東日本大震災から5年、アーキエイドと建築家はいつ何を考えてきたか

福屋粧子(東北工業大学工学部建築学科准教授、建築家、アーキエイド初代事務局)
東日本大震災5年後の3月11日、石巻から牡鹿半島を巡るなかで目に映るのは、人工物ばかりだった。
住宅をはるかに超える高さの仮置きの土砂、真新しい津波避難タワー、工事途中の高台住宅地、5階建ての公営住宅、完成間近の防潮堤、新県道のための橋脚[fig.1-5]。どれも、5年前の石巻と牡鹿半島にはなかったものだ。個人の建築家として、アーキエイドから距離をとって書くことはとても難しい。5年前、2011年6月の津波の瓦礫が多く残る写真[fig.6-9]と比較すると、力強い復興の進捗を感じるが、同時に違和感もある。人々のくらしがとりもどされつつあるのか、それとも塩崎賢明の指摘する「復興〈災害〉」★1の現場を見ているのだろうか。被災地で活動しており、間近で変化を見ている者としては、震災5年を経て人々の関心が薄れていたとしても、だからこそより伝えていかなければという気持ちがある★2

fig.1──石巻市渡波大宮町に新設された避難タワー
津波が起きたとき214人が避難できる高さ約13mの。2015年3月より供用開始。普段は施錠され、緊急時には自治会が鍵を開けるかドアを壊して利用する。事業費2億円。石巻市内の4カ所に建設された。(2016/3/11)

fig.2──石巻市渡波海岸の防潮堤
牡鹿半島に向かう途中の右手の海岸。宮城県東部土木事務所による長浜地区海岸防潮堤復旧。2016年3月完了。被災前高さT.P.+6.2mから復旧後は+7.2mに嵩上げされた。国・県・市でそれぞれ進められている復興・復旧事業についてのさかざまな情報は、宮城県では「復興まちづくり事業カルテ」にまとめられ、年一回更新されている。(2016/3/11)

fig.3──石巻市牡鹿半島谷川浜の土砂仮置き
防災集団移転で宅地をつくるために山を削った土は、多くの場合、直接低地のかさ上げには回されず、平らな場所に仮置きされて、最終的な利用の指示を待つ。かつての集落の中心に突然現れる赤土の幾何形状はまるでランドアートのようだ。(2016/3/11)

fig.4──石巻市牡鹿半島大谷川浜の高台移転工事
高台のすまいのための工事進捗は時間がかかっている。2016年3月までの宅地の完成は、石巻市半島部の64地区のうち2/3。残りは6年目以後も工事が続き、多くの住民が完成を待っている。
写真中央は、大谷川浜の高台移転工事。防災集団移転促進事業で整備される高台住宅地(T.P.24m以上)に住民13世帯が移転する予定である。東京工業大学塚本研究室がリサーチとヒアリングから移転素案をつくり、東北大学災害科学国際研究所が土木に関するアドバイスを行って工事図面が作成された。建築だけではなく、集落が高台で孤立しないように復興県道を近くに通し、全戸から港が見渡せる提案となっている。塚本研究室は現在も集会所建設をボランタリーに続けており、2016年度建設予定。(2016/3/11)

fig.5──釜石市半島部の土砂仮置き(2015/3/30)


fig.6、7──被災3カ月後の石巻市牡鹿半島寄磯浜
高台の住宅は残り、港が被災した(2011/6/15)

fig.8──被災3カ月後の石巻市牡鹿半島鹿立屋敷(2011/6/15)

fig.9──被災3カ月後の石巻市牡鹿半島谷川浜
集落の痕跡がないほど流されていた。fig.3とほぼおなじ場所。(2011/6/15)

「アーキエイド」は、2011年3月11日14時46分に発生した東日本大震災を契機として設立された、建築家のネットワーク〈東日本大震災における建築家による復興支援ネットワーク〉の略称である。
では設立はいつだったのか? いつから活動を開始したのか? その前はアーキエイド的な組織はなかったのか? どのような経緯を経て設立に至ったのか? 全体としてはどのような活動を残したのか? また、法人が解散すれば、災害時支援の建築家ネットワークは消失するのだろうか?

