建築のAIはバベルの塔か

豊田啓介(建築家、noiz主宰)

日本の建築界は、いまだにデジタルアレルギーから抜け出せないようだ。


さすがに最近では、CADを使うとスケール感が失われる即ちデジタルはダメといった、10年前まで主流だった暴論はほとんど耳にしなくなった。しかし、デジタルvs.アナログというあまりに単純化され、価値を生じうる解像度を雲消霧散させてしまう二項対立がまだまだ理解の主流であるということも否定できない。いわゆるデジタル系の人から、建築プロジェクトでの魔法使い枠扱いを何とか打破したい(そうしないと本質的な関与ができない)という話は日常的に聞くし、noizでもそうした「なんかデジタルすごいことできるんでしょ?」的扱いに苦い思いをすることも多い。仮にそんなデジタルとアナログなどという二項対立があるとすれば、それは個人的な経験や理解度を投影したホログラムにすぎないというのが僕の意見で、CADやBIMを使ったとたんに人の能力が五割増しになるわけはないし、デジタル技術は魔法の自動販売機ではない。


同時に、デジタル=CADやBIM、もしくはGrasshopperのようなアルゴリズムエディタの利用がその極致であるかのような、表層的な理解で止まってしまう傾向もまた現実だ(そしてそうしたソフトウェアもまた、魔法道具扱いを受ける)。CADが手での作図の直接的な作業置換ツールだとすると、BIMはもう一歩先、あらゆる建築関連データが社会の共有データベースとしてクラウド化され、法的な情報まで含めてほとんどすべての建築データを疑似的に構築してしまう(そこには工程としての時間軸や予算なども含む)ことを(究極的には)意図している。CAD/BIM業界はGrasshopperの成功によりオープンカルチャーの価値と力がようやく認識され始めている状況で、真にオープンかつ流動的で、クリエイティブな開発力が真価を発揮できるような状態にはまだ至っていない。CADもBIMもまだほんの黎明期、甲殻類の成長過程で言えばまだゾエアかメガロパ程度の段階にある。そうしたランドスケープを広く見渡した上でこうした技術に付き合わないと、得てして本当の可能性の在り方を見逃して間違った場所に安住してしまう。


デジタル技術のプラットフォームも、そしてそこで扱われる情報の形式も、本当のグローバル化はまだこれからだ。すでにnoizの実務でも、つねに台北事務所とオンラインで接続しファイルやビデオチャットのやり取りが間断なく行なわれているし、現在進行中のカリフォルニアの住宅プロジェクトでは、東京事務所とサンフランシスコのローカル事務所や構造事務所が並行して共有ファイルに接続し、最新の設計情報を共時的にBIM上でアップデートしながらウェブブラウザ経由で設計を進め、出張中の僕も乗り継ぎの空港からそこにアクセスして諸々指示を出すようなことは日常になっている。就職希望のインタビューは世界各地と接続しながらビデオチャットで行なわれ、技術資料もすぐにクラウドベースで共有される。こうした流れは今後も加速度的に広がっていくだろう。同時に、情報プラットフォームのグローバル化が進めば、すべてのデザインやプロダクトが画一化され同じ仕様、同じ価値観に支配され差異が消失するのではないかという懸念も生じる。果たしてそうだろうか。


大きな虹色のゼリーを考えてみる。多色構造は地層状でもいいし水玉状でもいい。デフォルトがどんな形状だろうと、ゼリーである以上色の分布は固定されている(そしてたぶんとてもきれいだ)。それに対して、十分に流動性の高い系、例えば水の中にレインボーカラーの微粒子が浮かんでいる場合はどうだろう。仮に初期状態が上記のゼリーと同じ色の配置だったとしても、敷居を取り去った瞬間から色は徐々に混ざり、全体の色はコロイド状に均質化される。ただし、外部からの熱の入力と一定以上の規模がある限り、ベナール対流のような散逸構造が生まれ(ベナール対流は味噌汁の対流構造として知られる自己組織化構造の例)、新たな非均質系へと転移する。この過程で一見色の分布は均質化され当初の差異、構造は失われることになるが、結果的にはより動的でバリエーションに富んだ新しい構造が生まれている。


流動性の高い開放系では、自己組織化により差異は自発的に発生し、かつ非決定論的に変化し続ける。系が異なれば当然構造も異なる。社会の高度な情報化とは流動性の高まりでもある。ゼリーからコロイドへの転移は技術的プラットフォームだけを見れば確かに均質化という面もあるかもしれないが、静的に閉じていた以前の社会よりむしろ差異は圧倒的に生まれやすい環境になっている。インターネットをブレイクスルーとする近年の情報化による社会の変化とは、こういう相転移の類なのではないか。


