。それは、「問題」として扱う対象がある意味マンネリ化していることにも原因があるんじゃないかと思います。僕らが普段思う「問題」というものから発想が自由にならない。スペキュラティヴ・デザインは、コレクティヴに「問題」のありかを探っていくワークショップとは本質的に異なっていて、新たな視点を与える気がしているのですが、どのようにお考えになりますか。

水野──大いに可能性があると思います。そもそも、ワークショップとスペキュラティヴ・デザインはともに出自を同じくしています。つまり、60年代以後のデザイン方法論の研究は、紆余曲折を経て80年代にはナイジェル・クロスによって「CADに関する情報処理としてのデザイン方法論」、「創造性に関するデザインの方法論」、「ユーザー参加型の方法論」、「急進的デザインの方法論」の4つにおおまかに分類されました。今日ではこれらの領域は例えば、「CADに関する情報処理としてのデザイン方法論」はコンピュテーショナル・デザインへ、「創造性に関するデザインの方法論」はデザイン思考へ、そして「ユーザー参加型の方法論」は、クリストファー・アレグザンダーのパタン・ランゲージやインクルーシヴ・デザイン、HCDなどの「ワークショップ」を用いたユーザーとの協働を前提にした方法へと結実しましたが、4つめの「急進的なデザインの方法論」が、スペキュラティヴ・デザインへと結実したと考えられるためです。

つまり、60年代のデザイン方法論の反省から、ユーザーとの対話のなかで意思決定を行なっていくデザイン方法論に端を発し、両者とも、ひとりがすべてを決定するのではなく、みんなで合議によってものをつくるための態度は共通しているのではないかと私は理解しています。そのような意味では、片方のワークショップ型が行きづまっているとすれば、スペキュラティヴなものづくりは、もしかするとまちづくりに活かすことのできる方法論になるのではないでしょうか。

──情報を収集し、問題提起を行ない、解決するリジッドなシステムがうまくいかなかなくなった理由のひとつとして、解決を与えた時点で問題も変化してしまうという「ウィキッド・プロブレム」(意地悪な問題)というデザイン思考の基礎になっている重要な概念があります。それに対してスペキュラティヴ・デザインは、これまでの「問題をどう扱うか?」という議論に対し、線形ではアプローチできない斜め上の地点にボールを投げ、従来のデザイン論的な課題を宙づり状態にしてましっている点が面白いと思っています。

建築やまちづくり、あるいは世の中全体で、「問題」が発生するや否やすごい勢いで消費されていますね。さまざまな問題要素が複雑に複合しているはずの都市的課題が、「高齢者」「防災」「福祉」などのわかりやすい標語にまとめられ、それをメディアがハイスピードで消費していく構図ができあがっています。この状況に対して「問題」そのものの扱い方にインセンティヴ(発想の動機)を持てるスペキュラティヴ・デザインは、たとえば高齢化の根本的な問題はなにかというように問いのかたちを変えることで、出口の見えない問題群に対して新しい発想を与える手立てとなりそうですね。

現代社会ではある対象が「問題」として指摘されると、一目散に解決が求められます。その挙げ句、次々と噴出してくる問題に対してみんなで解法を議論することにも限界が見え、消耗してしまっている。こうしているうちに世界がずいぶんと窮屈になってしまったように感じます。しかし、「問題」の扱い方を再考することで、解決の与え方や社会の動かし方も変えられる気がします。

建築やまちづくり、あるいは世の中全体で、問題が発生するや否やすごい勢いで消費されていますね。さまざまな問題要素が複雑に複合しているはずの都市が、高齢者、防災、福祉などのわかりやすい問題に結実され、それをメディアがハイスピードで消費していく構図ができあがっているようです。この状況に対して問題そのものの扱い方にインセンティヴ(発想の動機)を持てるスペキュラティヴ・デザインは、たとえば高齢化の根本的な問題はなにかというように問いのかたちを変えることで、出口のない問題の新しい解法を見つけ出す手立てとなりそうですね。