震災後6年目に入った今年、アーキエイドは法人としてのクローズの時期を迎えるため、現在、『アーキエイド・レコードブック(仮)』の出版準備を進めている。アーキエイドの賛同者は2016年3月現在308人、賛同者の活動はアーキエイドのプラットフォーム内外で行なわれている多岐に渡る活動があるため、それぞれの活動を収録したものとなる。
5年間の活動期間は、11のフェーズ──応急連絡期(1週間)・ネットワーク形成期(1カ月)・現地組織形成期(2カ月)・プラットフォーム稼働開始期(3カ月)・プロジェクト開始期(6カ月)・アーカイブ開始期(12カ月)・建築検討支援開始期(18カ月)・復興計画と提案・事業間の調整開始期(2年)・プラットフォーム活用期(3年)・支援先現地活動との分離期(4年)・再ネットワークとアーカイブ形成期(5年)──に区分される。 レコードブックではその疑問の多くに応えるために、なるべく漏れがないように記録を行なった。上記の内容に興味がある読者はぜひ、2016年5月以後に予定されている、アーキエイド総会とレコードブック公開にあらためて立ち会ってみてほしい。

アーキエイドの母体となる話し合いが始まったのは、災害ユートピア期★3であった。方針が定まったのは数カ月後であるが、多くの建築家の議論によって形づくられていったそのプラットフォームと活動は、理想論的でもあり、その後の活動で現実とぶつかる場合も多かった。住民の側に立ち、行政と連携し、地域・空間に対しての専門的な知識を伝え、未来をよりよいものにしていく、その活動のなかで、アーキエイドの建築家は、建築家が支援活動に参加する意味を問いなおしてきた。
活動を通じて見えてきた建築と設計者の変化について、以下のキーワードを考えてみた。

-〈回復の建築〉
-〈公共を語りあう(専門家とユーザーが垣根を超えるために)〉
-〈ソーシャルキャピタルの再建〉
-〈自然地形と群造形への配慮〉
-〈土木・都市計画事業と建築デザインのアプローチの差〉


今回はそのなかで、〈回復の建築〉〈公共を語り合う〉をもとに話をはじめてみたい。

〈回復の建築〉

2011年の初夏、学生と私は、津波被災を受けた30の集落を順にまわっていた。跡形もなく砂地と沼になっている浜もあれば、家の外壁が破壊され、玄関も窓もなく生活物と漁具が散乱している家もあった。「牡鹿町史」を読んで初めて行った浜々で「ここはどんな集落だったのだろう?」「四季折々どんな暮らしをしていたのだろうか?」とつねに考えていたように思う。

家のようなものがあれば、その失われた全体型を想像し、入るときは可能なかぎり、なくなってしまった玄関の枠をたたき、敷居をまたぐ動作をした。「家に入る動作」を行なわなければ、そこに家があったことの意味が失われてしまいそうなほど、破壊されていたからだ。浜の高台にある神社があれば、石段を登り手を合わせた。

サマーキャンプに参加した100人の学生と15組の建築家も、自然の圧倒的な力によって破壊された状況にそれでも残存する昔の生活の痕跡を読みとり、その浜ごとの建築や配置の祖形を探しながら、新たな高台移転の場所を探していた。この集中調査を通じて、建築の通常の設計や学生の設計演習などで意図される、周辺環境からの差異・ずらしをデザインする状態とは異なり、真正面から、地域での建築の形に向き合い、学び、再生を願い、回復へ向かう心構えができたように思う。元あった家を港が見えるいい場所に建てられたら、浜での暮らしが戻ってくるのではないか。アーキエイドとしての家への向き合い方をまとめたものが、2012年「浜のくらしから浜の未来を考える」 (地域調査)、2013年「浜のくらしから浜のすまいを考える」(住宅提案)である。どちらもarchiaid.orgにて公開している。

しかし実際の建築フェーズに移ると、公営住宅の枠組みは災害後の最低限の生活を保証するものであって、地域に根ざした住宅を供給するためのものではないことが問題となった。アーキエイドの公営住宅に関する提案は、石巻市では活用されず、釜石市の半島部14浜の戸建て公営住宅の配置計画などに活かされた。釜石は海の街だが、内陸の遠野では東北のHOPE計画★4が行なわれていたため、釜石市戸建て公営住宅の設計・建設は、遠野・釜石の地域設計事務所・地域工務店の協力を得て行なった。fig.10、11は、AAA共同体★5で設計を行なった大石地区・唐丹片岸地区の浜の住宅だ★6

