市民社会の建築家・青木淳

倉方俊輔(建築史家、大阪市立大学准教授)

建築にする村野藤吾との類似

[fig.6]《大宮前体育館》内壁
提供:青木淳建築計画事務所
テキストに表現されているほどに、青木さんの手法が変化しているようには思えないのである。この3冊めの作品集を手にして安心するのは、かつてのモダニズムのような「つくり手」主導の時代から、ポストモダンの「受け手」が価値を決める時代に完全に移行したことを理解し、市民社会に対する最終的な信頼に根ざして、いま建築家ができることを、実際の作品を通じて明らかにしてきた《H》(1994)や《遊水館》(1997)以降の手法が揺らがず、ますます拡張している事実である。
その手法の中心には、つくり手の身体化された判断がある。リノベーションのように、やりすぎない形や意図が見えすぎない素材性を有していること。ドボクのように、構造や構成は率直に見せたほうが、かえって隠れた重みが消えること。カワイイ自律したディテールが、決定的にその場の空気を変えること。キャラとしての象徴性は、自然に生まれたもののようであるほどユーモアを生み、使い手にその建築の総合体験を思い出させること。これらは相互に関連している。《青森県立美術館》の窓からのぞく構造体の軽やかな愛らしさは、たとえば《大宮前体育館》のうねったコンクリートの内壁[fig.6]と同じだ。階層的な秩序で建築が統合されているのではなく、大きなものと小さなもの、構造と意匠、機能と遊びといったような、言葉だと分断されがちな各部が重なり合う。そのことで建築の全体性が生まれている。

青木さんは編年的な整理が当たらず、理論で押さえきれない類の建築家だろう。2つの性格は関わりあっている。つくり手としての自分のなかの判断に沿っているから、AからBへと作品の説明が移行することはない。本人の言葉は、そうしたつくり手の領分を正しく確保するためにある。
手法を説明する言葉を本人のなかから探すと、「建築にする」という表現が一番近い。「建築」という単語が用いられている。「建物にする」ではないのである。かと言って、「建築をつくる」といった強く能動的な言い方ではない。でも、「建築になる」という受動形とも違う。1999年に書かれた「ウイルス的設計論」という短文のなかの言葉である。冒頭と中間部分を引用しよう。

「建築をつくる」ではなく、「建築にする」。だんだんこういう言い方の方がピンとくるようになってきた。発端がなんだったのかはもう忘れてしまった。だけれど、たとえば熊本アートポリスの一環としてつくらせてもらった「馬見原橋」のときなどは、今思えば、もうほとんどこのことだけを考えていたような気がする。
〈中略〉
つまり、何がなんでもゼロから創造する、というようなヒロイックな態度より、そこに既に存在している環境に潜りこんで、小さな声で囁くだけだけれど、しかしいつのまにかその環境を別のものに変質させてしまうという、何と言ったらいいか、もっとしたたかな態度の方への共感があったのである。★5


正直に打ち明けると、「建築にする」という表現を、私は原典からではなく、東京国立近代美術館主任研究員の保坂健二朗が『JUN AOKI COMPLETE WORKS |1| 1991-2004』(LIXIL出版、2004)に寄稿した「倫理は建築のために、建築は倫理のために」のなかから見出した。そこでは「『建築にする』という姿勢は、《MAMIHARA BRIDGE》と《BUREAU SHINAGAWA》とによく見てとれる」★6とし、「いずれのケースにおいても、設計を基本的に他者に委ねてしまっている〈中略〉神話的に働く青木の思考フレームは、他者を包含することではじめて機能する」★7ことを指摘している。読み取られた原典以上の含意に同意する。
さらに私は拡大解釈したいのだ。本人の口から何気なく出た「建築にする」という言葉こそ、自らの手法の吐露だと。青木さんは常に「建築」を考えている。そして、本人にとって建築は目的語なのだと捉えると、さまざまな特質が腑に落ちる。そこには「建築」とは自明にあるものではなく、到達すべき目標だという厳しさと、どこから始めても「建築」にできるという自負とが同時に現れている。単なる合目的的な施設でない「建築」にできるかどうかは、どこで設計を終わらせるか判断する際の、仕上げを決定する瞬間の、設計変更を余儀なくされたときの、つくり手の身体化された判断の蓄積にかかっている。後戻りができず、理性を超えた跳躍としての判断。「建築家」とは、たとえいかなるビルディングタイプでも、厳しい予算でも、つくることを余儀なくされたディテールであっても、そこから「建築」にすることをあきらめない意志と、それが可能な能力を持った者を言うのだろう。青木さんの建築の全体性、こちらが発見するような全体と細部の加減は、このようにして生まれている。
こうして考えていくと、私自身も少々意外だが、青木さんの作品に秘められた手法は、同じ民間建築家である村野藤吾と──磯崎新を除外するとすれば──もっとも近いという結論が導かれる。有名な「1パーセントの村野」論であれ、原典を読むと、次のように単純な建築家の主体論を超えているのだから。

究めつくして、99パーセントにいたろうとも、諸条件に耳を傾けることについて卑怯であってはならぬと思う。しかしながら、まだ1パーセントは残る。何人も侵すことのできない1パーセントが残る。たとえば村野の場合としよう。その村野自身でさえ、いかんともし難い聖域であるように思う。この1パーセントが、時として全体に及びあるいは全体を支配することにならぬとも限らぬ。建築家とその建築は、ここから生まれるのでないかと思う。★8