現代社会では問題と指摘されることのなかでなにを対象に扱うべきかを思考する前に、一目散に解決が求められます。その挙げ句、次々と噴出してくる問題に対してみんなで解法を議論することにも限界が見え、消耗してしまっている。こうしているうちに世界が窮屈になったように感じませんか。しかし、問題の扱い方を再考することで、解決の与え方や社会の動かし方も変えることができるのではないでしょうか。

水野──それが一番堅実に社会へ実装できるスペキュラティヴ・デザインの立ち位置になりそうですね。国内メディアのさまざまな社会問題へのアプローチは、近年ますます近視眼的になっています。たとえばエネルギー問題に対しても、目先の問題に終止しがちのように感じます。原発に変わる発電手段として風力発電が一般化するとしたら、どのような風景が立ち現われてくるのか。可能性として海洋上が風船型の風力発電機で埋め尽くされるかもしれないわけです。「ありうる」可能性についての踏み込んだ議論や試作が行なわれないまま、目の前の問題だけニュースメディアで扱ってもなにも起きません。多くの人が当事者意識をもてるテーマだからこそスペキュラティヴに問題を扱い、どのようなことが未来に起こりえるのかを知るためにも、問題解決へのアプローチの仕方を掘り下げていくべきではないでしょうか。


スペキュラティヴ・デザインの日本的な応用可能生にむけた議論を

水野──設計プロセス論は建築や工学分野では検証され進歩しましたが、中心であったはずのデザイン分野においては検証が進みませんでした。だからじつはデザインリサーチとつながっているスペキュラティヴ・デザインが登場した時、逆の意味で突然変異に見えてしまうわけです。100年未満の歴史しかないのに、断絶があるのは違和感があります。これまでに行なわれてきた歴史的な試行錯誤を無駄にしないため、そして失敗を繰り返さないため、デザイン理論を歴史的に考え研究する体制をもっと整えていく必要があります。しかし、いまだに「デザイン=見た目」の設計だと他領域の人に理解されている状態では、なかなかスペキュラティヴ・デザインは受け入れられないでしょう。そういう意味でもデザインの領域を拡張し広く普及させていくような活動をしていく必要があります。

──まずは問題提起自体がデザインの価値として認められることが重要ですね。そのうえで、その問題をどう解くかを考えていく必要があります。デザインだけでなく、関係する領域における次のアクショナブルなステップへとブリッジしていくための方法を考えなければいけません。ただし、スペキュラティヴ・デザインが、新しい解決策をすぐに見出せるメソッドだと理解されてしまうと、デザイン・シンキングの延長線上にあるものとしてすぐに消費されてしまいそうです。ですから、その態度を表明することが最初のステップではないかと感じました。

──私もデザイン分野だけの自己満足の回路に陥らないようにスペキュラティヴ・デザインをどこへ向けて投機するか、どのように受容されるのかをシリアスに見ていくべきだと考えています。

その時に、スペキュラティヴ・デザインがイギリスのデザイン文脈から出てきたことも意識しなくてはいけません。日本で応用する場合には、単純なメソッドの輸入ではなく、どこにスペキュラティヴ・デザインの価値があり、どのような投げ方をするのか、日本のコンテクストに沿って変型させていくことが重要ではないかと、今日の鼎談で感じました。

個人的には、建築への応用可能性も考えてみたいと思っています。本来ヴィジョンを投機的に持つことができた建築分野でも、現在は建築を「つくる/つくらない」などの問題に固定化されてしまっている状況があります。その状況を打ち破るものとしてスペキュラティヴ・デザインにヒントがあるのではないかと思います。建築でもどこに問題があるのかをセッティングしていく態度を評価するように心がけたいです。例えばコンペや卒業制作でも設計や目に見える提案をしていないとすぐに「もっと作ろうと!」という論調に偏りがちですが、条件からものをつくることは比較的簡単で、それよりなにを問題として提起するのかということのほうがよっぽど労力や思考の深度を必要とします。建築だけでなく、あらゆる領域で既存の枠組みが解体しているような現代社会のなかではこうした思考はより重要になってくると思います。成果として問題を提示するような作品がもっと評価されるようにしたいですね。