fig.10──釜石市大石地区復興公営住宅
集落の分校グラウンド跡地と奥の既存集会施設を活かして、3戸の公営住宅を計画した。一人暮らしの老人世帯が多い。塀をなくし、単純なボリュームが雁行することで生み出された庭の畑を介して、ご近所の様子がお互いわかるような関係性は、ヒアリングでの生活からもたらされた。新建築2014年3月号掲載。(2015/3/30)

fig.11──釜石市唐丹片岸地区復興公営住宅
4戸の公営住宅が玄関を向けた、L字のコミュニティ通路を配置した。住戸間の台形の隙間でプライバシーが確保され、塀をなくしても生活しやすい配置である。奥の石垣の上は隣の既存住宅。fig.9の公営住宅の一年後にできたが、その間、fig.9のトップライト・瓦屋根が「華美」という指摘を受けて、材料等の見直しを行なった。より簡素化するなかで、畑仕事のための外流しや縁台はなんとか小さく残し、配置によって快適さをつくりだそうとした。(2015/3/30)

一見、どれが新築の公営住宅なのかわからないほど、周りの既存住宅になじんだ建ち方となっている。保守的に見えるので、どこにアトリエ系建築事務所のデザインが活かされているのが不思議に感じる向きもあるかと思うが、それこそが〈回復の建築〉の意図なのだ★7

それでも批判は絶えない。
丁寧にヒアリングを行ない、一人暮らしの老人世帯が孤立しないように、方位に対する均一性よりはコミュニティ形成と集落への馴染み方を重視した配置で、環境性能が高く、仏壇や神棚を置ける瓦屋根の木造戸建て住宅を建てることについて、「被災者に対する対応として過大だ」「華美だ」「他の地域との差異が出るのは不平等だ」といった理由で、ローコストでも地域ごとにより良い住宅をつくっていくべきだという建築家の意図は、誤解されていった。
急ぐ再建プロセスのなかで供給の論理が優先され、外部建築家の疎外が起きたとも言えるが、より大本の問題としては、今回の復興事業による住まいの再建の大半を占める公営住宅制度・防災集団移転制度がともに、車移動が可能で自立した核家族による郊外団地的で均一な住まい方を前提にしてつくられており、過疎・高齢化する集落でコミュニティによる見守りが必要な状況において、制度と住宅基準がフィットしてないことが挙げられる。2016年3月の新聞記事には、復興公営住宅に入居できても、元と新しい生活環境が大きく変わってしまった場合には、被災しているという意識がほとんど減らないという調査結果がでている★8
被災者のくらしが真の意味で〈回復〉するために、〈回復の建築〉は重要な役割を持っているが、まだその発見は制度の中の基準や評価にうまく織り込まれていないのだ。

これまで建築家はそういった制度と社会のギャップのある状況から距離をとって作品をつくってきたが、各地域の今後の住宅基準はどのようにあるべきか、今回、伝統的住宅から学び〈回復の建築〉を設計した経験から、基準や評価点自体を変えるべく、伝えていく必要があるだろう。

〈公共を語りあう
(専門家とユーザーが垣根を超えるために)〉

より小さく、身近な公共性を古い集落のつながりのなかで再発見できたことも、建築と社会の関わりについて改めて考える契機となった。

震災後には、さまざまな「ヒアリング」の場に立ち会い、自分たちも多くの「ヒアリング」を行なった。きわめて大きく分けると、建築系・産業系メンバーによる場と、行政・土木コンサル系メンバーによる場は、同じ「ヒアリング」の名称を使っていても大きく異なる。
アーキエイドを含む自分と学生が行なったヒアリングでは、つねに、「あなた方はどうしたいのですか」と問いかけた。「あなた方」は、その場にいる寄り合いの参加者の場合もあり、集落全体であったり、その港を使う漁師たちであったり、祖先から孫まで含め、また未来の集落で暮らす人であったりする。
対して、行政・土木コンサル系のヒアリングは、ほぼつねに「あなたはどうしたいのですか」と家族単位の判断を問うていた。
同じ話題であったとしても、「あなた方」=地域コミュニティとして答えることと、「あなた」=個人もしくは家族単位で答えることは、大きく異なる。例えば、地域コミュニティとしては浜の集落の存続を臨んだとしても、自身は内陸移転を決断することもある。その差が、集団移転決定当初のまとまりから個別の入居や再建に至る道筋で、集落戸数が減少するばらつきを生み出してしまったが、それでも、震災前も後も独立している地域コミュニティのなかでこそ、地域のくらしがある。その地域での公共性・公益性を深く考え、言葉で、また共同作業によって語っていくことが、コミュニティを強化していく。