建物は社会の個別の状況のなかで発注される。「建築家」は、それを市民社会に貢献する「建築」にする補助員である。

あなたはわたしになれない

青木さんは1991年の独立以後、住宅建築と商業建築と公共建築の3つの分野で並行して存在感を示してきたといえる。デビュー作である《H》(1994)から常に住宅の新作が注目され、《ルイ・ヴィトン名古屋》(1999)以降の仕事はハイブランドと建築家との関係を語る上で欠くことはできず、《馬見原橋》(1995)、《御杖小学校》(1998)、《青森県立美術館》(2006)などで従来の公共施設の枠組みを揺り動かした。
もちろん、設計者がどの分野の仕事で有名になるかは、依頼と完成の有無とそこからの連鎖によるところが大きい。それでも、青木さんが住宅作家というアトリエ建築家の王道でありながら、コマーシャルな作家でもあり、県立の美術館が代表作に値する質であるという、近現代の日本では希有なタイプだということは偶然として片付けられないだろう。
住宅、商業建築、公共建築という異なった分野での仕事のなかに共通性が見出せる理由の第一は、設計者である青木さんがそれらを過度に区別していないからだろう。「市民」とは、何かに対抗する時にだけ生じるような概念ではない。人に直接的な迷惑をかけない限り、自分の暮らしができる、好きなものが買えるといった自由主義が市民社会の源泉であって、「一人一人が思い思いに」は資本の力や政治の力の行き過ぎに対する監視の前に、それとは無関係にある前提として捉えられる。住まいも、ハイブランドも、市民社会を構成する要素ではないか。
第二に、内部に容れるものに直接に触れない設計手法がある。住み手も、ブランドも、公共というものも、どこまで考えても理解できない他者であり、それらを括弧に入れたとしても機能する存在が設計されている。家族と言っても他人同士であり、生活も活動も変わっていく。商業はまさに変わりゆくものであり、公共とは何のことを指すのか結局はわからないとしたら、そこに何が頼れるだろうか。「動線体」や「オーバードライブ」、「原っぱ」はこれに関係している。目的を実体概念化しないから、従属的なだけでない「建築」になり、結果的に変化する内包物のためにも機能するのだ。
最後に挙げたいのは、冷徹な二項対立性である。《馬見原橋》[fig.7]は道が川の上に来て上下に分かれるという、基本的にただそれだけをつくっている。それは経験を2つに分かつ。下の道を通ったとき、川は近づく。丸い穴からは川面が覗ける。橋という構築物があるからこそ与えられる体験だ。上の道を通るのも悪くない。さらに遠くまで川の行く末を確認することができる。水の流れが町とともにあるのもわかる。どちらかにいるとき、もうひとつの側を想像したり思い出したりすることはできる。しかし、同時に経験することはできない。同じ風景であっても、みな同じ体験をしているのではない。《馬見原橋》はもちろん熊本県上益城郡山都町にふさわしい穏やかな橋だが、それは自他が合一したぬくもりの状態から引き剥がし、他者性へと覚醒させる装置にも感じられる。西洋には「広場」があるが、日本には人々が交流する「道」があって......などという時の「道」とは、だいぶ異なるもののように思える。

[fig.7]《馬見原橋》(1995)
筆者撮影

用途やスケールと関係なく青木さんの作品に特徴的な、視線の行き来、ワンルーム空間の回避、2つに挟まれた領域などについても同様だ。皆がつながる、のではなく、こちらとあちらが峻別されるのである。たとえば、視線が通る《遊水館》で感じるのは、泳いでいる人にはなれない、ということだ。泳いでいる人であれば、それを眺める人にはなれない。わたしとあなたは別々なのである。もし、壁で分け隔てられていたとしたら、そんな誘惑と寂しさとを同時に感じる出来事も起こらない。装飾付きの壁で内外を隔てるのが一般的なハイブランドのショップでも、青木さんは自らの公共建築や住宅と同じように、あちら側とこちら側を創出する。《ルイ・ヴィトン名古屋》の魅力的なモアレは実体のない、行き着けない場所である。永遠にたどり着けない何かを感じさせるかどうか。それがハイブランドとそうでない商品との決定的な差異だ。だから、これも施設用途からの当然の展開であり、施主に利益をもたらすことで建築を作り続けてきた、現在では珍しい純粋な民間建築家らしい技法である。
「一人一人が思い思いに」は原理的に、寂しさと表裏一体である。あなたはわたしになれないし、わたしはあなたになれない。だから認めたい。他者性に根ざした青木さんの作品は、建築が市民社会そのものであることを示している。




★1──青木淳『青木淳 1991-1999(建築文化シナジー)』(彰国社、2006)p.7
★2──青木淳「2008年から2011年」『JUN AOKI COMPLETE WORKS |3| 2005-2014』(LIXIL出版、2016)p.121
★3──青木淳「『原っぱ』と『遊園地』」『原っぱと遊園地』(王国社、2004)p.16
★4──[★2] p.42
★5──青木淳「ウイルス的設計論」『原っぱと遊園地』(王国社、2004) pp.230-231
★6──保坂健二朗「倫理は建築のために、建築は倫理のために」『JUN AOKI COMPLETE WORKS |1| 1991-2004』(LIXIL出版、2004)p.26
★7──同上
★8──村野藤吾「建築教育考」『建築雑誌』(1979年7月号、日本建築士学会)p.4




倉方俊輔(くらかた・しゅんすけ)
1971年生まれ。建築史家、大阪市立大学大学院准教授。単著に『吉阪隆正とル・コルビュジエ』(王国社、2005)、共著に『生きた建築 大阪』(140B、2015)、『これからの建築士──職能を拡げる17の取り組み』(学芸出版社、2016)、『吉祥寺ハモニカ横丁のつくり方』(彰国社、2016)ほか。


201606

特集 青木淳 かたちってなんだろう


《大宮前体育館》から考える
《馬見原橋》から考える
建築が町にできること
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論理場としての建築の開放性について
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