ただ、価値ある差異の発生数──そんなものが量子化できるとすれば──が指数関数的に増えるに伴い、それらの社会に対する有用性の寿命もまた短命になり、かつ成功(認知)への確率はより個人の能力以外の確率論に依存するようになる。パー・バックの砂山のメタファーにあるような、より純粋に自己組織化臨界に支配される世界であり、そのなかでほんの小さなエージェントとしての個人は、ひたすら系の持つ性質、傾向に従わざるを得ない。それでも現実の系は複合的で偏在的だから、それらのスケールや組み合わせをうまく読み解けば、間接的に大きな影響力を持つようになる個人やチームも出てくるだろう。情報化が社会の複雑系としての性質を高め続けるとしたら、そうした人間の知覚限界を超えたフィールドで勝ち残ろうとする人・企業には、どうしても知覚限界を超えた情報を上手に処理できる力が要る。つまり、AIは必然でしかないということだ。ゲームは確実に変わりつつある。


そんななか、建築界はそれに見合った教育を提供しているだろうか。


マリオ・カルポ『アルファベット、
そしてアルゴリズム:表記法による建築
──ルネサンスからデジタル革命へ』
(鹿島出版会、2014)

現在の日本の主要な建築系大学の体系分けは、明治の工部大学校の構造を原則としてそのまま引き継いだものになっている。意匠、構造、計画、材料、構法、歴史、環境などの分野ごとに研究室があり、授業が組まれ、学会も組織され、予算も配分される。欧米系の教育体系、すなわち建築学が独立の学部として意匠や批評、歴史や法規などに限定され、構造や材料などの工学系と分かれている体系、と比較した総合的な良さは十分に理解した上でも、昨今の急速な社会インフラ、特にデジタル技術がもたらす変化を考えたとき、このままの縦割り状態でいいとはとても思えない。マリオ・カルポが『アルファベット、そしてアルゴリズム』(美濃部幸郎訳、鹿島出版会、2014)のなかで建築のデジタル技術を既存の建築史に、特に情報と建築という視点から接続する意欲的な試みをしている。こうした動きはすぐにでも広がりそうなものだが、思うような変化はまだ見えない。おそらく現在の建築界隈のデジタルアレルギーは、デジタル技術史やその体系の未成立に起因する、既成の評価軸からの距離が相対化できないところに要因がある。マリオ・カルポの切り拓く獣道の後ろには、未開拓の荒野が広がったままだ。


noizではこうした分野を「建築情報学」と名付けることを提案している。まずは概論というかたちでもいいから建築情報学の体系化や、まずはCAD史など直接目に見える技術体系の整理を行なうことで大学講義レベルの教科書をとりまとめ、どの建築系大学でもそうした授業が可能で、情報系研究室がどの大学にも開設され、毎年そうしたテーマで論文が積み重なっていくような状況を早々につくるべきだと提唱し、その準備活動も少しずつではあるが、勝手に始めている。UberやAirbnbが見せた、これまで経済的に価値を持ち得なかった離散的なロングテール要素がデジタル技術でつながることで、一気に巨大なマーケットに化けるという劇的な構造変化と同じようなことが、情報技術を基礎として多様な分野間で今後さらに生まれてくる。データの流通や保存、プログラミング技術、編集や判断の技術など、異分野間の共通言語として、デジタル技術の存在感が今後も右肩上がりで高まっていくことは間違いないなか、情報学の体系が基礎として整備され社会に実装されることで、ようやくAIという人間の処理能力を超えた新次元のコミュニケーション手段がその活躍の場を得ることになる。CADやBIMはそれ自体を目的とする技術ではなく、直近では情報を物質世界にアウトプットする各種デジタルファブリケーションやロボティクス、VRやARなどの、そして巨視的にはAIを産業や社会に実装するための技術的プラットフォームとして位置付けるべきだろう。そして建築という産業分野は、それをすでにある程度先行して実装しつつある、ポテンシャルの高い産業分野ということになる。


複雑系は、日常的にわれわれの生活に存在していて、その例は経済、有機化学、薬学など、分野やスケールに応じてほぼいくらでも見つけることができる。そして建築という産業は、一つひとつの局面では決定論的だが系全体としてはしばしば複雑系、もしくは「準」複雑系とでもいうべきかのような挙動を見せる。