私自身は牡鹿半島の小渕浜に、民宿の再建、神社の祭りの掃除、高台の住宅移転アドバイスなどのために断続的に通っている[fig.12, 13]
アーキエイドの活動に加わった学生が、2013~14年に小渕浜の民宿「めぐろ」の再建プロジェクトに参加した際、非常に豪快な漁師兼主人と直接話すことがあった。

fig.12──釜石市の半島部公営住宅見学スタディツアー
2015年3月末に上閉伊・AA特定共同企業体で取り組み、完成した戸建て公営住宅の見学を行なった。写真は宮本佳明担当の根浜地区。(2015/3/30)

fig.13──3月11日の石巻市牡鹿半島小渕浜の港
3月はワカメ漁の最盛期だが、慰霊のため当日は港の作業は休みとなっている。14時46分に地区全体で防災無線が鳴り、港で手を合わせる。(2016/3/11)

建築の話になるとまったく話が合わなくなりそうになるなか、「この浜がどうなるべきか」「そのために震災後何をしてきたのか」「今後どういう人に来てほしいか」など、自分の直接の関心の外にあるテーマを話しだし、それが会話のきっかけとなり、そしてしだいにそうした内容が議論の中心となっていった。
学生も出身地の地元の人とは絶対話さなかったであろう内容だ。この浜がどうなっていくかという会話をきっかけとして、民宿の再建プロジェクトでは、人々が訪れる場をどうつくるか、地域を外にどう開いていくかということが課題となり、目標となった。ユーザーである民宿の主人にとっても意外な展開であっただろうし、学生や私たちにとっても大きな学びの時間であった。その他の場所、鮎川港まちづくり協議会や岩沼の協議会の立ち上げにおいても同様に、地域の共有の価値をどうかたちづくっていくか、学生やアーキエイド・インターンと悩みながら、月ごとの会議の準備を進めていった。

与件がすでに設定されている建築プロジェクトについて最適解を与える設計ではなく、建築の専門家(学生)とユーザー(クライアント)、利用の専門家(クライアント)とユーザー(学生)が、それぞれの立場に入れ替わりながら、垣根を超えて共有できる価値=公共性を見出していることが感じられるのが震災後の学生が加わった設計の特色であり、そこで学んだ学生が、今後の建築のあり方を変えていくのではないかと感じている。

おわりに

震災5年後はあたらしい始まりの時期ともなった。震災5年後から10日後の2016年3月20日、法政大学で、最後のアーキエイド半島支援勉強会(第31回)が開かれ、多くの建築家とOBOGと一般聴講者が参加した[fig.14, 15]
2011年12月からの全30回の内容をふりかえると同時に、この経験から新しい本をつくってはどうかと話し合いが持たれた。アーキエイドの半島支援活動に参加したひとりの建築家から、5年間をふりかえると山ほどのつらかったことを思い出すのに、半島支援勉強会のメンバーはなぜこんなに前向きなのだ、という感想があったが、参加したメンバーは、大なり小なり同じような感想を持っていると思う。それでも、この学びから建築を変えていこうと突き進む、幹事=筑波大学の貝島桃代をはじめとする素晴らしいメンバーと、地域での実践と学びについて話し合える貴重な場が、震災5年後から、また形を変えて始まった。


fig.14、15──アーキエイド半島支援勉強会最終回 開催風景
法政大学市ヶ谷田町校舎で開催。当日の参加メンバーは、貝島桃代(筑波大学)、門脇耕三(明治大学)、小泉雅生(首都大学東京)、小嶋一浩(Y-GSA)、近藤哲雄(近藤哲雄建築設計事務所)、下吹越武人(法政大学)、千葉学(東京大学)、塚本由晴(東京工業大学)、平井政俊(平井政俊建築設計事務所)、福屋粧子(東北工業大学)、宮本佳明(大阪市立大学)、山中新太郎(日本大学)、前田茂樹(大阪工業大学)、萬代基介(萬代基介建築設計事務所)、渡辺真理(法政大学)ほか ゲスト:小野田泰明(東北大学)。5年間の復興支援活動を通じてのキーワードをグループで挙げ、当時は学生だった参加者からも発表を行なった。全31回の内容はhttp://archiaid.org/projects/aapj-1c/に掲載している。(2016/3/20)