水野──スペキュラティヴ・デザインはとてもイギリスらしいユーモアに満ちています。日本におけるスペキュラティヴ・デザインの実践者であるスプツニ子!の活動は、日本的な文脈を意識してスペキュラティヴ・デザインの持つSFの要素を「ドラえもん」へ託すことを試みたりしていましたが、伊藤計劃のSF小説のような文脈も、もしかしたら援用することができるかもしれません。あるいは、まだまだ発掘されていない日本の優れたSF小説を大いに活用することができる可能性もあります。いずれにせよ、多くの人に興味をもってもらうためには、「直輸入」ではうまくいかないことは明らかです。日本的な応用可能性を考えるためにも、デザインリサーチを深めていくためにも、日本でのスペキュラティヴ・デザインの展開の母体となる場所を確実に整えて、議論を続けていきたいですね。


[2016年3月8日、慶應義塾大学SFCにて]





水野大二郎(みずの・だいじろう)
1979年生まれ。デザイン研究者、デザインリサーチャー。芸術博士(ファッションデザイン)。慶應義塾大学環境情報学部准教授。共著=『FABに何が可能か──「つくりながら生きる」21世紀の野生の思考』(フィルムアート社、2013)、『リアル・アノニマスデザイン──ネットワーク時代の建築・デザイン・メディア』(学芸出版社、2013)、『インクルーシブデザイン──社会の課題を解決する参加型デザイン』(学芸出版社、2014)など。編著=『fashionista001』『vanitas002』『vanitas003』(vanitas編集部、2012-14)ほか。

筧康明(かけひ・やすあき)
1979年生まれ。メディアアーティスト、インタラクティブメディア研究者。博士(学際情報学)。慶應義塾大学環境情報学部准教授。2016年3月までマサチューセッツ工科大学メディアラボ客員准教授。『触感をつくる──《テクタイル》という考え方』(岩波科学ライブラリー、2011)、『x-DESIGN──未来をプロトタイピングするために』(慶應義塾大学出版会、2013)、『触楽入門』(朝日出版社、2016)ほか。SIGGRAPHやArs Electronicaほか国内外の学会、展覧会で、研究・作品を発表し、受賞も多数。

連勇太朗(むらじ・ゆうたろう)
1987年生まれ。建築家、NPO法人モクチン企画代表理事、横浜国立大学大学院客員助教、慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科特任助教。主な論文=「建築デザインの共有資源化に向けて」「生成力を設計せよ──1968年のC・アレグザンダーへ」「再び都市と向き合うための建築的実践──ネットワーキングアーバニズム試論」ほか。共著=『「シェア」の思想/または愛と制度と空間の関係』(LIXIL出版、2015)。


  1. 「スペキュラティヴ・デザイン」の歴史的源流/未来との対話から生まれる投機的デザイン/物語か実装か?──「クリティカル・デザイン」「デザイン・フィクション」
  2. 建築・都市のスペキュラティヴ・デザイン──「プロジェクト」と「プラクティス」/マーケット構造のなかのヴィジョンの力/文脈と原理をつなぐデザイン──「Deploy or Die」/
  3. 革新的開発か漸進的改良か──スペキュラティヴ・デザインと投資の生態系/スペキュラティヴ・デザインの教育への汎用可能性/ウィキッド・プロブレム(意地悪な問題)への非線形的アプローチ/スペキュラティヴ・デザインの日本的な応用可能生にむけた議論を

201604

特集 スペキュラティヴ・デザイン
──「問い」を発見する、
設計・デザインの新しいパラダイム


スペキュラティヴ・デザインが拓く思考──設計プロセスから未来投機的ヴィジョンへ
スペキュラティヴ・デザインの奇妙さ、モノの奇妙さ──建築の「わかりやすさ」を越えて
思弁の容赦なさ──「プロジェクトの社会」における世界の複数性
【追悼】ザハ・ハディド──透視図法の解体からコンピュータの時代へ
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