例えば建築法規は個々には明確のように見えるが、解釈によるあいまいさ、土地や地形の与条件、国や地域差、既存状況や周辺状況との関係など、それらが積み重なることでグローバルには複雑系としての挙動を見せ始める。Googleが近年建築系分野に積極的に投資し、FluxSidewalk Labsなどを立ち上げさまざまな研究をしているのも、まさにこうした分野の最初のシステムを構築して、不動産や都市計画に必須な情報処理プラットフォームを構築することが目的のはずだ。ただ、この分野の複雑度はまだ十分な流動性を持つには至っていないにもかかわらず、人間の認知をはるかに超えて複雑で、扱いはそう簡単ではない。噂で聞く限り、Googleでもなかなか大きなブレイクスルーはできていないようだ。


建築という分野の特異性は、(複雑性の特性を示す分野のなかでは)個々の要素が前提として人の定義による人工物で、特徴量の抽出が比較的容易という点にある。松尾豊東京大学教授は人工知能をいくつかの世代に分け、特徴量の抽出は人間が行なう必要があるが圧倒的なデータ量の解析とその編集が可能なタイプ、例えばIBMのWatsonのような機械学習ベースのAIを第三世代AI、アルファ碁のように自ら特徴量の抽出も行なうことができる、いわゆるディープラーニングを第四世代AIとしている。十分な量の平面や立体配置の情報をCAD/BIMベースで収集し、目的ごとに編集できる体制が整えば、第三世代の機械学習AIでも部分的な設計への応用は比較的早期に可能だろう。AIは確実に入ってくる。


では、AIが普通に実装されるようになった社会では建築の職能はどうなるのか。わかりやすいところで言えば、いまの通常の設計スタッフのような立場は、AIの飼育係、調教師のような立場に変わっていくはずだ。そのほかにもAIの餌となるデータバンクの形成や栄養士に相当するデータ編集、買い付け担当に相当するデータマイニングといった職能が必要になる。もう少し大きな視点でデザインや設計の方向を決め、企業としての特徴・方向性をディレクションしていく立場としては、パラメーターの設定や抽出の勘所を新しいゲーム──デザインの、ファブリケーションの、法規や社会システムの──としてよく理解した、プログラマ的ストラテジストとしてのデザイナー──要はデジタル環境の勘所がよく分かったデザイナー──が求められるようになっていくだろう。現在でも建築家は指揮者のようだと言われるが、直接音や各楽器の奏者を「指揮」するのではなく、音を生み出す背景にある遺伝子を調整して、ある傾向や雰囲気、目的に応じた音楽が生成される「状況をつくる」職能とでも言えばいいだろうか。いまある建築の職能には消えるものもあるだろうが、新しい職能も多く生まれる。しかし、そのほとんどはいまの目では見えていない。


おそらく、第三世代AIの設計実務への最初の適用は、まずそれほど主観的な判断を必要としない汎用設計プロセスの中流に起こる。例えば中規模マンションやオフィスビルの配置や平面計画がそれにあたる。初期設定と目的関数の設定(入口)、および最後の形態の評価や微調整(出口)を経験ある建築家が行ない、その中間をAIが生成するような協業のかたちだ。いきなりすべてがAIに置き換わるのではなく、徐々に、ラフな平面構成やボリュームの検討など可能な分野に部分的にあてがわれていくことになるはずだ。第四世代AIは、複合的な都市再開発等での地域や都市全体の経済最適化シナリオを生成していくような分野では開発側/行政側双方で使われるようになっていくだろうし(アルファ碁のシムシティ版と言える)、スマート化してセンサーや各種デバイスが複合的に埋め込まれ、環境や人間とつねに相互作用しながら動的に──つまりは生物のように──変化することが建築物の常識になるに従い、個々のもしくはある建築群のOSというかたちで導入が進んでいくだろう。AIはメンテナンスフリーなエージェントではまったくないから、特に初期にはインプットにも教育にも維持にもかなり手間のかかる巨大な赤ちゃんのような存在で、経済的な実効性を持つようになるには相当の時間を要するはずだ。BIMの誕生以来、実効的な実装にかかっている時間が参考になるだろう(いまだに本来の実効性は実現されていない)。