追記
2016年4月14日から熊本で震度7の地震が起きた。全壊・半壊などの家屋被害は1万戸前後と推測されているが(阪神淡路大震災は25万戸、東日本大震災は30万戸)、局地的に大きな被害をもたらし、交通が寸断され、物資・インフラの不足、分散避難の大変さが伝えられている。大きな被災を受けた方、またその周りで支える方の大変さを、5年前を思い起こしながら想像してみるが、やはりわからないことも多い。同時に、建築家の支援活動はアイデアもそれぞれで、個人的ネットワークに根ざしたものが多いとはいえ、その経験や知見は個人にとどまるものではなく、共有してこそ意味があると改めて感じている。今回発災1週間内に「熊本地震復興支援・建築専門家ネットワーク」が立ち上がり、東北・阪神・中越でのボランティア活動グループも避難所での支援活動を始めている。被災地九州を中心とした情報共有と、関心の継続への活動を、九州〜東北1,000km以上の距離を隔てて、応援していきたい。




★1──塩崎賢明『復興〈災害〉──阪神・淡路大震災と東日本大震災』(岩波新書、2014)。
★2──より現地に近い活動を行なうアーティストたちも、震災後の変化についての表現を続けている。映画『波のした、土のうえ』(陸前高田で活動するアーティスト小森はるか・瀬尾夏美による短編映像)では、強大な土木工事で埋められた家族の土地とそこで暮らしていた人々のモノローグ、復興工事でふたたび取り壊される楽園のような花園が、二重化されて記録されている。変化しつづける風景のなかで前向きに生きると決める決意と昔の暮らしに回帰したい想いのねじれが『波のした、土のうえ』には表われている。
★3──発災数日後から1~2カ月程度(「復興の教科書」など参照)。
★4──「Housing with Proper Environment」。1983年に開始された建設省主導による地域住宅計画(気候風土、都市規模、居住地類型、地場産材による、すまいづくり、まちづくりにおける地域性の計画)。
★5──アーキエイド牡鹿半島支援チームのなかで、ADH・AAE・ALの3社による釜石市半島部公営住宅のための設計共同体。
★6──《釜石市半島部全浜災害復興公営住宅 大石地区復興公営住宅》(設計:上閉伊・AA特定共同企業体)(『新建築』2014年3月号、112頁)
★7──ひと浜ひと浜別の設計チームが担当しているが、お互いの案について、全員でチェックポイントを共有して議論を進めたことが大きな特徴だろう。チェックポイントは、どのように地域性とコミュニティ・プライバシーを両立させていくかの配置のアイデア、畑・縁台・軽トラ駐車場・漁業作業場所など屋外スペースをどのように確保するか、現在車いすを使用していない高齢者の住居でスロープをどう取り扱うかなどであった。また個別の住宅においても、続き間・仏壇置き場・トップライト・キッチンとリビングの見通しなど居住性にかかわる細かい提案がどの案にも密に盛り込まれている。
★8──「〈震災5年〉脱「被災者」意識 住まいで差」(『河北新報』2016年3月16日)において、単に住まいが新しくなっただけでは、被災意識の低下にはつながらないというアンケート結果が掲載されている。「東日本大震災の発生から5年が経過してなお、災害公営住宅の入居者は「『被災者』ではなくなった」との思いを抱けずにいる。(...中略...)「自分が被災者だと意識しなくなったか」を尋ね、5段階で評定してもらった。(...中略...)「災害公営住宅」は28.3%と、脱「被災者」意識が希薄だった。災害研の今村文彦所長は「災害公営住宅に転居した人々は、環境の大きな変化に対応しきれていないのではないか」と分析。住まいの形態が復興へと向かう被災者の気持ちに影響していることをうかがわせる結果となった」。



福屋粧子(ふくや・しょうこ)
1971年生まれ。東北工業大学工学部建築学科准教授。AL建築設計事務所共同主宰。アーキエイド初代事務局。主な作品=《森の教室》《森の休憩所》《伊那谷の家》《スクールラボラトリー》ほか。


201604

特集 スペキュラティヴ・デザイン
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