第四世代AIはできるだけ多様な状況にさらされ、鍛えられ、鍛錬を積むことでよりロバストで信頼度の高いAIに育つという。つまりは設計の価値が、設計中に行なわれる仮想空間でのトレーニングの質に宿るようになるということだ。ハードウェアのオペレーションを担うAIは実際にハードウェアが使われ始める時点ですでに「賢く」ないといけないから、建築の場合そのトレーニングは設計工程と並行して行なわれる必要がある。つまりは、設計初期の段階で限りなくパラメーター設定や相関が現実に近い仮想空間がすでに用意されていて、そこで十分に訓練を積んだAIが(おそらく訓練自体もAIの仕事になっていくだろう)建築の竣工と同時に実際の建物に実装され、かつその後も成長を続けていくという流れがデフォルトになっていく。育ったAIと住人との相性もあるだろうし、仮想空間とは異なる周辺環境の現実への対応もあるだろう。こうしたAIはかなり多様な状況を処理し、おそらくインターフェースも人間の感情のような、複合的な感覚をひとつの表情というかたちで表わす(創発した表象系を扱う)ものにならざるを得ない。すなわち建築業界は、Pixarの技術を早々に必要とすることになる。おそらくそうした環境の形成はすでに始まっていて、2030年ごろには一般的になっているのではないか。


では、必要な環境は一体誰が整備するのか。例えばクラウド上の地図情報には高次元の建築情報(形状だけではなく素材、竣工年やインフラの改修履歴、構造、権利、周辺の地盤や風向、水脈などまで含めた)がつねに複合的に記録されていることが求められるようになる。そうした高次情報を扱うのは日本ではゼンリンかもしれないし、明らかにすでにその分野で大きく先行しているGoogleかもしれない。森ビルの東京模型はひとつのユニークな可能性を示したが、人間原理や物質性にこだわりすぎて展開可能性に踏み込めていない。一度仮想空間に現実の情報が実効的に構造化されてしまえば、その利用は逆に現実空間にも戻ってくる。そうして高次情報を現実空間にアウトプットし、インタラクティブに制御する技術としてのロボティクスも同様に、高度な情報プラットフォームの手足として存在感を増すことになる。Kivaしかり、Boston Dynamicsしかり、AmazonやGoogleといったデジタル技術に理解が高く、かつ資金力も豊富な企業がこれらの分野に圧倒的な投資を続けているのも必然でしかない。とりあえずAIやロボティクスを扱うために建築の世界では個々の建築の、または都市環境のアバターの構築が必須になるし、アバター環境は建築という分野を超えて、多くの産業の重要な基礎として大きな資産価値を持つようになる。


日本の最大の産業分野は建設と自動車だ。少数のメーカーによる寡占(つまりは資本の集中)状態にある自動車産業と異なり、建設業は大手5社でもシェア10パーセントに届かないような、施工元請け数万社が地域ごとに縄張りを守りつつ乱立するミクロコスモスを形成している。Googleのような企業の投資開発力に対抗するには、細分化された企業ごとに近視眼的な開発をしている場合ではない。業界を挙げた未来を見据えた投資が必要とされているのは明らかだ。現時点でそうしたリサーチを企業内で行なう体制はできていないし、外注で受けられそうな適当な企業も見当たらない。このままではせっかくのニーズが日の目をみないまま立ち枯れてしまうから、現在noizもかかわるかたちでそうした建築周辺のリサーチや実証実験を引き受ける、専門のプラットフォームを法人化する準備を進めている。


情報化による産業構造の大再編は他分野でも起こる。高次データの構造化やリアルタイムな可視化ニーズがさまざまな分野で高まるにつれ、BIM化やインタラクティブ化、ロボティクスとの連動などが先行して実装できるなら、建築界が新しいデジタル社会基盤で牽引可能な分野はかなり広くなる。既存の建設という分野にこだわらなければ、CADソフトの開発会社もゼネコンも、多様な分野のインタラクティブな情報の構造化や認知を担う基幹産業へと展開していくことも可能だろう。アウトプットが従来の意味での「建築」である必然性は──その重要な核として残りはするものの──発展的に低下していく。実際、noizの実務を通した実感としても、その傾向はかなり顕著になっていると言える。


僕は、いわゆるシンギュラリティはいま社会が恐れているような単純なかたちでは起こらないと考えている。知識の蓄積という分野では例えばすでにGoogle検索において人間が持ちうる知識を十分に凌駕しているし、こうした部分的なシンギュラリティは離散的に、段階的にすでに起こり始めているという理解は、武田英明国立情報学研究所教授も示している通りだ。多様な分野間には時差があり、それらのあいだの相互補完性、互換性を十分に維持できないまま個別に進展していかざるを得ないはずで、現実世界の持つ圧倒的な多様性が、シンギュラリティという言葉の単純すぎるSF的投影のイメージから現実を守ってくれる。ただ、部分的なシンギュラリティでも生活の「十分な」脅威となりうるのは確かだし、生活の劇的な変化にわれわれが耐えられないような状況になる可能性は大いにある。UberやAirbnbがもたらした、これまで産業規模で取り扱いようのなかった細切れの資産が突然圧倒的な集合としてマーケット化するなどというのも、ひとつのローカルなシンギュラリティのかたちと言えるのかもしれない。


旧約聖書にあるバベルの塔の逸話は、通常神への無分別な挑戦に対する罰としての多言語化として語られる。多くの地域言語に人間社会を分断し、相互理解を不可能にする罰を説明する教訓譚なのだという。しかし、そもそも単一で均質な世界はそんなに良いものなのだろうか。多言語に分断された世界はそんなに悪いものなのか。近隣や村落、中世的な国家のようなスケールでは、概して均質性は善だったかもしれない。が、あるスケールを超えた世界ではすべてを同等に扱うことは不可能であり不自然でもある。すべてをほぼ固定された固体(固いゼリーのような)として設計された人間社会と文化なら、地球文明はとっくに崩壊し消滅していたか、どこもまだ中世以前のような生活をしていたのではないか。おそらくはいまわれわれが生きている地球レベルでの社会と文化は、多言語な複雑系ゆえの文明であり、この多様性は偶然でも奇跡でもなく、つまりは高度に進化した存在の前提かつ必然でしかないのかもしれない。自然は人類の規模に応じて、必然として多様な言語(つまりは味噌汁におけるベナール対流)を生じさせ、同時にたゆまぬ努力でさらなる流動性を、より高次の多様性を生み出す環境を求めてきた。じつはバベルの塔の逸話とは、神から人類への最大の贈り物であり豊饒の約束ではなかったか。


こうした生態系として俯瞰的に、ほとんど神の視点で技術の進歩を見始めると、ケヴィン・ケリーの「テクニウム」の視点へと至る。技術がもたらす、より豊饒で多様な生態系。究極の技術への楽観は、十分に豊かな技術系こそが自然の一部であり意志であるという理解に基づいている。だとすれば、AIという流動化剤を用いた技術体系への移行もまた必然でしかない。


ケヴィン・ケリーと著書『テクニウム──テクノロジーはどこへ向かうのか?』
(みすず書房、2014)


さすがに神の視点にまでなってしまうと、ひとつの「考える葦」たる人間としては、ただ流れに身をゆだねるような解脱感に至ることを求められているのかと戸惑いもする。バタフライ効果の例が逆説的に示すように、複雑系の世界ではそもそもグローバルなスケールで決定論的な物のコントロールは不可能ではあるが、日常的な「ある程度」小さな世界であれば、「ほどほどに」影響をコントロールすることも可能になるだろうし、うまく入れ子状の組織に属していけば、相応に上手な計算は十分な対価をもたらすだろう。現実社会が否定のしようがなく複雑系なのだとしたら、人間は実効的な系のスケールを適当に嗅ぎ分け、その傾向を「ほどほどに」にコントロールするという「ほどほどに」実用的な、おそらくは21世紀の実学の基礎となる新しいデザイン手法を学ばなければならない。そこでの特徴量の抽出やその処理は、おそらくAIが行なうほうが本質的という状況になっていくし、われわれは新しい系という湖を漕ぎ回る櫂として、上手にAIと付き合っていかざるを得ない。おそらくAIがわれわれに求めるのは新しい職種というよりも、まったく新しいスポーツをプレイする覚悟であり、その新たなゲーム感覚を獲得する意識だ。個々の生活スケールのなかでの社会の情報量が人間の処理能力を超えるシンギュラリティはすでに起きている。流動性の高まりは止めようがない。気づくと20世紀というゼリーは溶けてなくなりつつある。バベルの神託は、ようやく遅れた約束を果たしつつあるように見える。




豊田啓介(とよだ・けいすけ)
東京大学工学部建築学科卒業、コロンビア大学建築学部修士課程終了。安藤忠雄建築研究所、アメリカのSHoP Architectsを経て、2007年より東京と台北をベースにnoizを蔡佳萱と共同主宰。台湾国立交通大学建築研究所助理教授、東京藝術大学非常勤講師、東京大学デジタルデザインスタジオ講師、慶応大学SFC非常勤講師。


サムネイル画像 by Jeremy hunsinger/CC BY 2.0


201607

特集 建築・都市──人工知能という問題へ


コンピュテーショナル・デザインと拡張するAI技術
建築のAIはバベルの塔か
人工知能の都市表象
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